第19話 旅立ち
その日、朝の稽古を終えて屋敷に戻ると、忠弥は驚いた。
屋敷全体がものものしい雰囲気に包まれている。母屋の方から、中間が慌ただしく
「おい、何があった」
奥に向かって声を張り上げると、女中の八重があたふたと現れた。
「おかえりなさいませ。忠弥様、急なお話でございます。美津様が東北の方へ嫁がれると」
「なにっ?」
姉の美津は、妹の生んだ赤子の
それゆえに何が起きたのか、全然理解できなかった。
「相手は誰だ」
八重に問いただすと、女中は唇を噛みしめ、百姓のお家だそうです、と云った。
厄介払い、という言葉を呑み込んだ。
「それで姉上は」
「落ち着いていらっしゃいます。辻駕籠を呼んだので到着したら、ご出立されます」
「なぜ……」
わけがわからない。
忠弥は真実を確かめるため、母屋へ急いだ。
「姉上、忠弥でございます。開けますぞ」
部屋の中からは返事もなく音がしない。
襖を開けると、落ち着いた表情に変わりなく美津が座布団に正座していた。
しかし、よくよく見るといつもと様子が違って見えた。何かを抱き締めている。
それは男物の袖だった。
「姉上……。それは」
これが原因か。
忠弥は悟った。
近頃のことで変わったことといえば、あの
あの日、大勢の客がこの家に来ていた。
美津は母屋に閉じ込められていたはずだが、もしかしたら、誰かが見舞いに来たかもしれなかった。
「姉上、失礼つかまつる」
そばに寄って、抱き締める袖を見て、あっと声をあげそうになった。小柄な羽織の袖には家紋がしっかりと入っている。
三浦家だ。
思い当たるのは、半之丞だった。
招待したはずなのに現れなかった三浦家。
その後、祝いの品だけは受け取ったと聞いた。だが、組頭は来なかった。
美津はあきらめていなかったのだ。
半狂乱の姉を見てゾッとする。
愚かなのは自分だ、と忠弥は気づいた。
祝いの後から、半之丞の様子が変わった。
あの者は、真実に気づいたのだ。
「忠弥さん」
姉の声に我に返った。
「姉上……」
「息子がこれを、わたくしにと預けてくださったのです」
「それは……」
違う、とは云えなかった。
「あの子は立派に育っておりました。わたくしの役目は終わりました。これから遠いところへ参らねばなりません。あの子に健やかに育ってくださいと伝えてくれますか?」
「はい……」
二人に何があったのか。
幼い頃、自分をかどわか(誘拐)した女にもう一度会い、人知れずここを去った半之丞。
誰一人気づいたものはなかった。
忠弥は体が震えた。
半之丞が何を考えているのか、分からなかった。
「姉上のお言葉、俺が必ず伝えましょう」
「まあ」
美津がにこりと笑顔になった。そして深々と頭を下げた。両手をついて、
「半之丞をよろしく頼みます」
と泣きそうな声で云った。
顔を上げたとき、姉はうつろな目をしていたが、しっかりと袖を抱いて離さなかった。
本当の息子だと思っているのだ。
そして、これから嫁ぐ先でも哀れみの目を向けられるのか。
いや、と忠弥は首を振った。
「姉上、あきらめてはなりませぬぞ」
「え?」
「あなたのお子はしっかり成長し、生きているんです。母のあなたがそんなでは、子は悲しみますぞ」
「そうね……。あなたのおっしゃる通りね」
「文を出します」
「優しいのね」
美津はそう云ってほほ笑んだ。
忠弥は、頭を下げて部屋を出た。
自分にできることは何もなかった。
姉ひとり助けることもできない。
見送ることもできず、美津は遠い遠い場所へと連れていかれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます