第23話 祝福
「んー! 緊張したー!」
鬼頭一族と鬼柳一族合同の裁判の終了を暁斗が宣言すると、真っ先に罪を犯した鬼たちが大広間の外へと連れ出された。
その後、一人、また一人とその場から立ち去っていく姿をある程度見送ってから、幸斗たちも大広間から出たのだが、みことは堂々としていた態度とは裏腹に、やはりそれなりに緊張していたみたいだ。肩が
「早く帰って着替えて、肩でも
「ありがとう、ゆきくん。でもその前に、お昼ごはんを食べたいな。もうすぐお昼になるから」
「そうですね……このまま行きますか? それとも、着替えてから行きますか?」
「うーん……できれば、着替えてから行きたいな。ほら……帯を締めてると、あんまり食べられないから」
みことは自身の胴を締めている萌黄色の帯に手を添えると、茶目っ気たっぷりに舌を出した。
先程まで纏っていた張り詰めた雰囲気はすっかり霧散し、みこと本来の愛らしさを発揮した姿に、思わず頬を緩める。
「わあ……お庭の桜、綺麗だね」
ガラス戸が開け放された縁側に差し掛かったところで、みことが足を止める。
今日は天気に恵まれて気温も高いため、空気の入れ替えも兼ねて誰かがガラス戸を開けたに違いない。おかげで、ちょうど見頃を迎えた庭の桜の花がここからよく見えた。
「本当ですね」
そう言いつつも、幸斗の視線は薄紅色の花を眩しそうに見つめるみことの横顔に固定されていた。
みことには可愛らしい桃の花がよく似合うと思っていたが、こうして咲き誇る桜を眺める姿も絵になる。
花の色の
「――なんだ。お前たち、まだ帰ってなかったのか」
「あ、あきくん。さっきは大役ご苦労様でした」
怪訝そうな顔をした暁斗へとみことは振り向くと、丁寧に頭を下げて労いの言葉を贈った。
――みことが産まれた際、鬼頭本家も鬼柳本家も、将来うちの息子の花嫁にと強く望んだのだと聞いたことがある。
刀眞がまだ赤子である娘の婚約者を決めるのを嫌がり、その後もみことの意思を尊重すると言い張ってきたものの、それでも幼いうちから両者と交流を持つに至るにはそういう経緯があったのだという。
結局、
そして、暁斗はといえば、幼少期は鬼にしては珍しく身体が弱く、
その上、その数年後に鬼柳一族の中で大きな事件が起きたため、婚約どころではなくなったというのも大きいのだろう。
みことが冬城一族の屋敷に預けられてしばらくしてから、ようやく面会する機会が巡ってきたのだが、当時十五歳だった暁斗は八歳の女の子との婚約を、当然のごとく嫌がった。
それでも、成長した暁斗は幼い頃に比べれば身体も丈夫になったため、鬼柳本家は諦めきれなかったのかもしれない。粘り強い申し込みにみことが折れ、一応見合いの場こそ用意したものの、婚約には至らなかった。
でも、それはそれとして、人懐っこいみことは暁斗ともそれなりに良好な関係を築いている。
暁斗も結婚を抜きにして考えれば、みことのことを嫌っているわけではないみたいで、ごく普通に接している。弟である幸斗と顔を合わせる時よりも、余程自然体だ。
「みこと。今は周りの目がないんだから、そんなに構えなくていい。顔を上げてくれ」
「鬼柳の当主様が、そうおっしゃるなら」
「……お前、俺をおちょくってるだろ」
「そんなことありませんよ?」
こんな風に、軽口を叩き合える程度には仲が良い。
この二人が夫婦になっていた可能性がゼロではないのだと、まざまざと思い知らされる光景を見せつけられ、内心悶々としていたら、みことと結婚していたかもしれなかったもう一人の男鬼まで現れた。
「あき、ちょっと訊きたいことが……ああ、みこと! さっきの
「兄さま……それは、ちょっと……」
「きょうのみこと馬鹿っぷりは相変わらずだな……それで、よく奥方に愛想を尽かされないな」
「それはそれ、これはこれだからな。それに、香夜もその辺をよく理解してくれてるから、特に文句を言われたことはないぞ」
「……香夜は、お前には過ぎた嫁だな」
暁斗とみことのやり取りを眺めていると、正直気が気ではないのだが、恭矢と会話を交わしていても特に何も感じない。
やはり、恭矢のこのテンションのおかげだろうか。恭矢とみことが夫婦になる姿が、どうしても上手く想像できない。だからこそ、幸斗は恭矢と今も昔も仲良くできたに違いない。
「そういえば、きょう兄さま……お腹は大丈夫?」
ふと、みことが思い出したように恭矢に問いかけた。
「わたし、記憶にはないんだけど……お父さんとゆきくんから、兄さまのこと思い切り蹴り飛ばしたって聞いて……いくら我を失ってたとはいえ、ひどいことをして、ごめんなさい」
心底申し訳なさそうに表情を曇らせたみことは、先刻よりもさらに深々と頭を下げた。
「……みこと、気にするな」
深く頭を下げて謝罪したみことに、恭矢はふっと優しい微笑みを浮かべた。
「みことの蹴りくらい、兄さま、何度だって受け止めてやる! だから、その可愛い顔を兄さまに見せてくれ! さあ!」
――かなり寛大にみことの所業を許しているというのに、どうしてこんなにも残念に感じられるのか。
(やっぱり……この無駄に高いテンションのせいか?)
確か、
だから、よくそんなに簡単に許せるものだと感心するべき場面のはずなのに、そうした感情は全くない。
むしろ、みことからの
「お父さんも似たようなこと言ってたけど……兄さまもなの……?」
意識を取り戻してしばらくしてから、一応幸斗の口からそれとなく伝えたところ、みことはやはり先程のように頭を下げて膝を
だが、刀眞も娘から受けた暴行を笑って許したのだ。
――みことの蹴りなんざ、羽根で撫でられたようなもんだよ。だから、気にすんな。それに、俺はみことのお父さんだからな。娘からもらったもんは、どんなもんでも受け止めてやらあ。
絶対にその程度で済む痛みではなかったと思うのだが、刀眞の場合は本当に何の問題もなかったため、これが修羅と呼ばれる男かと、恭矢とはまた違う意味で遠い目になったものだ。
「……鬼頭の男どもは揃いも揃って無駄に頑丈な上に、みことに甘いな」
「当然だ。こんなに可愛かったら、甘くなるもの自然の摂理だ」
「どんな摂理だ」
「兄さま……お願い、本当にもうやめて……」
暁斗はますます呆れたような面持ちになり、みことは居たたまれなさそうに項垂れた。
「……それで? きょう、何か俺に用があって来たんだろう」
「ああ、そうだった。すまん、すまん」
「ここではなんだ、場所を移そう。――というわけで、みこと。お前たちはいつまでもここに居残ってないで、気をつけて帰るんだぞ」
「うん、あきくん。心配してくれて、ありがとう。兄さまもまたね」
「またな! みこと!」
「ああ……そうだ、ゆき」
暁斗が
まさか兄に話しかけられるとは欠片も考えていなかった幸斗が軽く目を見張ると、暁斗は意外にも柔らかく笑んだ。
その直後、不意に強い風が吹いて桜の木の枝がしなり、
「言うのが随分と遅くなったが――結婚おめでとう」
――みこととの結婚の保証人になって欲しいと頼みにいった時も、暁斗は何の感慨もなさそうに淡々と引き受けるだけで、祝福の言葉一つ口にしなかった。
だから、幸斗の結婚なんて、兄にとってどうでもいいものだと認識していたのだ。幸斗も、鬼柳本家でこんな手続きを引き受けてくれる鬼など、兄しか思い浮かばなかったから、断られる前提で頼んだだけだったから、何とも思わなかった。
「みこと。これからも、弟をよろしく頼む」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
もしかすると、ただの社交辞令なのかもしれない。しかし、それでも幸斗が衝撃を受けるには充分過ぎるほどの出来事だった。
幸斗が声を失っている間にも、暁斗とみことは和やかに言葉を交わしていく。
やがて、話がひと段落つくと、兄と恭矢は今度こそ立ち去っていった。
「今さら、兄貴面されても……困る」
二人が廊下の角を曲がり、その姿が視界から消えた途端、考えるよりも先に言葉が唇からぽつりと零れ落ちていった。
「――それで、いいと思うよ」
透明感のある愛らしい声が、ふわりと柔らかく包み込むように鼓膜を震わせる。
隣を見遣れば、みことが穏やかに微笑んでいた。
「だって、ゆきくんとあきくん、今までずっと兄弟らしいことしてこなかったじゃない。さっきもそうだったけど、あきくんってば、わたしや兄さまとは普通に話すのに、ゆきくんとはろくに目も合わせないし……それなのに、急にあんなこと言われたら、誰だってびっくりしちゃうよ」
みことの両手が、幸斗の左手をそっと包み込む。
みことの左手の薬指には、幸斗の瞳の色にそっくりなアメジストがあしらわれた婚約指輪が、幸斗の左手の薬指には、みことの瞳の色にそっくりなトパーズがあしらわれた同じデザインの婚約指輪が
「だからね、別に兄弟だからって無理に仲良くする必要はないと思う。ゆきくんたちみたいにごたごたがなくたって、あんまり仲が良くない兄弟も世の中にはいっぱいいるんだから、そんなに気にしなくていいんじゃないかな」
「それも……そうです、ね」
優しく語りかけるみことの声に耳を傾けているうちに、無自覚に強張っていた心が緩やかに解けていく感覚が胸に広がっていく。そして、幸斗の左手を包み込む小さな手をゆっくりと外していき、みことの指と自分の指を絡ませ合い、手を繋いで歩き出す。
「お昼、俺はカレーが食べたい気分です」
もう平気だと伝える代わりに、日常へと戻る話題に変えたら、みことも笑顔で応じてくれた。
「カレー、いいね! わたし、バターチキンカレーがおいしいお店で食べたい!」
「みこと、相変わらず辛いの苦手ですからね」
「むしろ、どうしてゆきくんやお父さんたちは平気なの……わたしは、そっちの方が信じられないよ……」
手を繋いで歩きながら、ふと自分たちの左手の薬指に輝く婚約指輪に視線を落とす。
「みこと」
「ん?」
「早く式を挙げて……結婚指輪にしたいですね」
みことと入籍を済ませた後、二人で結婚指輪を買いにいったから、既に手元にある。
でも、みことの「ゆきくんが、せっかく一生懸命選んでくれた指輪なんだから、もうちょっとつけてたい」という可愛らしい要望により、夏の挙式が終わってから結婚指輪を嵌めることにしたのだ。
揃いのデザインである上、互いの瞳の色に酷似した指輪を嵌めていれば、ある程度周囲への
こんな考えに駆られるのは、みことが結婚するかもしれなかった相手と会話をしている姿を見ていることしかできなかったからだろうか。
「うん、そうだね。楽しみがいっぱい待ってて、わたし、幸せだよ」
その前向きな言葉通り、本当に嬉しそうににこにこと笑うみことを眺めていると、また心が
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