第17話 羽目を外すか



 忠弥は馴染みの居酒屋に向かった。

 道場から近いのでよく朋輩と呑みに行く店だ。

 暖簾をくぐると、元気な女の声がした。


「いらっしゃいまし! あら、忠弥さま」


 いそいそと女が寄ってくる。


「今日も来てくれたんですか」

「うん」


 刀を差したまま床几しょうぎに座る。兵馬は自分の隣に座り、半之丞は兵馬の前に座った。

 半之丞の顔色はすでに悪く。すぐにでも外へ飛び出して行きそうだ。


「酒を頼む」

「あい」


 女が奥へ引っ込み、忠弥は半之丞を見た。今は俯いている。


「三浦はこういう場所は初めてなのか?」

「はい。こいつ、酒も呑んだことないんですよ」


 代わりに兵馬が答える。すると、半之丞がきっと目を上げた。


「私はお酒など呑みたくありません」


 きっぱりと云い、突如立ち上がろうとする。


「えっ? ちょ、ちょっと半之丞っ」


 焦って兵馬が止めようとすると、酒を持ってお染が現れた。忠弥を見て切れ長の目を細めるとにこりと笑った。


「お待ちどおさま」

「おう」

「また、来て下さったんですね」


 お染が嬉しそうに云って酒とつまみを飯台へ置いた。そばに来た女の体からはいい匂いがした。


「こいつらにうまいものを食わせてやってくれ」

「はい。あら?」


 そう云って、お染は目をパチクリさせた。項垂れている半之丞に気がつく。


「どうかなさったの? 気分でもお悪いのですか?」

「お主があまりに美しいので緊張しているんだろう」


 忠弥が云ったが、半之丞は動かない。お染は心配そうに近づいて、そっと背中を撫でた。


「大丈夫?」


 優しく問いかけられて、半之丞が顔を上げた。


「まあ、綺麗なお顔」


 半之丞の顔がカッと赤くなった。まだ酒も飲んでいないのに目が潤んでいる。


「ねえぇ、この方とてもしんどそうですよ」


 忠弥はムッとしながら半之丞を睨んだ。


「こいつはいつもこんな顔だ」

「でも…」


 お染はそう云うと半之丞の背中を撫でながらそっと耳元に囁いた。半之丞が顔を上げて頷いている。それから何も云わずすくっと立ち上がると、あっけに取られている忠弥と兵馬を置いてさっさと店を出て行ってしまった。


「あっ、待てっ」

「忠弥さま」


 お染がそっと腕を取って絡ませてきた。


「離せ」

「嫌です。あなたの悪い癖ですわ」

「何?」


 忠弥がドキリとしたように体をこわばらせた。


「からかってらっしゃるんでしょう? あの方、震えていましたよ」

「男のくせに情けない」


 忠弥は憤慨した。


「お染、あいつに何を申した」

「気分がお悪いのなら、無理してここにいなくていいんですよって云ったんです。だって、気分が悪いのにお酒を呑むなんて」


 お染がため息をついた。


「あたしだってヤですよ」


 思惑がすっかり外れて、忠弥はますます苛立ったが、一緒にいる兵馬はあまり気にしていないようだった。


「忠弥さん、早く食べましょうよ」


 あどけない顔でにっこりと笑った。

 暖簾をくぐって出て行った半之丞の事など、最初からいなかったかのような態度だ。


「お主…友達ではないのか?」


 忠弥がためらいがちに聞くと兵馬はにこりと笑った。


「ええ。あいつ、よほど嫌だったんですね」


 と答えた。


 居酒屋で逃げられて、むしゃくしゃしたまま兵馬とお染と共に酒を呑んだが、何か物足りない。

 せっかく、半之丞から話を聞く機会だったのに、逃げるとは! 卑怯な。


 何故なにゆえ自分を避けるのか全く理解できなかったが、兵馬はすぐに酔ってしまうし、お染は話を静かに聞いてくれたが、明言せず黙っているだけで、その上何か思案しているようだった。

 忠弥が聞いても、あたしにはさっぱり分かりません、とはぐらかした。


 それから数日経って、まちなかでお染の姿を見かけた。立ち止って武士と話をしている。よく見ると相手は半之丞だった。

 お染はわりと身長が高く、小柄な半之丞と背丈はあまり変わらなかった。

 二人は親密そうに見えた。

 忠弥は、思わず立ち止りぽかんと口を開けてそれを見ていた。


 あの野郎! 俺の女を盗んだのかっ。


 憤りに駆られたが、見ているとまるで二人は姉弟きょうだいのように、笑い合っている。

 半之丞がしきりに頭を下げているが、お染の顔も柔らかく温かみがあった。


 あいつ、あんな顔ができるのか。


 半之丞の穏やかな顔を見て、どうして自分には…? と、いつもの問いに戻ってしまった。

 ぺこりと頭を下げて半之丞が去って行く。

 反対方向へくるりと背を向けたお染を追いかけた。


「お染」

「はい? まあ」


 お染がびっくりして口に手を当てた。


「忠弥さま」

「半之丞と何を話しておったのだ?」

「え?」

「とぼけるな、先ほど話をしておっただろう」


 お染が目を瞬かせてから、ああ、と笑った。


「挨拶をしていただけですよ。この前、ご気分が悪そうでしたから、そういう時は無理せず休んで下さいましね、とお話しただけです」

「嘘だ」

「は?」

「お主から声をかけるはずがない」


 お染は町人だ。相手は武士なのだから、うかつに声をかけるとは思えなかった。

 お染はため息をついた。


「お礼をして下さったのです。この前、お店に入っただけですぐに出て行ったことを悔やまれていたようで、あちらからお声をかけられたのですわ」

「迷惑をこうむったのは俺だ! 俺に謝るべきではないか」

「はあ……」


 お染は呆れたように息をついた。


「では、そのように申し上げたらよいではありませんか」

「あいつから謝るのが筋だろう」

「あたしの時と同じですわね」

「え?」


 お染の意味深な言葉にドキリとする。


「好きな方には素直にならない」

「む?」


 こめかみがピクリと引きつる。


「何か誤解をしておるようだが…」

「あら、じゃあ、あたしの事は好きでも何でもないんですね」

「お主の事は気に入っておる。男と女は別だ」


 まるで云い訳のようだが、ここはきっちりしておかねば、と思った。気にかかるのは、自分だけ阻害されているような歯がゆさがあるからだ。

 しかし、それを云えばただ自分がいじけているだけのように思えて、真実を明かすことも出来なかった。


「そうでございましたか。では、お気をつけなさいまし。このままではもっと嫌われるだけでございますよ」

「もう嫌われておる」


 きっぱり云うと、お染がくすっと笑った。


「では、そっとしておいてあげたらよいと思いますわ」


 頭を下げるとお染はくるりと振り返るといきに歩いて行った。

 後ろ姿を見て大きく息をつく。


 俺は嫌われている――。


 はっきりと云ってしまうと、むなしさが残った。


 なぜだ? あれほど懐いていた若者が自分の知らない所で背を向けていなくなろうとしている。

 自分が何をしたのか、さっぱり覚えがない。

 お染の云うように、そっとしておくべきだろうか。


 そうなのかもしれぬな。


 忠弥は珍しく自分を客観的に見て、少し距離を置こうと考えた。

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