第3話 「外園友との雑談2」

 パチリと鳴った。


 それが油の跳ねた音だと気付くよりも先に、焼けたベーコンの匂いが鼻腔をくすぐる。


 あれだけ重かった瞼が自然と持ち上がる。閉めていたはずの遮光カーテンが開いていて、朝の日差しが覆いをなくした眼球にわっと群がる。光という刺激を受けたことによって目の前が真っ白になる。頭の中まで白に焼かれたかのように錯覚するが、そんなのは一瞬にすら満たない刹那の感覚で、視界には白い天井があるばかりだった。


 身動ぎをすると、腕がなにかに堰き止められた。壁だろうか? 寝返りが打てない。だからなのか腰や肩が鈍く痛む。よく分からないままに上体を起こすと、掛かっていたブランケットが肩から落ちた。そこで初めて、自分がソファで寝ていたことに気付く。


「あ、起きた?」


 聞き慣れた声が飛んでくる。


 ぼやけた視界を声のほうへと向けると、そこには外園ほかぞのがいた。


 セミオープンキッチンからこちらを覗いているが、その顔はまだぼやけている。目の焦点が合わないことを不思議に思い目を擦るが、それでもまだ外園の顔はしっかりと見えない。


「もう少しで出来上がるから、顔を洗ってきなよ」


 眉を顰めるだけで動かない俺をまだ寝惚けていると思ったのか、外園はそう勧めてきた。そこで気付く。外園の顔がぼやけている理由はフライパンで何かを炒めており、そこから上がる煙によるものだからだ。案の定、視界をズラせば世界の精度が上がる。

 

 大人しく外園の言葉に従い洗顔を済ませ、リビングに戻るとローテーブルの上に朝食と思われる料理が並んでいた。


 丸パン。スクランブルエッグにベーコン。ほうれん草のおひたし。そしてなめこのお味噌汁。


「和風なのか洋風なのか判断に困るな……」

「ふっふー。テーマは和洋折衷さ」

「これ、折衷出来てるいるのか?」


 極端ではないけれども、それでも、ほどよい中間を取れているかと言えば疑問が残る。朝食に味噌汁を希望しているのは俺なので文句は言えない立場だけれど、これならほうれん草はベーコンと合わせてソテーとかにした方がまだ良かったのではないかと思う。変に味噌汁に寄せようとした結果、逆にバランスが崩壊しているのではないかと考えてしまう。


 だが、外園は自信満々な様子だった。ズビシっと音が鳴りそうな勢いで丸パンを指差す。


「これね、お米パンなんだよ! 作ってみたんだ~」

「……なるほど。なるほど?」


 米パンってアレか。米粉で作ったパンか。パンではあるが米なので和寄り……みたいなことを言いたいのだろう。なるほど、確かにそう言われると和洋折衷が出来ているかもしれない……か?


「いや、米粉で作ろうがパンはパンだろ……」


 などとツッコミを入れてはみるが、じゃあこれが嫌なのかと言えばそんなわけではない。というか、別に食べ合わせに拘りがあるわけではないので、多分だが問題なく美味しく頂けるだろう。


 座って待っていた外園の対面に座り、手を合わせる。


「いただきます」

「いただきます」


 こちらの食事の挨拶を外園が復唱する。――個人的にだが、いただきますという言葉は食べ物への感謝というよりかは、どちらかというと料理を作った人への言葉という認識が強い。なので俺は今、目の前の人物に対して伝わるように声にしたのだが、さて、じゃあこいつは何に対してその言葉を向け発したのだろうかと、そんなことを考える。


 そんな胡乱なことを思いながら、とりあえず俺は味噌汁に手を伸ばした。



 □□■■■■□□



「ごちそうさまでした」

「はい、お粗末様でした」


 外園が急須から湯呑へと茶を淹れ、それをこちらに渡してくるのでありがとうと言って受け取る。それをちびちびと飲みつつ言う。


「米粉パンって初めて食べたけれど、なんていうか、結構重いな」

「ありゃ、ダメだった?」

「いや、好みだったよ。ただ、普通のパンの感覚で食べたからちょっと驚いただけだ」


 通常のパンよりも密度があると言えばいいのだろうか。それ故の「重い」という感想だった。味そのものに米感はあまりなかったけれど、食感や美味しさは好みだったので次回も食べてみたいとは思った。


「もうちょっとふんわり焼き上げることも出来たのだけれど、ハカタは今回みたいなのが好きだと思ったんだよねー」

「そいつは結構なお手前で」


 付き合いが長いこともあってか、外園は俺の食べ物の好みをしっかりと把握していた。実際、ここ数年で俺がこいつの料理に対して文句を言ったことはない。


 ふと、思い出す。外園と――ゆうと初めて会った時のことを。


 あの時はなんにもできない子供だった。同い年のはずの俺からしても、何も出来ない子供だと思わせるほどだったというのに、それが今ではこれである。時の流れに思わずため息が漏れてしまう。


「どうしたのさ。ため息なんて吐いちゃって」

「あぁ、悪い。ちょっと回顧にふけった。なんだっけか。幸せが逃げるんだっけ? やらないようにするよ」

「いやいや、最近の風潮では『ため息は身体にいい』という通説らしいし、どんどんすればいいんじゃないかな」

「なにそれ」

「なんでも、ため息は深い呼吸をすることになるから実質的な深呼吸になるんだってさ。それで、深呼吸は基本的に健康にいい行為だから、ため息は咎められるようなものではないとかなんとか」

「へぇ。なんていうか、その手の俗説がそうも明確に否定されるのも珍しいな」

「そうかな。俗説はいつの時代だってどうにか否定しようとされてばかりだとは思うけれど。俗説というのは根拠が曖昧なもののことだし、そういうのが嫌いな人は特に嫌だろうし」

「あぁ、血液型の性格診断みたいなやつとか?」

「そうそう。そういうのだね」

「はっはっは。反吐が出るな」

 

 血液型の性格診断はねぇ。それでみんなが楽しめるのならいいんだけれど、人の欠点や短所を挙げ連ねるために使われることが殆どになっているのが一番の問題なんだよな。


「ハカタはそういうの好きじゃないよね。占いとかもそんなにだし」

「悪口だったり否定だったり極端に不安を煽るために使われるからなぁ。そういうのは好きじゃない。朝の星座占いで一位だったから何かいいことあるかもしれないと前向きになったりとか、十二位だからちょっと気を付けよう、みたいなのは構わないけれど、それで誰かをバカにしたり不安を煽るだけ煽って人を不安定にさせるだけなのはいただけない」

「一位をわかりやすく大げさに盛り上げて、最下位には注意を促すぐらいの星座占いが好きなんだね」

「そうそう。なんなら、自分の星座が一位のチャンネルを求めてザッピングするぐらいが丁度いいとも思っているし」

「ザッピング……?」


 耳慣れない言葉だとばかりに外園が首を傾げる。おっとぉ……?


「……チャンネルを回すことをな、ザッピングって言うんだ」

「回す……?」

「天丼やめろ! お前ほんとは伝わっているだろ!」


 そう指摘すると、外園はニコリと笑うだけだった。なんではぐらかすんだよ。


「あとはなんだっけ……。そうそう、ハカタは雨男雨女概念も好きじゃないよね」

「あー、あれもね、本当に無理だわ。自分のことを特別な人間かなんかだと勘違いしてらっしゃる? ってなるものな。なんで人間個々人のために天候が左右されるんだよって思うよ。超常的な存在が自分を認識しているっていう思い上がりが見ていてゾワゾワする。そういうので『ジブン雨男/雨女なんだよねー』ってさも自身が影響しているかのように困った感じで言う奴もいるけれど、何が嫌かって『選ばれた幸福』には届かない矮小さを自覚しているからと『選ばれた不幸』でありたいというこっすい思考が透けて見えるのが辟易しちゃうわけだ」

「あはー。辛辣だねー」

「……今のはナシで頼む」


 喋っていて眉間に皺が寄っていたことに気付く。嫌いなものについてだらだらと話すだなんて、酷く非効率的なことをしていた。眉間を指で入念にほぐしていく。


「外園よ。好きじゃないとか、嫌いとか、そういうのはあんまり人と話すものじゃないから、その手の話を振るのはやめてくれよ」

「そう?」

「そうだろ。悪態も愚痴も、人に聞かせるものじゃない。悪感情ってのは伝播するんだ。悪感情が周囲に悪影響をもたらすってのは有名な話だろ」


 集団があるとして、そこに怠惰な者だったり、傲慢な者だったり、激情家だったりがいると、その集団の性能は落ちるのだ。怒られている人間を見るといたたまれなくなるし、塞ぎ込んでいる人間を見ると気落ちする。そうなった精神面は肉体にまで影響し、あらゆる効率を低下させる。


 腐ったミカンは周囲をダメにするし、割れた窓は治安の悪化を呼ぶ。そういったことを説明すると、外園は人差し指を空中にふるふるとさせて言う。


「案外、そっちが理由なのかもね」

「ん?」


 言いたいことが伝わってこないので、小首を傾げて続きを促す。


「ほら、ため息をすると幸せが逃げるって俗説さ。その俗説の根底にあるのは『ため息は人に聞かせるようなものではない』ってことなんじゃないかな。だから、ため息をさせないための方便としての『ため息をすると幸せが逃げる』という話」

「――あぁ、まぁ、確かにそうかもな。どれだけ健康に良かろうとも、ため息ってのは印象が悪い。呆れや落胆を想起させるからな。それを人前でするというのは、相手にそういう雰囲気を押し付けることになる」

「雰囲気が悪くなるからため息をやめて、って言うとなおさら雰囲気が悪くなりそうだもんね。それを防ぐために『幸せが逃げる』だなんて『曖昧だけれどそう言われるとやめておこうかな』と思っちゃうような言い回しになったのかもねー」


 存外、俗説が根強く伝承されるのはそういった部分があるのかもしれない。そう思い、色々な俗説を思い返してみるが……いや、そうでもないか。うん。普通に的外れなのがいっぱいあるな。


 なので、俺はこの話をそれっぽく締めることにした。


「頻繁にため息を吐くような人のそばにはいたくないから、そういう人のとこからは人がいなくなる。逃げるのは幸せではなくて、人なのかもしれないな。――いや、もしかしたら逃げた人たちこそが幸せの象徴だったのかもしれない。そういうことなのだろう」



 □□■■■■□□



「それでさ、どうしてため息なんか吐いたのさ? なにか悩み事?」


 話を締めたつもりだったが、普通に会話は続いた。


「いやなに。お前と会ったばかりのときのお前を思い出していてなぁ。あれがこんなにしっかりと育っちゃってと、なんだか置いてかれたような気分で、それで思わずため息が出たんだ」


 それはどちらかと言えば感心から出たものだった。だから、そのため息に後ろ向きな意味などないのだと伝える。すると、外園は思いの外驚いていた。驚愕とまではいかないが、驚いているのが理解できる程度には目を見開いている。


「珍しいね。ハカタがあの頃のことを話題に挙げるだなんて」

「えぇ……。話題に挙げさせたのはお前じゃん……」


 こっちは回顧していただけで、話題にするつもりはなかったのだ。聞かれたから素直に答えただけだというのにこいつは……。


「む。それもそうだね。それは悪いことをしたかな」

「別に悪かねぇよ。こっちには黙秘の自由があったのにそうしなかったってことは、その程度でしかないってことだし」

「そっかそっか。それなら、いいか。――それにしても、まるで保護者みたいな言い方をするじゃないか」

「半分ぐらいは保護者のつもりだよ」

「僕の保護者はお父さんとお母さんだよ」

「知っとるわ。心情的にはそうってだけだ」


 本当に心情的でしかない。


 実状で言えば外園夫妻がこいつの保護者なのはその通りだし、今現在の「朝餉を用意されてそれを美味しく頂いた俺」というのはどう見ても介護されている側だった。


 外園は親父さんから鍵を預かっているので、この部屋への出入りはほぼ自由と言っていい状態になっている。そして毎週土曜日、駅前にあるマンションの一室にて一人暮らしをしている俺の様子を見に外園がやってくるのは習慣化して久しい。


 3LDKという間取りは一人で住むには些か広い。部活動もバイトも習い事もやっておらず、人付き合いにも消極的な高校生男子にはかなりの可処分時間が存在しているので、家事にそれなりの時間を割いても問題はなかったりするのだが、俺という人間にはずぼらなところがあるためか手入れが行き届かないことがままある。そして、外園はそういった部分を補いにやってくる。とはいえ、自分のことを綺麗好きとまでは口が裂けても評価できないが、それでも、目に余るような惨状を避けたいという気持ちは人並み程度には存在するので、外園がやらなくてもいつかの俺がするだろう。だから、外園のそれはお節介以外の何物でもなかったりする。


 でもまぁ、本人が望んでいるのであれば好きにさせていればよかろうと、俺は適当な理由をつけてその状況を甘んじて受け入れてきたわけだ。楽が出来ていることに違いはないので。

 

 ――だが、しかし、そろそろ話が違ってきた。


 外園友には恋人ができたのだ。真枝沙耶という同い年の少女。


 これからの外園に待ち受けているであろう甘酸っぱい青春の日々を思うと、こいつをこんな場所で無為に遊ばせていていいのだろうかと考えてしまう。いや、別に遊んではいない。家事炊事に従事する姿はどちらかといえば労働者のそれだ。いや、別に俺は対価を支払っていないのでこれは労働ですらない。奉仕の類と言っていいだろう。……それはそれで問題か。


 時間を湯水のごとく浪費させている俺が言うのもなんだが、時間という資源は有限なのだ。虎になった李徴氏だって言っていただろう「人生は何事をもさぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い」と、そんなことを口先で転がしていたはずだ。男女交際に明け暮れるのであれば、こんな野郎の面倒を見ている暇などなくて、今すぐにでも愛しの彼女のもとへと赴いて親交を深めるのが正しい気もする。


 なので、俺はその話を振ることにした。


「あー、その、なんだ外園よ。最近、どうだ?」

「なにそれ。父さんが真面目な話をするときみたい」


 からからと笑われた。俺は何度か咳き込み、変な感じになっていた自分を調整する。


「お前さ、真枝さんと付き合い始めただろ?」

「うん。ハカタには付き合い始めてすぐに教えたよね」

「そうだな。お前真っ先に伝えに来たよな」

「うん。そりゃね」


 さもそれが当然のように頷く外園に「おかげでこっちは気持ちの整理をする時間もなかったんだぞ」と言いたいが、整理するほど乱れるような気持ちもなかったので、まぁ不問としよう。


「お前さ、貴重な休日にこんなとこにいていいのか? こういうときって彼女とキャッキャするもんじゃないの?」

「沙耶ちゃんはバイトだよ。土曜日はバイトで忙しいんだってさ」

「……さいですか」


 なんだよ。気を揉んだ俺が馬鹿みたいじゃん。


「沙耶ちゃんとは明日、遊びに行くよ」

「あっはい」


 どうやら、交際は順調なようだった。



 □□■■■■□□



 休み明けの学校。放課後の図書室にて。


 図書当番の責務を全うしようと、本棚から適当に抜き取った小説を開こうとしたところ、隣に座る真枝がこちらを見ながら言った。その目は笑っていなかった。


「八方くんに相談があります」

「なんでしょうか真枝さん」

「彼氏が私よりもあなたを優先している気がします」

「……本人に言ってください」


 どうやら、話し合いが必要なようだった。

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