第25話 吸血
夕食を済ませ、一番風呂を譲られたみことは入浴後、アプリコット色のパジャマを身に纏い、濡れ羽色の髪を丁寧にドライヤーで乾かしてからソファに座り、結構前に香夜から借りていた少女漫画を読んでいた。
色々と問題が発生して読む時間を確保できなかったため、一旦返してまた借り直そうと思ったのだが、香夜から「私はもうとっくに読み終わってるから、返すのはいつでもいいわよ」と寛大にも貸出期間を延長してくれたのだ。
だから、引っ越しが終わった今夜、香夜の厚意に甘えて借りたままだった漫画を読み始めたものの、物語が進むにつれてみことの眉間には皺が刻まれていった。
(は……? どうして、ヒーローの方がこんなにも好意を伝えてくれてるのに、主人公は素直に喜ばないの? 変な意地を張るの? せっかくのフラグをもっと有効活用しようよ)
そう簡単に主人公とヒーローが結ばれてしまったら、物語にならないことくらい、みことにも分かる。そして、このじれったい展開が多くの読者を喜ばせ、今後の展開へと関心を引き寄せているのだろうことも、理解はできる。
だが、何故か好きな人の前でだけ素直になれない主人公の心情に、幸斗に全身で恋心を伝えてきたみことはこれっぽちも共感できない。
(香夜ちゃんは、この作品がお気に入りみたいだけど……わたしには合わなかったみたいだなぁ)
こればかりは相性の問題だから、仕方がない。
面白ければ、続きを借りようと思っていたが、これはとりあえず借りた分だけ読み、返して終わらせよう。
今まで香夜が貸してくれた少女漫画は楽しんで読めていただけに、残念な気持ちを抱えながら単行本を閉じると、ちょうど脱衣所へと続く引き戸が開いた。
「刀眞さん、お風呂上がりました」
「おー、そんじゃあさっさと入ってくっか」
キャメル色のラグの上にどっかりと腰を下ろし、リビングのテレビでお笑い番組をけらけらと笑いつつ観ていた父が、のっそりと立ち上がる。引っ越し作業の手伝いで疲れただろうからと、父に一晩泊まっていったらどうかと、みことと幸斗が勧めたのだ。
リビングから出ていった父と入れ違いに来た黒いスウェット姿の幸斗が、流れるような動作でみことの隣に腰かけた。
「少女漫画ですか?」
単行本の表紙をちらりと見遣った幸斗に、こくりと頷く。
「うん、香夜ちゃんが貸してくれたの。でも……わたしには合わなかったみたい」
「みこと、どちらかといえば少年漫画の方が好きですからね」
「それはそうなんだけど! 主人公の性格が、わたしとは相性が悪いんだよ。ほら、読んでみて」
幸斗に単行本をぐいぐいと押しつけると、雪みたいに白くて骨ばった手が受け取ってくれ、紫水晶の瞳がぱらぱらと少女漫画を流し読みしていく。
しばらく無言で読んでいたかと思えば、薄くて形の良い唇にふっと苦笑いが浮かぶ。
「確かに……みこととは相性が良くなさそうですね」
「でしょ? それで、ゆきくんはどう思う?」
「俺も、こういう女性はタイプじゃないですね。いちいちこっちが察してあげなくちゃいけないのは面倒くさいですし、駆け引きめいたことまでして恋愛をしたいとも思いませんから」
「……ゆきくんは、分かりやすい女性がタイプってこと?」
それならば、みことは大いにその条件に当てはまる。
しかし、先程まで件の少女漫画を読んでいたからか、それだけみことが単純で子供っぽいような気がして、複雑な心地を味わう。
みことが苦虫を嚙み潰したような顔で答えを待っていると、幸斗は柔らかく微笑んですっかり乾いた濡れ羽色の髪をそっと一房掴み、そこにキスを落とした。
「天真爛漫で愛くるしい、天使や妖精みたいな女性がタイプってことですよ」
その辺の少女漫画以上に甘い返事が胸に直撃し、思わず幸斗の顔をまじまじと見つめてしまう。
「いつも思うんだけど……ゆきくんって、よくそういう言葉がぽんぽんと出てくるね……?」
思いつくのもすごいが、それを口に出してしまえる度胸は驚嘆に値する。
それに幸斗の場合、異国の王子を思わせる見た目のおかげで、今みたいな台詞がかなり様になっているため、そういう意味でも感心してしまう。
「俺は、思ってることが顔に出にくいタイプですから。その分、言葉や行動で伝えていかないと。それに……好きな女性にはいつも笑顔でいて欲しいので、そのための努力を惜しむつもりはありませんよ」
みことの髪を
今度は破壊力の高い言葉だけではなく、艶めいた仕草まで披露され、みことの心臓はばくばくと早鐘を打ち始めた。
「ゆ、ゆきくん……そろそろストップ……心臓が爆発四散しちゃいそう……」
「それは大変ですね」
右手で胸を押さえながら息も絶え絶えに訴えかければ、幸斗は全く大変そうではない口振りでそう言ってのけたものの、繊細な手つきで触れていたみことの髪を離してくれた。
両手で胸を押さえ直し、深呼吸をしていたら、唐突に幸斗がみことに顔を近づけてきた。
「それで……みこと」
「な、何?」
新居という新しい環境に身を置いているからだろうか。それとも、入浴中とはいえ父がいる家の中で、耳元に囁きかけられたからだろうか。幸斗とのスキンシップなんてとっくに慣れ親しんだもののはずなのに、妙に動揺して声が上擦ってしまった。
挙動不審なみことに、幸斗は再度くすりと笑みを零しつつ言葉を継ぐ。
「そろそろ……みことの血をいただいてもよろしいですか?」
幸斗の囁き声に、そういうことかと納得する。
今の幸斗は、生きていく上で血を飲むことが必要不可欠であるにも関わらず、先日の事件のせいでみことの血液しか受け付けない体質になってしまった。だからあれ以来、数日に一度、みことは幸斗に血を提供することになったのだ。
ただ、鬼と吸血鬼の混血である幸斗は、純血の吸血鬼とは違って燃費が良いらしく、毎日血を飲む必要はないから、そこだけは救いだというのが本人の言だ。
「うん、いいよ。えっと……それじゃあ、今日はどこから飲む?」
みことの記憶には残っていないものの、最初の吸血は王道に首筋で行われたのだという。
その後は、最初と同じく首筋だったり、うなじだったり、はたまた手首の内側に牙を突き立てるなど、傷が一か所に集中しないように毎回場所を変えている。
とはいえ、鬼の力が覚醒したみことは傷の回復力が異様に早いため、そんなに気にする必要はないと思うのだが、幸斗は気にかかるみたいだから、好きにさせている。
「じゃあ、今夜は手首にします」
「うん、分かった。はい、どうぞ」
パジャマの袖をめくり上げ、露わになった肌を幸斗に晒す。
念のため、利き手ではない左腕を差し出せば、幸斗は
くすぐったさに微かに身じろぎするみことに構わず、幸斗の顔が左手首の内側に近づいてきた。
薄くて形の良い唇がうっすらと開かれたかと思えば、幸斗の吐息がみことの皮膚をくすぐっていく。それから、開いた口から覗かせた牙がゆっくりと肌に近づいていき、そっと皮膚を破った。
微かな痛みに眉根を寄せてしまったものの、もう何度も経験しているから、徐々にこの行為にも慣れてきた。
それに、幸斗はみことに極力痛みを与えないよう、気を遣っているに違いない。痛みを感じるのは、皮膚を牙で食い破る時だけだ。
双眸を伏せた幸斗は、自らが作った傷口からみことの血を
薄くて形の良い唇が血で赤く汚れるのも意に介さず、懸命にみことの肌に唇を這わせて
(こんな色っぽい姿を見たら、ゆきくんに血を捧げてもいい、むしろ捧げたいっていう女の子が殺到しそうだな……)
これだから、吸血鬼という存在が創作の世界から消えていなくならないのかもしれない。
実際に吸血鬼に血液を提供している身としては、色気を感じることはあっても、幸斗の行為は食事と同じくらい大切なものなのだから、変に
その上、幸斗の舌にはみことの血は非常に美味に感じられるらしい。
だから、吸血鬼としての本能を剥き出しにしている幸斗に血を奪われ過ぎないよう、細心の注意を払って見守る必要があるくらいなのだ。いわば、命のやり取りをしているも同然だ。
自分の命は自分で守るため、冷静に幸斗の様子を観察し、血への欲望に負けそうな気配を砂粒ほどにでも見せたら、すぐにでもみことから引き剥がさなければと気を引き締め直していると、突然伏せられていた紫の眼差しが持ち上げられた。
今夜の吸血は終わったみたいだ。みことの手首から、ゆっくりと牙が引き抜かれていく。
幸斗の唇同様、みことの手首もうっすらと赤く汚れてしまったため、洗面所で血を洗い流してこなければとソファから腰を上げようとした直前、濡れた舌に肌を舐められた。
今晩の血の提供は終わったと、すっかり気を抜いていたから、咄嗟に肩がびくりと揺れてしまう。幸斗は上目遣いにみことを見つめたまま、尚も手首を赤く汚す血を舌で丁寧に舐め取っていく。
その仕草は、ほんの微量の血液を惜しんでいるようにも、みことの官能を引き出そうとしているようにも見え、反応に困る。
(どっち……!? これは、どっちなの!?)
前者ならば、そんなに血に飢えていたのかと同情する。後者ならば、一応父がいるのだから、今は盛るなと頭を引っ叩きたい。
常にない緊張感に全身を支配されたまま、幸斗の意図を見極めようと凝視しているうちに、みことの手首は唾液で濡れて光っているものの、血はすっかり消えてなくなっていた。
幸斗は唾液を除けばすっかり綺麗になった肌を、名残惜しむように一舐めしてからみことの手首から唇を離し、顔を上げた。
「……みこと」
みことの名を呼ぶ低い声は、いつもならば落ち着き払った響きを帯びているのに、今は妙に熱を
曲がりなりにも、新居で二人きりに近い状態だから、気分が盛り上がってしまったのだろうか。もしくは、吸血すると欲望に忠実になりやすいのだろうか。
どちらにせよ、このままではよくないと、みことの本能が警鐘を鳴らしている。
(く……っ! こうなったら、ゆきくんの綺麗な顔に横ストレートを決めるしかない!)
利き手である右手をぐっと握り締め、みことが臨戦態勢に入った直後――突如として背筋に悪寒が走った。
幸斗も異変を感じ取ったに違いない。ぴたりと動きを止め、捕食者から距離を取ろうとする獲物のごとく、ゆっくりとみことから離れていく。
「わーるーいーこーはーいーねーがー……」
おそるおそる振り返れば、脱衣所へと続く引き戸が少しだけ開いていた。そして、完全に瞳孔が開いてしまっている灰色の片目が、その隙間からこちらを覗いていた。
いつから覗いていたのか知らないが、ずっと瞬きすらしていなかったのだろう。白目の部分が真っ赤に充血している。
ホラー映画の主演男優にでも選ばれそうなほどの迫力の父の姿に、つい気圧されてしまったが、すぐに脱力する。
「お父さん……なまはげは鬼じゃないよ、天使だよ。どうして、鬼のお父さんがなまはげの決まり文句なんていうの」
「天使はみことだろ!」
意味が分からない反論をされ、父に白い目を向ける。
父の登場により、理性を取り戻したらしい幸斗からは、先程までの甘い空気はすっかり掻き消え、今は豪胆にも引き戸の隙間からこちらを覗いている刀眞をスマートフォンで撮影していた。
「今、動画の撮影中なんですけど、みこと、刀眞さん瞬き一回もしてませんよ」
「え!? 今も瞬きしてないの!?」
そんなにも、新婚の娘夫婦から目が離せないのだろうか。
(まあ……あの場面を目撃したら、お父さんの性格上、発狂したいくらいなんだろうけど……)
それにしても、既に入籍を済ませている娘に対してあまりにも干渉し過ぎではないか。
呆れつつもソファから立ち上がり、リビングの戸棚に収納したばかりの救急箱を取り出し、中から使い捨てタイプの目薬を手に取ると、てくてくと父の元へと歩み寄っていく。それから、勢いよく引き戸を開け放ち、グレーのスウェット姿の父の顎をがしっと掴む。
「はい、お父さん。目薬差すから、大人しくしてて」
問答無用に父の両目に目薬を垂らせば、予想以上に沁みたみたいで、両手で目を押さえて無言で身悶え始めた。
そんな父をその場に置き去りにしてソファへと戻るや否や、こっそりと幸斗に耳打ちする。
「……ゆきくん。お父さんがいる時は、ああいうことはやめて。最悪、お父さん暴れ出しちゃうかもしれないし、わたしもゆきくん以外にああいうところを見られるのは恥ずかしいから……」
「……刀眞さんがいない隙に、軽くキスしようと思っただけなのに……」
それだけで、みことの夫はあんなにも濃厚な空気を醸し出していたのかと、愕然とする。
(なんか……色々と疲れたな……)
体調に影響が出ない程度とはいえ、血を抜かれた上に、面倒くさい父親の対応に追われたからだろうか。
肉体的にも精神的にもどっと疲労が押し寄せてきて、今夜は早々に寝ようと心に決めた。
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