第12話 恩人の名
六歳の時、姉に連れられて
どこかの武家の
何と云われたのか覚えていない。ただ、小者と手をつないで歩いた。その時、小者の手は震えていた。
連れられた先はどこかの寺だったか、
女性は、半之丞を見るなり、あなたは、私の子供でずっと離れ離れになっていた。探していたのです、と泣きながら抱きしめてきた。
六歳だった半之丞は、その女性が母親ではないことを理解していたが、泣いている姿を見てかわいそうだと思った。
素直に頷くと、武家の女性は優しく頭を撫でてくれた。
これからは二人で暮らしましょう、と云って微笑んだ。
そこで幾日か過ごした。
怖かったのは夜だ。
辺りは明りがいっさいなく、狭い場所で二人きり。たまに小者が食事を持ってくるだけで、夜は心細さに泣きそうになった。
しかし、自分は武士の子である。
泣いてはならぬ、と云い聞かせた。
さらに幾日かが過ぎて、小屋のドアを蹴破るようにして、元服前と見られる武士の子が入って来た。
武家の女は泣き崩れ、小者が項垂れて立っていた。
武士の子が自分の体の具合を確かめて、顔を覗き込んだ時、彼も泣きそうな顔をしていた。
「大丈夫か?」
武士の子は何度も聞いて、ぎゅっと抱きしめた。
「もう、大丈夫だぞ。お主の親元へ帰してやる」
「母上に会えるのですか?」
そう尋ねると、武士の子は、うんうん、と強く頷いて涙をこぼした。
「……すまぬ」
絞り出す声がつらそうだった。
「いいのです。ちょっと怖かったけど、大丈夫ですから」
それだけ云うと、半之丞はおそるおそる武士の子の肩に頭を乗せた。それから腕をまわして背中にしがみつくと、次第に眠くなってそれから寝入ってしまった。
お礼を云うこともできず、後から、武士の子の名前を聞いた。
成沢忠弥。
恩人の名は、成沢忠弥だった。
全てではない。
だが、半之丞は思い出した。
目の前にいる忠弥の姉こそが、かどわかし(誘拐)の犯人である。
だからあの時、忠弥は、忘れたのか、と云ったのだ。
そう、忘れていた。
思いだしてはならないと思っていた。
思いだしたら、彼は離れてしまう。思い出せば迷惑をかける。
子ども心にそう思ったのだろう。
半之丞はハッとすると、忠弥の姉の手をそっと握った。
「お名前をお聞かせください」
「まあ、母の名をお忘れか?」
忠弥の姉が泣きそうな顔で云った。
「わたくしの名は
名を聞いても思い出せなかった。
「母上と呼びなさい」
美津はそう云ったが、半之丞は首を振った。
「美津殿」
「母上と呼びなさい」
「いいえ、あなたは私の母上ではありません」
美津は首を傾げて半之丞を見た。
「いいわ」
ため息をつくと、半之丞にしなだれかかった。
「こうしていましょ。少し疲れたの」
美津は本当にしんどそうだった。青白い顔で頬骨にしわがより、髪の毛も薄い。
あの時は、とても綺麗な人だったのに。この人はいつから
こんな牢屋みたいなところに押し込められて、何年になるのだろう。
「私はもうあの時の子どもではないのですよ」
半之丞は優しく話しかけた。すると、彼女は首を振った。
「なぜ、そんな意地悪を云うのです? 母に会えたのがうれしくないのですか」
「私には好きな人がいるのです」
そう云うと、美津が体を起こした。
「え?」
「私はその方に迷惑をかけたくないのです。ですから、ここを出て行きます。今なら、何もなかった事にできますから」
「どういう事なの?」
美津には分からなかったようだ。
半之丞は悲しかったが、心を押し殺した。
「私は黙ってここを出ますから、あなたは諦めて下さい」
「何をおっしゃってるの? どこへ行かれるの?」
「私がここに居ては、あなたに迷惑をかけてしまう」
「母が子を望んでいるのですよ。どうして離れようとするのです?」
美津は泣きだすと
「あなたをずっと探していたのに。半之丞」
「美津殿」
「いやっ」
美津は駄々をこねる子どものように首を振った。
「行かないで、半之丞っ。いやよ、いやっ」
美津は畳に顔を伏せた。
「美津殿……」
半之丞が優しく背中を撫でると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
その青白い顔は、これまでもずっと何かを諦めてきた魂の抜けたような顔をしていた。
「戻って来てくれるんでしょ?」
「これを…」
半之丞は着物の
その袂を美津に渡した。
「あなたにあげられるものはこれくらいしかありません。もう、私のことはお忘れください」
美津は震える手で袂を受け取り、胸に抱きしめた。
半之丞は黙って立ち上がった。振りかえらずに襖を開けて廊下へ出た。中から泣いている声が微かに聞こえた。
閉められていた雨戸が開いていて、来たときと同じように誰にも見られずにそっと屋敷を後にした。
そういえば、風呂敷包みを忘れてきた。
しかし、自分が何かを持っていったことを知っている者はいまい。
半之丞は息を吐いた。
もう、二度と忠弥には会えない。
いや、会うまい。
半之丞は歩きだした。次第に小走りになり、目に涙がにじんでいた。
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