序章 第一話 貴族と野良猫と愚者

「醜いやつめ!」


濡れた雑巾が頭に当たり、制服を汚すように床にばしゃりと落ちた。

罵倒とその裏で嘲笑が聞こえる。


野次馬も幾人かいるが、どの生徒も目を合わせまいとしている、相手からも自分からも。


相手は三人組だ。

雑巾を投げたのそのうちの一人で真ん中の男の取り巻きのようだった。

中心にいる金髪で長身の男は、いかにも意地の悪そうな目つきをしている。


「おやおや、ダメではないですか。そのような汚いものを学院の廊下に落としては」


「大丈夫ですよ、ベルナール殿。雑巾というのは汚いものに使うものです、それにその扱いであればあのような下民のほうがよう分かっていましょう」


汚いものを見るように、また顔を顰めながら彼らは笑う。

どちらが醜悪なのかは明白であるが、しかし、この礼院では貴族の地位が強いという風潮が色濃く残っている。


ここ数十年、教皇派である貴族派閥が教会の実権を握っていた事が要因である。

それも、十年前のとある事件をきっかけに教皇派は今まで培ってきた地位から転落した。


近年、教会直営の学院【橄欖礼院エライオン】の門戸は、平民でもある程度の学力と魔力の保有量、そしてそれなりの入学理由がはっきりしていれば入学を許されるようになったのだ。


貴族派閥にとって平民の人間が教会の学院に在籍する事は、貴族自分らの権威の失墜と屈辱の証明でもあるのだから、気のいい話ではないのだろう。


(その当てつけがこれか、大したものではないが)


貴族の立ち振る舞いなど知った事ではないが、こんな幼稚な事は想像の域を出ない。

この程度であれば、気にも止まらないといった普段通りの顔をしてしまう。


その何食わない態度が気に入らなかったのか、取り巻きの一人が苛立ち始めていた。


「なんだ貴様、その目は?」


何事もなかったかのように、その場から立ち去ろうとした。

側から見れば、無視である。


「おい…この俺の言葉に何の反応もないとは、烏滸がましいにも程がある!」


取り巻きがこちらに向かって迫ってきた。


しまった、何かしら反応しておいたほうがよかったか。一々される事に答えるほど、自分はユーモアに富んでいないのだが。


相手が制服を掴もうと腕を伸ばしてきた。

自分の左手が、反射的にその腕を"弾き飛ばそう"と動きかけたその時、


「お止めなさい!」


その声に、動きだそうになっていた手が止まった。

相手の手が制服を掴むが、そのまま静止したままだ。


野次馬の後ろから一人の女生徒が前に出てきた。

その姿をみた者は後退りし、道を開けていく。


(この人は…)


その姿には見覚えがあった。

"半端な時期"に学院に入学したその日、学院長と対面した時に一緒にいた女性で、紹介してもらった事がある。


オランジュ・ド・ギュールズ


国を代表する名家の一つ【ギュールズ家】の娘。

その時は肩書こそ言われなかったものの、非常に優秀な生徒であるから困ったことがあれば彼女を頼りなさいと教えられた。

それ以降、見かけはするものの、助けを乞うほど困った事もないから話したことはないが。


「生徒と模範になるべき名家の嫡男が、公衆の面前でやり返す事のできない弱い立場の者を一方的にいじめる、そのような行為見過ごせません!」


普段の声音は優しく落ち着いた印象であったが、はっきりと感情を表に出して怒ったりすると、真っ直ぐとした芯のある声が通るようだ。


彼女は制服を掴んでいる取り巻きの男子生徒を一瞥すると、その勢いに怖気付いたのか男は手を離して後ずさった。

そして、その後ろで腕を組んできる金髪の男に向かった。先ほどまで嫌らしく笑みを浮かべていた男から余裕が消え、顔を顰めてこちら側を睨んでいた。


「これがかの「金獅子の矜持」と呼ばれたオーア家のやり方なのかしら。ベルナール・ド・オーアさん」


お互い顔見知りなのだろう、二人はお互いの間合いで牽制し合うように話し始めた。


「おやおや。学年主席様がこのような形で出張ってくるとは思いませんでしたな」


この二人が対面ということは、それぞれの名家同士の衝突を意味している。

お互いそれを分かった上で、譲れない部分があるようだ。


「しかし、よいのですか?

そのような出自もはっきりと分からない者を、この橄欖礼院に!付き人や使用人ならまだしも、我々と同じ学院の学生として入学させるなど、学院の品位を損ねる事になると思い、私は秩序の意地をしているのですよ」


「彼は聖炬火教会が定める規則を遵守し、学院の試験を受けて正式に入学しています。

あなたの個人的な選民思考でどう思うかは勝手ですが、それを"貴族の矜持"とこじつけて、与えられただけの権力を振りかざす事は、同じ名家の生まれとして見過ごせませんし、彼のような優秀な学徒の道を阻むことは、決して許されません」


見えない火花が散っている。

自分が原因とはいえ、かなり気まずい空気になってしまった。

貴族として、お互いに言い分があるのだろう。


オーア家のような今も昔も変わらない貴族至高の考え方は、貴族自分らの立場や教会の秩序の維持や品位を下げる事を良しとしない。

しかし、オランジェのように寛容な貴族もいる。


その原因は、教会の教皇派である貴族派閥の衰退が起因している。

現在の聖炬火教会の大主教の一人に、騎士団長が据えられる話がでてるくらい騎士団の地位は確実なものとなって来ているのだから、貴族派閥も騎士団に傾倒する者も増えているし、才能があれば平民を入団させる事に反対する意見も少なくない。


「ふん、そうですか。

いいでしょう、今回は清廉潔白なオランジェ女史に免じて、そこの下民を見逃してやろう。

だが、あまり表立って過ごさないことだな。下民という存在をよく思わない人間は私だけではないのだからな」


何とか熱は収まった様子で、言いたいことは言い終えたのか、取り巻き共に去っていった。

そうすると、終始二人のそのやり取りを野次馬見ていたしていた生徒達も散り散りになっていった。

成程、貴族の嫡子同士の小競り合いは、いわば学院という小さな国のなかでの勢力争いに近い。その為、生徒はどちら側につくか見極める必要がある訳だ。だとすれば、


(彼女こちらの方が分が悪いだろうに)


いかに学年主席といえど、出自の分からない孤児院上がりの人間を庇うとなれば、約七割が貴族や名家の学生が占めるこの学院であれば反感を買うだろう。

こんな素性の知れない人間を気遣ってくれることは有難い話だが、余計な迷惑はかけられない。


とりあえずお礼はしておこう。

そう思い彼女に向き直る。


「オランジェ様、先ほどは助けて頂きありがとうこざいます」


「セロさん!お怪我とかはありませんか?」


すると、話しかけらた彼女は、何故か反応が大袈裟になった。

先ほどの凛として清々しい姿勢はどこへやら。


「はい、制服が少し汚れたくらいで。

それよりあのような事があっては、学院の生活に差し支えがあるのでは?」


「問題などありません!

先程のベルナール殿の振る舞い、同じ貴族として無視することが出来ませんでした。彼に代わって非礼をお詫びします」


何故か当の本人ではなく、関係のない彼女が頭を下げる。

恐れ多いとこちらも頭を下げる。

とても優しい人だが、その優しさはどちらも良くない方に作用するだろう。


「自分の不注意が招いた事です。オランジェ様が気に病むことではございません」


丁寧な口調で、事を荒立てずに身を引いて貰いたいところだが、何か彼女は言いたそうにもぞもぞとしている。


「あ、あのセロさん。その名前なのですが、同じ学年なのですから、その様付けというのは少し距離を感じるといいますか…」


(…どういった事だろうか)


何というか分からない人だ。

利他的な一面は彼女の気質なのだろうが、それにしては身分の低い者を気にかける、言い方が悪いが馴れ馴れしい感じがする印象を持ってしまった。


「自分は学院の生活にこれ以上の支障が出るような行為は慎みたいのですが」


遠回しに断ってしまった。これはこれで彼女に不快感を与えてしまう可能性もあるので出来ればしたく無かったのだが、人付き合いの少ない自分にはこれが限界であった。


彼女は、「はうっ!」っと何かショックを受けたのか体がよろめき、そしてまた立ち直った。

忙しい人だ。


「そ、そうですよね。まだ、友人にもなって日が浅いですし、急に呼び方を変えてほしいというのも図々しいですよね…」


ん…?

何か聞き間違いだろうか。


「オランジェ様、友人というのはどなたの事でしょうか?」


当たり前の疑問を、そのまま反射的に口に出してしまった。

しばらくの間、それが致命的なミスである事に気づいたが、時は既に遅かった。


「あ、あう、あう」と、口を閉じたり開けたり放心した彼女は、次の瞬間、若干目に涙を浮かべ赤面したご様子で、


「た、大変失礼致しましたー!!」


と、明後日の方向へ走っていくのでした。


一体、何だったのか。

これで「無礼者!腹を切れ!」などと言われれば、それは仕方のない事で受け入れる訳ではないが、そのくらいの事は言われる覚悟はしていたのだが。


全く貴族という人間は感性は理解できない。

それ以前の大前提で、自分の目的の中では、彼らのような存在とは決して相容れないのだが。





人気のない学舎裏。

ここには古井戸があり、そこで汚れた制服を洗いにきた。手入れは定期的にされているのか、井戸自体も比較的に綺麗だし、水も飲むにはやや不安だが洗い物をするぐらいであれば充分なものだった。

この立地は井戸以外に特に設置されているものもない。

隣接する校舎の部屋も物置だったり、準備室だったりと用のある生徒もほぼ訪れることのない隠れたスポットとなっている。


学生寮でも洗濯は出来るが、どうしても人の目を気にしてしまう。学院にとって異例イレギュラーな存在である自分は出自もそうだが、この容姿から忌み嫌われるからだ。


「あ、これも汚れちゃったな」


顔の右側を覆う眼帯を外す。

右顔全体に焼き付いた火傷の痕。

痛々しく残るそれは、今もなお熱を帯びているように疼く。


"あの日を、決して忘れるなと責めるように"


にゃー


心象に浸りながら、制服と眼帯を洗っていると、一匹の猫が歩み寄ってきた。

茶色いに黒い帽子を被ったような毛並みをした珍しそうな猫だ、と初めて見た人間であれば思うだろう。


「学院には来るなと、忠告したはずですが」


独り言のように呟く。すると、猫はこちら側を見上げて欠伸をした。


『まぁ、堅いことを言うなよ。君が学院以外に出かけるのをいちいち特定するのが面倒でね、用事は手早く済ますさ』


頭の中に直接女の声が聞こえる。

【念話】

動物などの生物を通して他者に思念を伝える。現代の魔術よりもっと古い時代の秘術、だとか。


「"今朝の新聞"で見ましたけど、最近、やたら物騒な事をしているようですね。騎士団と直接事を構えようなんて、"あの人"がするとは思えないが」


『この前の教会支部襲撃の件かな。

相も変わらず"記者"はめざといな。

まぁ、【臥煙我々】も一枚岩ではないからね。本家の過激派が割り込んできて自分らの息のかかった部隊を送ったようだよ。もちろん組織の名前を使ってね。首領も頭を悩ませているよ、支援を受けている手前大きく出れないから困ったとさ』


臥煙がえん

現在の聖炬火教会の思想・理念に反感を持った者たちで構成された組織。

年々その活動は激しさを増しており、聖炬火騎士団と衝突する事例も多く、現在の教会が最も危険視している。

"本家"というのは、臥煙の活動を支援している"ある国"の中枢。国の規模で組織を後押しせている辺り、表面化されてないだけで国家間の戦争をしているようなものだ。


「師匠は…いや、ここに来たってことは仕事の依頼でもしにきたのか」


しばらく間が空く、声の主は何か考えているのか。猫の表情からは読み取れない。


『まぁ、確かにお願いしたい事があったんだがね』


汚れを落とした眼帯を付ける、制服の上着も取れているが水気を取るため部屋で乾かすことにする。


『一ヶ月後、ここから一つ離れた街の教会支部に騎士団の護衛をつけた聖炬火教会の要人がやってくるらしい。どんな人物かは不明だが、司祭団が動いている事から重要な人物らしい』


なんとも聞く限りどれも未確定な情報で、怪しい話に聞こえる。

臥煙には、情報収集を専門とした工作員も在籍しており、彼らが教会へ潜入してそこから様々な教会の内情を得ている。


組織自体は教会を打倒するというわけでなく、本来はその根幹にある体制の厚生や不用意な犠牲を生み出さない事に活動の重きを置いていた。

しかし、ここ数年でその理念も大きく変わりつつあるのは事実であり、自分が臥煙から離れた理由でもあった。


『もっとも首領からは、今の君には戦場にいて欲しくないと言っていたよ。だから我々も無理強いはしないよ?だが、覚えておいてほしい。"臥煙の牙"である君の才覚を必要とする者が、君が思う以上にいることをね』


「…それを決めるのは俺じゃないですよ」


自分には、判断がつかなかった。

その場で着いていく事もできる、着いていけば淡々と仕事をこなしていき、いずれは自分の目的に近づけるのだと、今でもそう思っているからだ。


だけど、あの人は。

師匠はその場所から自分を遠ざけた。何かそれには理由があって、だから、この学院に入学することも仕事の一環だと思って受け入れている。


『とりあえず顔を見にきただけさ。元気にしていたと、首領にも伝えておくよ。何か伝言なんかあれば聞いておくが』


「いえ、特にありません」


そうかい、とそれを最後に女性の声は聞こえなくなった。

要件は全て終わったようで、猫も自分といるのに飽きたかのように、壁を伝って飛び越えていき学院を後にしていく。


自分も濡れた制服の上着を抱えて、学生寮へと帰る。その帰り路に、街の中央にある巨大な塔が目に留まった。

炬火塔、人々が信仰する聖祈火を灯した結界装置。これによってこの街は陽が落ちた夜になっても安全に過ごすことができる。

まさに、聖祈火による奇跡。


轟々と燃える青白い炎を見つめる。

その揺らめく鼓動と同調するように、覆った火傷が疼くようだった。


忘れるな、忘れるな。

あの炎の熱さと、焦げついた家族の影を。


どこからかそう言われているよう、聖祈火の火を見ることで自分は常に"それ"を保つことができている。

いつまでもこの火傷に熱を帯びさせる"感情憤怒"を。


自分は見定めねばならない。

この聖祈火が、本当に人に幸福をもたらす祝福となるのか、この教会内側から裁定者として。

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