第37話 陰謀⑨

「ところでこのプールの水…これも、ほんの少し脅かすだけのおつもりだったということですか?」

 微笑むメフィストのボルドーの瞳がわずかに光ったように見えた。


「――――!」

 フローラが慌て始める。

 頭を上から強く抑えつけられるような、目に見えない強い力でのしかかられた感覚に襲われたためだった。

 懸命に上昇しようとしてもその力には抗えず、徐々に下降して服の裾が水に浸かり始めた。

 薄い布はシュウシュウと音を立てかすかな煙を放ちながら溶けてゆく。


 フローラの全身がガタガタと震え始めた。

「たすけて……」


 メフィストは首を傾げる。

「植物系魔族の消化液って、凄いんですね。もしもパール様とベリアル様が何も知らずにここへ飛び込んでいたなら、あっというまに皮膚がドロドロに溶けちゃったんじゃないでしょうか。あなたはどうかな?」


「やめて…」


「ライバルを姑息な方法で抹殺するのは魔族の在り方としては正解ですが、高潔な魔王様の花嫁としては失格です。このままプールに頭まで沈むか、おとなしく故郷に戻るかどちらになさいます?」


 メフィストは最後まで微笑みを絶やさなかった。




 魔王がプールの部屋に入ってきたとき、側近のメフィストがひとりプールのそばに立っていた。

「おかえりなさいませ、魔王様」

「なんだ、パールがいるかと思ったらおまえか」


 メフィストのほうへ歩み寄りながら魔王はわずかに首を傾げる。

「ほかに誰かいたのか?」

「いいえ、どなたも。…ああ、そういえばフローラ様はご実家へ戻られました」

「…そうか」


「それと、プールの水ですが、汚染物質の混入が認められましたので、一旦全て抜いて掃除することになりました」

「さてはベリアルがプールの中でお漏らししたんだな?」

「さあ、どうでしょうね」 


 くつくつ笑いながら部屋を出る側近のあとを追いながら、魔王は、そういえばとつぶやいた。

「帰りに迷いの森の木たちがみんな寝ていたから起こしておいた。なんだあれ?」


 メフィストがピタリと足を止めて、振り返った。

 その表情は、息をのむほど美しく、そして全てを凍り付かせるほどに冷徹だった。


「魔王様、あなたのその頭は飾りですか?まったくどこまで馬鹿なんだか。あなたのような方をニンゲンの世界では『お人好し』と言うらしいですよ?」


 訳が分からずぽかんとする魔王を残して、側近は「さっきあいつらに火をつけておけばよかった」とか「愛想尽かしされてしまえ」という物騒なことをブツブツ言いながら立ち去って行ったのだった。


 

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