第24話 新居
――今年は桜の開花が早かったから、四月の上旬にもなれば散ってしまうかと思ったが、意外と花冷えする日があったためか、まだ美しくも潔い花は咲き残っている。おかげで、みことと幸斗の新居への引っ越しは、桜の花に見守られながら完了した。
「頑張った……! ゆきくん、わたし頑張ったよ……!」
一応、人生で二度目の引っ越しなのだが、初めての引っ越しはみことが四歳の冬だったから、特に何かした覚えはない。ただ、せっせと引っ越し作業をする父の後ろ姿をぼんやりと眺めていた記憶しかない。
だから、自らの力で引っ越し作業を完遂させたみことは、達成感からその場でぴょんぴょんと飛び跳ねる。
すると、荷物を入れてきたダンボールを解体していた幸斗がこちらへと振り返り、眉間に皺を寄せた。
「みこと、ここはもう冬城の屋敷じゃないんですよ。三階の部屋なんですから、飛び跳ねたりしたら、下の階に住んでる方に迷惑でしょう」
「あ……そうだった。次から気をつけます」
今日から幸斗と二人で暮らすこの部屋は、マンションの三階にある。
両親と暮らしていた家も冬城家の屋敷も一軒家だったから、自分たちと全く関わりのない人間も同じ建物に住んでいるのだのだという感覚に、まだ慣れない。
しかも、冬城家の屋敷は平屋だったため、階下に住人がいるという事実も、長年一階しかない屋敷で暮らしていたみことには奇妙に感じられる。
幸斗に言われるがまま大人しくしようと、アイボリーのソファにそっと腰かけ、周囲に視線を巡らせる。
まだ細々としたものは買い足す必要があるだろうが、各々これまで暮らしていたところから持ち込んできたものや、生活に必要不可欠な家具や日用品は、配置したり収納し終えたりしたから、当面は困らないだろう。
白や茶系の色にほんの少しグリーン系の色合いを加えた内装は、見ているだけで温かな気持ちにさせられる。窓から見える夕暮れの空が、余計にそういった心地を増長させていく気がした。
それに、長い間和の雰囲気が漂う冬城家の屋敷で暮らしていたからだろうか。外観も内観も洋風というだけで、やけに新鮮に感じられる。
幸斗と二人で選んだライムグリーンの遮光カーテンや白いレースのカーテン、それからマホガニーの家具の色味に満足していたら、ふとソファの座面がもう一人分の重みで沈んだ。
振り向くと、みことの隣に腰を下ろした幸斗の紫の眼差しと黄金の眼差しが絡み合う。
「さっきは言いそびれましたけど、みこと、今日はお疲れ様でした。疲れたでしょう?」
「ゆきくんこそ、お疲れ様。わたし、体力だけは自信あるから、全然平気だよ。ちょっとは疲れたけど、なんていうのかな、心地よい疲れって感じ。あ、あと、わたしマンション暮らしは初めてだから、おかしなところがあったら、さっきみたいにちゃんと教えてくださいな」
「はいはい」
みことが両手を合わせて頼めば、幸斗はくすりと笑みを漏らして頭を撫でてくれた。
「それにしても……本当に、わたしなんかよりゆきくんの方が疲れたんじゃないの? ほら、ちょうど大学も始まったばかりだし……」
本来、長かったはずの幸斗の春休みは、みことへのプロポーズから始まり、大変忙しいものになってしまった。
その上、あんな物騒な事件にも巻き込まれてしまい、その後始末に追われたまま新学期が始まり、こうして引っ越しまでしたのだから、物理的にも精神的にも慌ただしかったと思う。
当の本人は涼しい顔をしているが、幸斗は今月から大学三年生になったのだ。学ぶことだって、今まで以上に多く難しいものになっていくのではないか。
高校までしか通っていないみことでも、学年が上がるごとにそうなっていくことくらいは、これまでの自分自身の経験で知っているのだ。
本当に大丈夫なのかと次第に心配になってきたみこととは対照的に、目の前の幸斗は紫水晶の双眸を瞬かせるだけだ。
「大学の方は、まだそれほど忙しくないから、大丈夫ですよ。今はどの講義を受けるか決めて、時間割を作る時期なので、忙しくなってくるのは今月の下旬くらいからですね」
「……大学って、自分で時間割を作るの?」
高卒のみことには、何だか想像できない世界だ。
「そうですよ。でも俺の場合は、その方が性に合ってますね。必修科目は絶対に
「へえええ……」
「必修科目」も「履修」も「講義」も「単位」も、高校までしか通っていないみことには耳慣れない言葉たちだ。
もし、みことも大学への進学が許される環境にいたのであれば、今頃そういった言葉を使っていたに違いない。
胸を
「ゆきくん。大変だろうけど、大学の勉強、頑張ってね」
「ええ。刀眞さんにも学費を出してもらってますから、相応の結果が出せるように努力は怠りません」
「わたしは……うん、とりあえず家事に精を出す! あとは、修行にも!」
「修行……」
学生の身で結婚し、勉学に励む幸斗に負けていられないとそう宣言したら、形容し難い顔をされてしまった。
「だ、だって……鬼頭の道場でお父さんが鍛えてくれるって言ってくれたから……それって、修行ってことになるんじゃないかなぁと……」
確かに、新妻の口から出てくる単語ではないと、みことも理解しているが、ならばどう表現すればいいのか分からない。
眉を下げて必死に訴えるみことに、幸斗は曖昧に頷く。
「まあ……修行といえば修行なんでしょうけど……すみません、武士かって思ってしまいました」
「確かに……なんか、武士っぽいね……!」
父は刃物の扱い方も教えてくれると言っていたから、もしかしたら長剣での戦い方も指導してくれるかもしれない。
きっと、最初のうちは刃物といってもサバイバルナイフなどを使うのだろうが、自分の身を守るためにもいずれはどんな武器でも使いこなせるようになりたい。
「ゆきくん、わたし頑張って特訓して、いつかゆきくんやお父さんを守れるくらい強くなるよ!」
「みことは一体、何を目指してるんですか……」
「具体的に何かを目指してるわけじゃないけど……大切な家族を守れるようになりたいの」
みこととしては、大切な家族と穏やかな日々を過ごせるのであれば、それ以上望むことはないのだが、何故かその平穏が
ならば、みこと自身が強くなり、自分の身も大切な鬼たちの命も守り通す自信を身につけるしかない。
ぐっと両の拳を握り締めてそう力説すれば、幸斗が神妙な面持ちになった。
「……なら、俺も時間がある時は改めて刀眞さんに稽古をつけてもらいましょうかね」
「じゃあ、その時は一緒に修行しようね!」
「――おいおい……お前ら、戦国時代の鬼かよ」
声の主へと視線を移すと、三人前の寿司桶を手にした父が苦い笑みを零していた。
今日は引っ越し作業で疲れて、到底料理する気になれないだろうからと、昼間のうちに出前で寿司を注文しておいたのだ。
「あ、お父さん。もうお寿司届いてたの? チャイムの音、全然気づかなかったよ」
「ああ、ごみ捨てに行って戻ってきたら、ちょうど配達の兄ちゃんと玄関の前で鉢合わせしたんだよ。んで、そのまま受け取って金も払っといたから、チャイムは鳴らしてねぇよ」
「そうだったんだね……お父さん、受け取ってくれてありがとう」
急いでソファから腰を上げるなり、父の元へと駆け寄って
仕方なくそのまま父の後ろをついていくと、ダイニングに移動していた幸斗がお茶の用意を始めていた。
「おい……今日、ずっと思ってたんだけどよ……」
父がダイニングテーブルの上に置いた寿司桶の中身を確認し、それぞれが頼んだ品と割り箸を並べていたら、地を這うような低い声が耳朶を打った。
何事かと、幸斗と共に視線を動かせば、どうしてか父がみことたちに血走った目を向けていた。
「どうして、これ見よがしにペアルックなんざしてるんだ、お前ら……!」
父の指摘に、視線を落とす。
確かに、動きやすくて汚れも目立たないようにと、今日のみことは黒いパーカーにグレーのスラックスを着用していた。
偶然、幸斗も同じような格好をしていたが、今日の目的を考えれば、自然とこういう服装を選ぶものではないのか。大体、父だって似たり寄ったりの格好ではないか。
「別に、これわざとお揃いにしたわけじゃないよ。二人とも、機能性を重視した服を選んだら、こうなっちゃっただけだって」
「まあ、思わず笑っちゃいましたけど」
「ねー、こういう偶然ってあるんだね」
そういえば、みことが卒業式の日の夜、幸斗と一緒に外食に出かけた時も、わざわざ示し合わせたわけでもないのに、同じ色の服を着てきた。もしかすると、長い間一緒に暮らしてきたから、全然似ていないようで案外、思考パターンが似通っているのかもしれない。
「やだ……! 仲良しアピール、めっちゃ胸を抉ってくる……!」
幸斗と顔を見合わせて笑い合っていたら、父が盛大にフローリングの床の上に両手と両膝をついていた。
ヘーゼルブラウンのフローリングはまだ新しくて綺麗なのだから、なるべく傷がつくような真似は避けて欲しい。
「新婚早々、仲が冷え切ってるよりいいじゃないですか」
「もしそうだったら、無理矢理にでも離婚させてやるよ! ばーか!」
「仲が良くても駄目、仲が悪くても駄目……俺たちに何を求めてるんですか、
「まだ、てめぇに義父さんって呼んでいいなんて、一言も言ってねぇよ!」
「ゆきくん、あんまりお父さんをおちょくらないであげて。お父さんも、そんなに叫ばないの。近所迷惑になるでしょ」
もしかしなくても、父もみこともマンション暮らしに向いてないのかもしれない。
(うん……気をつけよう)
反面教師を目に焼き付けて頷いたところで、みことの注意を素直に聞き入れたらしい父と幸斗が、大人しくそれぞれの席に着いた。
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