第26話 忠誠

 昨晩は色々とあったものの、一晩熟睡したおかげで、朝にはみことの体力と気力はすっかり回復していた。やはり、いつでもどこでも眠れるこの体質は、みことにとって大きな強みだ。


 でも、幸斗はよく眠れなかったらしい。いつもは朝早く起きてくるのに、今朝はなかなか自室から姿を見せなかったし、食卓についても常より動作が鈍く、食事が終わるまでに随分と時間がかかっていた。


 昨夜、吸血したばかりなのに具合でも悪いのかと、心配になってたずねてみたら、幸斗曰く、一晩中父にねちねちと説教されていたのだという。


 みことたちの新居であるマンションの部屋はファミリー向けとはいえ、客間なんてものは存在しない。だから最初、みことの私室に刀眞が泊まり、幸斗の私室に夫婦二人で寝ようという話になったのだ。


 一人になりたい時もあるだろうからと、それぞれの部屋を決めておいた上、ベッドも二つ購入しておいたのだ。


 そして、みことの部屋に置いてあるのがシングルベッド、幸斗の部屋に置いてあるのがダブルベッドだったから、自然と父に一人で寝てもらい、みことと幸斗が一緒に寝ようという流れになっていた。


 まさか、こんな形でそれぞれの私室とベッドが役に立つなんて思ってもいなかったと、幸斗と笑い合っていたのだが、父が先刻の場面を目撃した以上、二人きりにさせられるわけがないと、駄々をねたのだ。


 それで仕方なく、みことは自分の部屋で一人で悠々と眠り、父は幸斗の部屋の床の上に持参の寝袋で寝ることにしたのだ。


 だから本来であれば、幸斗はダブルベッドを一人で贅沢に使って眠れたはずなのに、父のせいでろくに睡眠時間を確保できなかったみたいだ。


 同情の余地もあったものの、昨晩のことを思い返せば自業自得としか言いようがなかったから、そっくりそのまま伝えたところ、幸斗は項垂れてしまった。


「ゆきくん……そろそろ元気出して。瑠璃ちゃんのお見舞いに行くのに、ゆきくんの方が病人みたいだよ」


 現在、みことと幸斗、それから父の三人は入院中の瑠璃の見舞いに来ていた。

 病院に向かう途中で購入した、淡い紫色のスイートピーとカスミソウの花束を抱え直し、幸斗の頭をぽんぽんと優しく叩く。


「ありがとうございます、みこと……さっきカフェインを摂取したので、そろそろ効いてくると思います」


「ったく……ゆきの奴、なっさけねぇなー。一晩寝なかったくらいで、鬼は病気にならねぇから、気を強く持て。みことも、あんまゆきを甘やかすな」


 一晩中、長々と説教を垂れ流していたくせに、言いたいことを言ったら、あっという間に眠りに落ち、朝から元気いっぱいの父にそんなことを言われても、苛立ちを覚えるだけだろう。現に、幸斗は眉間に皺を寄せ、父に恨みがましそうな目を向けている。


「まあまあ……お父さんこそ、あんまり騒がしくしてると、今度こそ病院から出禁を食らっちゃうから、大人しくしててね?」


 みことがそうにっこりと告げると、父は先程までの勢いを失い、途端に黙り込んでしまった。


 ――そう、幸斗とのキスシーンをうっかり目撃してしまった父は、病室で暴れに暴れたため、駆けつけた看護師にみことが入院していた病室から追い出されてしまったのだ。


 その上、危うく病院の敷地にさえ足を踏み入れることが難しくなりそうだったのだが、最終的に今回だけは見逃すという結論に至り、その後も病院への出入りを許された。


 デニムのレギンスに覆われ、シルバーのパンプスを履いた足でリノリウムの床を踏みしめて歩いていくと、アイボリーのチュニックの裾がふわりと揺れる。


 幸斗はフォレストグリーンのVネックのシャツにアイボリーのスラックス、父は黒いオープンフロントネックのシャツにジーンズという格好で、見舞いに相応しい清潔感のある服装だ。


 目的地である病室の前に辿り着くと、引き戸を軽くノックした。


「瑠璃ちゃん、こんにちは。みことです、入ってもいいかな?」


「はい、どうぞ」


 引き戸越しに返事を受け取るなり、花束を抱えたみことの代わりに幸斗が開けてくれた。


 引き戸を開け放った先にある個室に足を踏み入れれば、ベッドの上で上体を起こしている、入院着姿の瑠璃が控えめに笑いかけてくれた。


 パンツスーツ姿をすっかり見慣れてしまっていたからか、瑠璃がくつろいだ格好をしていると、何だか違和感がある。


「刀眞様と幸斗様まで……わざわざ、ありがとうございます」


「いいって、いいって。いちいち頭なんか下げるな」


 ベッドの上で上体を起こした状態のまま深々と頭を垂れた瑠璃に、父はひらひらと片手を振る。それから花束同様、病院に行く途中で購入した果物かごから林檎を取り出すと、持参した果物ナイフで器用に季節外れの林檎の皮を剥いていく。


 刃物の扱いに慣れているためか、父は野菜や果物の皮むきが得意なのだ。


 幸斗がベッドサイドに飾られていた花瓶を手に取ると、前回飾ったしおれかけの花を回収し、みことと一緒に一旦病室の外へと出た。


 幸斗と共に、今日買ったばかりの花束を花瓶に活けてから病室へと戻ってきたら、父の話し声が聞こえてきた。


「――つーわけで、みことにはしばらく監視がつくことになった」


「そう……なんですね……」


 どうやら、先月末に決定したみことたちの処遇について、瑠璃に説明していたらしい。

 話の邪魔にならないように部屋の隅に控え、ベッドサイドに花瓶を戻す幸斗を眺めている間にも、父の言葉は続く。


「そのせいで、監視も含めてみことの護衛の人員は今まで以上に増えた。だから、瑠璃ちゃんが身体的にも精神的にもきついってんなら、みことの護衛を無理に続ける必要はねぇよ」


 心身ともに瑠璃を案じる父の言葉に、みことも幾度も首を縦に振る。


 今でこそ、鬼の回復力によって瑠璃は快方に向かっており、見た目も元通りになっている。だが、実際に負傷したことによってどれほど肉体的にダメージを受けたのか、見ただけでは分からない。


 しかも、瑠璃を暴行した鬼の一人は、かつての夫だったというではないか。肉体的なダメージも大きかったと思うが、精神的なダメージは計り知れない。


「さっきも説明したが、瑠璃ちゃんには相当な額の慰謝料が払われる。多分、働かなくても一生食っていけるくらい出るんじゃねぇかな。だから、金銭面の心配もしなくて大丈夫だ」


 瑠璃は俯きがちに考え込む素振りを見せたものの、やがて顔を上げると、毅然とした面持ちできっぱりと答えた。


「……お心遣い、本当にありがとうございます。ですが……おこがましいことは重々承知の上で申し上げますが……みこと様のことを、幼い頃より見守ってきたからか、私にとってみこと様は歳の離れた妹か、娘同然の存在なんです。ですから、可能であれば、お医者様の許可が下り次第、護衛職に復帰したいと思います」


「瑠璃ちゃん……ありがとう」


 気づけば、自然と瑠璃の名を呼んでいた。


 みことも、瑠璃のことを歳の離れた姉や母のように思っている節があった。

 しかし、まさか瑠璃もそういう風に思ってくれているとは、考えもしなかったのだ。


「そこまで言ってくれるなら、これからもどうぞよろしくね。あ、でも少しでも辛いことや嫌なことがあったら、すぐに教えてね? そうしたら、わたしなりに考えるし、お父さんも職場の環境改善してくれると思うから」


 あんなに一緒にいたのに案外、言葉にしなければ分からないものだなと考えていたら、瑠璃が何故か頬を赤らめた。


「はい、こちらこそよろしくお願いします。 あと、心配はご無用ですよ。みこと様のあの勇姿を目の当たりにし、あんな言葉をかけられたら……改めて忠誠を誓いたくもなります」


「……あんな言葉?」


 勇姿と表現されるほど、あの暴走は決して美しいものではなかったと思うのだが、それ以上にあんな言葉とは一体何のことかと疑問が浮かぶ。


 首を傾げて黙り込むみことに、瑠璃は怪訝そうな顔をする。すると、ちょうど瑠璃の傍らにいた幸斗がみことの代わりに説明してくれた。


「……瑠璃さん。前にお見舞いに来た時に説明したかと思いますけど……みことは、あの時の記憶がほとんどないんです。ですから、あのことも記憶に残ってないんじゃないかと……」


「あ……そうでしたね。そうですか……あのことも覚えてないんですか……」


「あのことって?」


「みことは知らなくてもいいことですよ」


「ええ、無理に思い出していただく必要はありません。瑠璃の胸にはしっかりと刻み込まれていますから、それで充分です」


 何だか仲間外れにでもあったかのような心境になり、思わず問いかけてみたものの、幸斗にも瑠璃にも答えをはぐらかされてしまった。


 父へと視線を転じてみたが、刀眞は肩をすくめるだけだ。


「俺が駆け付けた時にはみこと、ほとんど人語喋ってなかったから、俺は知らね」


「そ、そんな……自分の娘を珍獣みたいに言わなくても……」


「いや、あん時のみこと、珍獣そのものだったぞ」


 父に容赦なく突きつけられた現実に、幸斗からみことの身に何が起きたのか説明を受けた時と同じくらいか、それ以上の衝撃を覚える。


(よ、よし……! やっぱり修行、頑張らなきゃ……!)


 おそらく、当時のみことは野蛮で品性の欠片もない暴言でも口走ったのだろう。

 言葉遣いには気をつけなさいと、あれだけ六花に叩き込まれてきたというのに、これまでの努力が水泡に帰すような真似をした過去の自分を、叱り飛ばしたい。


 でも、どれだけ後悔したところで、内容を覚えていない上にそもそも終わったことなのだ。

 だから、もう二度と同じ失態を繰り返さないための努力をしようと、強く心に誓った。

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