第16話 稽古、初日
稽古、初日。
道場へ入り、忠弥は眉をひそめた。
林兵馬がいる。
二人だけだと思っていたのに、拍子抜けした。
兵馬は、忠弥を見ると飛び跳ねるように駆けてきた。
「おはようございます!」
「おはよう。なぜ、お主がここにおる」
「半之丞に誘われたのです」
「え?」
忠弥が眉をひそめると、袴姿の半之丞が廊下の向こうからゆっくりと歩いて来た。
おい、お主たちは
「おはよう! 半之丞」
「おはよう、兵馬。おはようございます。成沢様」
半之丞は、眉ひとつ動かさず静かにお辞儀をした。
忠弥は妙に胸がむかむかした。
兵馬には笑いかけるのに、こちらにはむすっとした顔で面白くない。
「俺より遅く来るのは許さんぞ」
低い声で唸るように云うと、半之丞は顔を引き締めて俯いた。
「も、申し訳ありませぬ」
しまった、きつく云いすぎたと思ったが、半之丞はのそのそと防具を置きに片隅へ移動してしまった。
「忠弥さんはお優しいですね」
出し抜けに兵馬に云われて面食らう。
「は?」
「だって、半之丞のためにわざわざ鍛えてくれるんでしょう」
「うん、まあな…」
「よかったな、半之丞」
気づけば半之丞が背後に立っていた。顔つきは暗く、俺はそんなに嫌な思いをさせているのかと思うと、ますます不愉快になった。
こうなったら辞めた理由を聞きだすまでは、しばらくは稽古を続けるつもりだ。
ふん! と忠弥は鼻で息を吐き、柔軟をするようと二人に指導した。しかし兵馬はきびきびと動きだしたが、半之丞はため息ばかりついている。
「おい!」
忠弥はすぐに半之丞を呼び出した。
「……はい」
「お前、やる気ないだろ」
相手の目を見ようとするが、半之丞は目を逸らすばかりだ。
どんなに問い詰めても、このままでは埒が明かぬ気がした。
しかも、次からは稽古にも来ない気配があった。
「俺が手伝ってやる」
「えっ?」
半之丞の腕をつかんだ時、初めて感情らしき表情が現れた。頬が赤くなり、目が潤む。細い腕だったが、少し筋肉がついていた。
「文句があるのか」
「あ、あの…、一人でできますから」
「できていないから、手伝ってやると云うのだ」
忠弥は半ばやけになって、半之丞を座らせると背中を押した。案外柔らかくぺたりと床に胸がついた。
全く、面白くない。
忠弥は深くため息をついた。
「最近、楽しそうですね」
道場で稽古をつけるようになって幾日か過ぎた。
稽古を終えて汗を拭いていると、またもや唐突に兵馬が云った。
半之丞は井戸端で汗を流している。相変わらず体の線が細い。
俺がこうやって時間をかけて鍛えているのに、あの男は…! ぶつくさ呟きながら、兵馬を見た。
「俺が楽しそうに見えるか?」
「ええ」
兵馬はにっこりと笑うと、半之丞の方を眺めた。
「半之丞も感謝していると思います。あいつは誰よりも忠弥さんの事を尊敬していますから」
「は?」
尊敬だと?
感じたことは一度もないが…。
しかし、それが
忠弥にはさっぱり理解できない。その時、ふと、先ほど兵馬の云った言葉を思い出した。
「おい、久しぶりに一杯やりに行くか」
「え?」
兵馬が目を輝かせる。
「それってもしかして…!」
以前、兵馬を居酒屋に連れて行き、たいそう喜ばれたことがあった。
自分の楽しみは、酒を呑んで女に会う事だ。
それこそが「楽しみ」だというのに、こんな生意気な男を鍛えているのを「楽しんでいる」と思われて、少しムッとした。
「そなたもお
「はい!」
兵馬は嬉しそうに笑って顔を赤くした。
「わたしのために、初めての酒を注いで下さいました」
大げさなもの
半之丞が女と対面した時、どんな風に慌てふためくか想像すると、これこそ楽しい気持ちになった。
にやりと笑い、半之丞が戻ってくるのを待った。
汗を流しさっぱりとした顔の半之丞は、にやにやしている忠弥を見て眉をひそめた。
涼しげな目元に清潔そうな薄い唇。立ち姿は背筋が伸びて、よく見れば半之丞は綺麗な顔をしている。
うむ、女が喜ぶやもしれぬの…。
密かに忠弥は思った。
「よし、では参るか」
出し抜けに言って二人を促すと、半之丞が慌てた声を出した。
「お、お待ちください。どこへ参られるのですか?」
「居酒屋だ。たまには羽目を外してもよかろう」
「えっ! そんな、成沢様、困ります」
「何だと?」
忠弥はわざと目を吊り上げて、半之丞を睨みつけた。
「そなた、俺が奢ってやると云うのに、それを断るのか」
「え…?」
半之丞は青ざめて唇を震わせている。
最近、こんな顔ばかり見ている気がする。
忠弥は一瞬、胸が痛んだが気にしないようにした。
「大丈夫だよ、そんなに怯えなくても」
兵馬がからかうように云うと、半之丞は軽く睨んだ。小声で云い返す。
「俺は行かなくたっていいだろう?」
「せっかくのお誘いなんだから行こうよ」
兵馬も小声で答えたが、半之丞は乗り気ではなさそうだ。
「ぐずぐずするな、参るぞ」
「はい」
兵馬に腕を取られて、しぶしぶと半之丞がついて来た。
それを見ると、思わずにやりとしてしまった。
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