第1話 「外園友との雑談」

「いさご?」


 間の抜けた声を出してしまった。


「そう、砂金いさご。砂の金、サンドゴールドと書いて“いさご”って読むんだってさ」

「それ、普通は“さきん”って読むんじゃねーの?」

「難読の一つだと思うよ。地名だと本の砂金と書いて本砂金もといさごと読むところもあるんだってさ」

「へぇ」


 中身の詰まっていない相槌を打ってしまった。


「つまり、印象に残った理由ってのは」

「そう、珍しい名字だよね」

「なんだ、えらく面白みのない理由だったわけか……」


 外園が他人に言及したことに大層驚愕していたのだが、その理由が思った以上にしょっぱくて肩を落とす。


 外園ほかぞのゆう


 こいつとは小さいときからの腐れ縁とも呼ぶべき間柄である。


 外園は男にしては背が低く、身体の線も全体的に細い。童顔であり、しっかりと見開かれた活力のある——或いは輝きに満ちた目は幼さを感じさせ、ともすれば中性的という言葉はこいつのためにあるのではないかと思わせる。濡羽色の黒髪だって女子で言えばショートボブぐらいには伸ばされているので、一見しただけでは性別が迷子になること請け負いである。


 稀に、外園というラビリンスに迷い込んだ哀れな子羊、もとい男子生徒が倒錯した性癖に陥ってしまうことがあるとかどうとか。ちなみに、俺の知っている範囲だと去年のうちに三名の被害者が出ている。その内訳は上級生二名と同級生一名だ。年度替わりに恒例で起きる学校内の新陳代謝(要は新入生の入学)によって迷宮に乗り込む英雄、あるいは被害者が追加されないことを祈るばかりである。


 高校二年生になって新学期を迎え、新しく入った学校の細胞どもについてとか、担任になった須江先生についてとか、そのあたりのよしなしごとをのんべんだらりと話していたところ、外園が美化委員会に入ったことを教えてくれた。


 ちなみに、ウチの高校では二年生になると必ずどこかの委員会に所属することになる。徴兵制かな? なんて皮肉を言ってみたりしたが、担任の先生に提出する用紙が薄桃色に染められた戦争後期の赤紙みたいな見た目だったのであまり笑えなかった。


 委員会への所属は強制ではあるけれど、スポーツ特待生だったり家庭の事情だったりがある人は名ばかりでほとんど活動しない委員会が当てがわれる。らしい。


 あと、生徒会や風紀委員会は一学年から所属できるらしい。風の噂で聞いたし、去年同じクラスだった勝村くんが生徒会に入ったとか言っていた気がするので多分合ってる筈だ。それらに所属している人たちも二年生での委員会所属は免除される……らしい。


 らしい、ばっかりで曖昧な理由は簡単で、俺はそっち側ではないので知ったこっちゃねぇからだ。


 外園とは同じクラスではあるが、誰がどの委員会に所属したかなども知ったこっちゃないので、俺はここで初めて外園の所属先を知ったことになる。


 ついでに補足しておくと俺は図書委員会の所属となった。主な仕事として、放課後に図書室の受付を当番制で行うことになり、面倒という気持ちそこそこだけれど、ごく個人的な事情により少しだけ楽しんでいたりもする。いや、そんな俺の個人的なことなどどうでもよくて。


 外園が「それで、一緒になった子がねー。興味深くてねー」と続けて喋り、そんな興味に対しての興味を示したというのに話のオチは非常に味気ないものでがっくりとしたのだ。


「いさご、いさごねぇ。なんか刺々しさがあるな」

「どんなイメージなんだか」

「カサゴ」

「連想が雑ぅ」


 外園がからからと楽しそうに笑う。


 こいつはだいたい楽しそうだ。いつも嬉しそうにしているし、いつだって気楽そうに喜んでいる。俺とは真逆……いや、俺だってそこまで終わってはいない。対極ではない。そこまでではないが、アレだ。よく言えば落ち着いているというやつだ。


 まぁ、なんだ。俺が安穏としている分だけこいつが明るいのだろう。要はバランスだ。いつもこいつと連んでいるせいで、そういう役割が定着したのだ。俺だって昔はもう少し明るかった気もするし、よく笑っていた気もする。自分のことなんて大して興味がないからあまり思い出せない。


 自分のことなんて、どうだっていいだろう。


 自分のことなんて自分が一番わかっている。考えるまでもなく、悩むまでもなく、そういうものなのだと結論が出続けている。だから、自分に興味などない。大事なのは他人だ。興味深いのは自分以外の全てだ。


「ハカタはどうなのさ、図書委員の仕事はどう?」


 外園は俺のことを『ハカタ』と呼ぶ。どこぞのお笑い芸人を彷彿とさせるので、そろそろやめさせたい気もあるのだけれど、今さらなので放置でいいかと諦めている。


「まー、ぼちぼちだよ。忙しくはないし、当番の日でも暇なことが多いぐらいだ」

「ふぅん、楽しい?」

「別に楽しいものではないだろ」

「そうかな? いつもなら、面倒くせぇとか言いながら愚痴の一つでも言いそうなのに、そう言い出さないってことは存外楽しんでいるのかと思ったのだけれど」

「俺はそんなに面倒くさがりじゃないだろ」


 抗議の視線を向けてみるが、外園はどこ吹く風と流した。


「そうだね、面倒くさいって言うことすら面倒くさがるタイプだね。それでさっさと仕事を終わらせるタイプだ」

「一周回って勤勉になってるじゃないか」

「いやいや、勤勉ではないでしょ。ただの効率主義だ」

「効率主義って勤勉家の類義語だろ?」

「斬新な見解だね」

「そうか? 勤勉であろうとするのなら、効率を考えるのは普通だろう? なら、行き着く先は同じだろうに」

「ふぅん。効率を考えないのは勤勉とは違うと?」

「それはただの無駄だからな」


 愚直であることが褒め言葉になるのは、誰にもおいそれと辿り着けない場所に到達できるやつだけだ。無駄と思われたものの積み重ねが必要なものであったと証明出来て初めて、それは岩を穿った涓滴だとされる。誰にでも辿り着けるところに遠回りするのはただのアホウだろう。そりゃ勤勉ではなく徒労だ。


 そんなことを言い連ねると、外園は目を細める。


「うーん、厳しいことを言うねー。というか、それだとやっぱり効率と勤勉は重ならないよ。種類が違うもの」

「種類?」

「そう。効率主義は在り方で、勤勉家は姿勢。どうあっても重ならない。並べることはあるけれどね」


 俺にはその違いがあまりピンとこなかった。そもそも、俺自身がそこまで考えずに喋っていることもあって、自分自身の言葉にすら確証が持てていない始末というのもある。


「へー」

「うわぁ、どうでもよさそうな相槌。でも、ハカタはそんなものか」


 そこで一度、会話が途切れる。放課後の帰路を俺と外園の足音だけが一定のリズムで鳴り響く。ときおり強く吹く風が髪を攫い、肌を擦る音が耳に鳴る。道端の茂みが揺れる音と混ざり喧しくなる。靴音と衣擦れと自然の環境音が織りなすコーラスを聞き流していると、遠くからやってきてすぐ横の街道を通り過ぎた自動車の駆動音が静寂や環境音を塗り潰していく。


 嗚呼、あまりにも益のない時の経過。


 いや、帰宅の途中であり、一歩ごとに自宅へと近付いていることを思えば無意味ではない。自宅に辿り着くためには必要な時間であるため、意味は確かにあるのだ。


 マルチタスクを当たり前のようにこなす人々が増えた現代において、歩いている最中に他のことをしないというのは損である。とまぁ、そんな共通認識があるように思えてしまう。数多の教育機関ではマルチタスク、もといながら作業の先駆者(?)である二宮金次郎を褒めそやし銅像にするなどして象徴としたことからも、日本ではそういう傾向があったのだろう。そういう意味では、ながら作業やながら運転、ながら歩きを老若男女問わずに行う現代日本は彼らにとって理想通りの在り方なのだろう。


 個人的には、そもそもとして、子供が仕事のついででなければ勉学に励めない環境に問題があるように思う。加えて、そんな在り方をありがたがって銅像にしてしまうような環境そのものがどうかと思ってしまう。むしろ、幼き頃の二宮尊徳――二宮金次郎という御仁を働かせなければならないような国の環境に恥入るべきなのではないかと、そう思ってしまう。


 当然のように、当時との環境が全然違うのも理解している。現代と違い、人々が生活のために割かなければいけない時間が多かったのも承知の上だ。幼い子供すら労働力として勘定するのが当たり前だった昔。役割の細分化、機械による自動化、延いては消費社会へと踏み入った現代日本において、それはすでに歴史の一部として語られるだけのものでなければならない。


 なればこそ、勤勉と倹約の象徴として二宮金次郎像を褒めそやすのはいただけない。あれは二宮尊徳という人物が幼少のみぎりに貧窮に喘ぎながらも努力を重ねた在り方を立派だったと示すだけであり、その在り方そのものを尊んで教育現場が象徴にするのはむしろ手抜きだろう。子供が二宮尊徳と同じような境遇に置かれたとして、一体どれだけの子が歯を食いしばり頑張れるだろうか。少なくとも俺は折れる自信がある。


 教育界が示すべきは、子供の誰もが薪を背負うことなく、座って勉学に専念できる環境を作ろうという心意気であり、薪を背負った子供を見て「立派だなー」とか言って頷いているだけの大人など碌でもないとしか言いようがない。大人を自負するのであれば子供の背から薪を取り上げ、今は勉学に励みなさいと言えるような人物であるべきなのだ。


 とまぁ、そんなことをつらつらと考えていたら左腕が掴まれた。歩みが強制的に止まる。何事だと掴まれた腕へと視線を向けると、外園が窘めるように言う。


「信号、赤。危ないよ」


 言われて気づく、横断歩道の直前にまで来ていた。


「ぼーっとしているけれど、体調でも悪い?」


 心配そうな表情をして、こちらの調子をうかがおうと覗き込んでくる。


「いやなに、考え事をしていてな」

「ふぅん、どんなこと?」

「ながら歩きと二宮金次郎の功罪、それに対する非難」


 不思議そうな顔をされる。仕方がないので先ほどまで考えていたことを言葉にしていく。


 一通り喋ると、外園はくつくつと笑う。


 なに笑ってんだこいつと思えば、外園は言った。


「二宮尊徳の話は僕も同じ気持ちかな。彼個人への賞賛はできるけれど、その在り方は教育界が奨励するようなことじゃない。百歩譲ってそんな辛い境遇でも頑張って名を残すまでに大成した人がいるという希望に据えるのはいいとして、それでも、子供に見せるべきはもっと明るい安心であるべきだよね」

「そうだろう、そうだろう」

「それこそ、ハカタの言うような“机に座った二宮金次郎”が理想像だ。それが当たり前となるような社会を目指すためにも、たとえそこに美しさがなくとも理想として掲げるべきだね。当たり前の美しさに気付けないというのは、とても幸福なことなのだから」

「そうだろうそうだろう」


 外園の同意に俺はうむうむと頷く。


「……とはいえ、それが二宮金次郎のながら歩きそのものへの非難に繋がるかというと微妙なところかな」

「なんでだ」

「ハカタも言ったじゃないか。時代が違う」

「ながら歩きはいつだって危険だろう」

「そうだね。前方不注意はいつだって危険だ。けれど、危険度は違うよ」

「ふむ?」

「二宮尊徳さんは江戸時代の人間だもの。江戸時代後期の人口は約三千万人ぐらいだったはずで、人口の密集度が全然違う。そして江戸時代の主な移動手段は徒歩だよ。あとはせいぜいが駕籠かごかな? その駕籠だって、車輪とかを使用しないから結局は人の足頼りだ。それらの事実を鑑みれば、よそ見をしたとしても、当たれば即死するような高速移動する物体もなければ、肩がぶつかるような人混みもない。農村ならなおさらだね。危険と言えるとしたら、肥溜めぐらいじゃないかな。破傷風や感染症は恐ろしいものね」

「…………」


 言われてみると、確かにその通りな気もする。だが、なんとなくこのまま言いくるめられるのもよろしくないのでなんとか反論しようと試みる。


「あー、ほら、アレだ。人力車とか」

「人力車は明治・大正時代に普及したものだよ」

「む……」


 ぐうの音も出ない。


「だから、歩いているときはきちんと前を見て歩く。そして考え過ぎない。せっかく道連れがいるのだから、添え物程度にたわいのない話をしようよ」


 外園とは実に七年近くの付き合いであり、共に無言であることに苦痛を覚えない間柄だ。とはいえ、だからといって淡交を是とするわけでもなく、基本的にはこういった四方山話をして日々を消化することが多い。


「あ、そうそう。お父さんがさ、そろそろハカタの顔を見たいってさ」

「ん? そうか? 以前に外園邸に行ったのは……」

「ちょうどひと月前だよ」

「そうか。じゃあ週末にでも顔を出しに行くと言っといてくれ」

「了解。夕飯の希望はあるかい?」

「以前に言っていたローストビーフ丼が気になる」

「はいはい。伝えとくよ」

「楽しみだ」

「それも言っておくよ。お父さん張り切るだろうね」


 ふむ。週末の楽しみが出来た。こうして些細な幸福を人参のごとく目の前にぶら下げられると、日々の生活に身が入るというものだ。

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