第27話 嫉妬と羨望
――新しい家にもだんだんと慣れてきた頃、みことの生活にもある程度のルーティンワークというものができてきた。
平日は朝早く起き、朝食の支度と弁当作りを行う。
幸斗が弁当はいらないと前日に伝えてくれていた場合は、マンションの近くを軽くジョギングしてから、朝食作りを始める。
朝のジョギングは、幸斗の毎朝の習慣と化してきたから、二人一緒に走っているのだが、これがなかなかに楽しいのだ。
そして、ジョギングをした時はシャワーを浴びて軽く汗を流したら、洗濯機を回してから二人で食卓を囲み、大学に出かける幸斗に弁当を持たせて見送りをする。
そうしたら、朝食の後片付けと洗濯物を干す作業、それから部屋の掃除に取り掛かり、迎えにきた父と鬼頭本家が所有する道場へと向かう。
午前中いっぱいは父の元で鍛錬を積み、みことが用意してきた弁当を一緒に食べたり、鬼頭本家で昼食をご馳走になったり、外食に行ったりする。
午後は一旦帰宅して洗濯物を取り込んで片付けてから、今度は夕食の買い物に行く。
買い物が終われば、夕食の支度に取り掛かるまでは、みことの自由時間だ。趣味で絵を描いたり、読書をしたり、疲れた時はお昼寝をしたりもする。
そして、時間になったら夕食の準備に入り、幸斗が帰ってきたら出迎え、二人でまた一緒に食卓を囲みながら、その日一日にあったことを語り合う。
夕食の後片付けは基本的に幸斗がやってくれるから、みことは風呂の支度が終わり次第、また少し休憩時間に入る。
入浴が終われば、あとは幸斗と二人きりの時間を堪能してから眠るだけだ。
ちなみに、休日の過ごし方はその日によって異なる。
家でのんびりと過ごすこともあれば、お昼からデート、一日デートという日もある。
「――十八歳にして、もう完全に専業主婦じゃん」
みことの近況報告を聞き終えた香夜の妹である
今日は修行を休み、家事も簡単に済ませ、午前中から沙夜とカラオケボックスの一室で話し込んでいた。
鬼社会の話は気軽にできない以上、そういう話がしたい時は、こうした個室があるところを利用するのだ。
みことたちみたいな若い女鬼は、そういう場合は大抵、自宅に相手を招くか、カラオケボックスを利用するのかの二択になる。
「……まあ、わたしたちは進学も就職もできないから、結婚したら専業主婦になるしかないよね」
ミルキーホワイトのブラウスとスプリンググリーンの膝丈のスカートに身を包んだみことは、ドリンクバーで入れてきたアイスティーをストローで飲みながら、黒いソファに並んで腰かける沙夜を見つめ返す。
若草色のブラウスに
全体的に色素が薄めの香夜とは異なり、ボブカットにしている髪は黒髪で、瞳の色もごくごくありふれた焦げ茶色であるため、言われなければ二人が姉妹だと分からない人が多いだろう。
「あー、鬼社会のこういうところ、ほんっとうにやだ」
そして、何だかんだと鬼社会に順応しているみことや香夜とは裏腹に、真っ向から反抗的な態度を取っているところも大きな違いといえる。
「沙夜ちゃん、小学生の頃からずっと成績良かったもんね。できることなら、大学にだって行きたかったよね」
沙夜は幸斗と同い年であるため、昔から何かと接点があったのだ。みこと以外の異性とは積極的に関わろうとしない幸斗よりも、沙夜とは付き合いがある。
「みことだって、勉強できる方だったし、それ以上に芸術方面の才能があるでしょ。美大か専門学校、行きたかったんじゃないの?」
「行きたい気持ちがなかったのかっていえば嘘になるけど……わたしは物心つく前から、大きくなったら鬼のお嫁さんにならなきゃいけないんだよって、散々言い聞かされてきたからなぁ。最初から選択肢になかったよ」
沙夜の言う通り、みことには芸術の才能というものがあるらしい。
小学生の頃から絵を描けば、毎回何かしらのコンクールで受賞していた。
桃園女学院に入学してからは、幾度となく美術の教師に美術部に入らないかと勧誘だって受けてきた。
だが、みことは花嫁修業である習い事で放課後は忙しかったし、休日はできるだけ身も心も休ませたかったため、やんわりと断り続けてきたのだ。
ちなみに、鬼という生き物が身近にいたからか、民俗学にも興味はあったものの、みことが桃娘である以上、大学に進学して勉強するという選択肢はやはり最初から存在しなかった。
それに、絵は趣味でいくらでも自由に描けるし、民俗学だって本を読めば知識を吸収することはできる。
だから、現状にそれほど不満はないのだと伝えれば、どうしてか沙夜の方が不満そうに唇を尖らせた。
「お姉ちゃんもみことも、本当に欲がないよね……」
「そんなことないと思うけど」
愛する夫との間に、子供を授かりたい。どうせならば、おいしいものをたくさん食べたい。限りある生を、悔いなく謳歌したい。
たくさん苦労をかけてきた父に、みことにできる範囲で親孝行だってしたかった。
これらも立派な欲だと、みことは思う。
「欲がないっていうより……周りにとやかく言われない範囲の欲だから、欲がないように見えるだけじゃないかな」
裏を返せば、沙夜の欲――願望とも言い換えられるかもしれない。
それが鬼社会にとって不都合なものだから、何かと非難され、欲深く思われやすいだけの話ではないのか。
(沙夜ちゃんは賢いけど……聡明じゃないからなぁ。手先は器用なのに、生き方が不器用というか……とにかく要領が悪いんだよね)
そこも、姉である香夜との大きな違いの一つなのかもしれない。
鬼社会において、気も自己主張も強い女性は何かと煙たがられやすい。
出生率が低い女鬼の存在をありがたがる割には、鬼社会は男鬼が大半を占めているせいで男社会であるため、女性に物分かりの良さと従順さを求めるのだ。
香夜も六花も、そういう鬼社会の在り方に不満が一つもないわけではないだろう。生前の母もそうだったに違いないし、みことだって思うところはいくつもある。
しかし同時に、その分、男鬼たちに守られているとも思うのだ。
だから皆、上手に心の折り合いをつけて鬼社会の中を生きているだけだ。
おそらく、沙夜は他の女鬼や桃娘よりもそうした折り合いのつけ方が下手なのだろう。
(鬼として産まれてこなければ、沙夜ちゃんは今の時代、生き生きと生きられただろうになぁ……)
沙夜は家庭に収まるより、勉学に励み、仕事をバリバリとこなしていきたいタイプだ。だからこそ、余計に鬼社会を息苦しく感じるのかもしれない。
でも、それはそれとして、気に入られない点ばかりに目を向けるのではなく、自分が恵まれていると思うところを見つける努力をした方が、精神衛生上、良いのではないか。
(まあ、こういうのって言われたところで、イラッとするだけだよね)
アイスティーを飲みつつ、デザートでも頼もうかとメニュー表を開こうとした矢先、沙夜の
「そうだとしても……みことは良いよね。初恋の相手と結婚できて、今のところ欲しいもの全部手に入れてるじゃん。恵まれてるし……ずるいよ」
確かに、みことは運に恵まれていると、自分でも思う。
家族仲は良好で、親戚付き合いも得意だから、愛されて育ってきた自覚がある。
幸斗とも、一緒に暮らすようになってからずっと仲が良く、恋仲になれただけではなく、婚姻まで結ぶことができた。
だが、何もかも恵まれているのかといえば、疑問がある。
物心がつく前に自分が産まれてきたせいで母を亡くしているし、みことが誘拐されかけたせいで父は一時命が危ぶまれるような重傷を負ったことがある。
他人との同居生活では気を遣うことが何かと付き纏うし、みことは普通の人間ではないから、保育園や幼稚園、それから学校でも人間の友達とは表面的な付き合いしかできなかった。
他の子供と比べれば、稽古ばかりであまり遊べなかったし、桃娘は鬼の同伴なしでの外泊が認められていないから、宿泊学習もスキー合宿も修学旅行も経験できなかった。その分、父があちこち連れていってくれて遊んでくれたが、家族旅行と学校行事では全然違う。
みことはみことなりの、寂しさや理不尽さを味わってきたのだ。
そういう部分には全く目を向けず、羨ましいと思うところにばかり焦点を当ててくる沙夜に若干複雑な気持ちになったものの、昔から不思議と嫌いにはなれなかった。
香夜と沙夜の両親は、母親が二番目の子を妊娠している時に父親が不倫に走ったことが原因で、離婚している。
沙夜は自分自身が母親の胎の中にいた頃にそんなことがあったせいで、結婚や男鬼を好意的に受け止められない節があるのだ。だからこそ、産めよ増やせよが推奨され、男性優位の鬼社会が気に入らない。
香夜を通してそういう背景を知っているから、沙夜の気持ちも理解できるのだ。
「ずるい、か……わたしは、沙夜ちゃんのそういう思ったことを何でも言えるところ、羨ましいと思うけど」
そう、沙夜は良く言えば裏表がないのだ。
だからある意味、非常に付き合いやすい相手ともいえる。
しかし、負の感情も剝き出しにしてくる沙夜に、幸斗は苦手意識を持っているらしく、正直みことが交友関係を持っていることすら内心快く思っていないみたいだ。
率直にそう言われたことはないが、沙夜と会った日は必ずといっていいほど、何か嫌なことはなかったかと確かめてくるのだ。
「みことだって、そうじゃん」
「沙夜ちゃんほどじゃないよ。わたし、前向きな感情はともかく、負の感情は見せる相手を結構選んでるよ?」
みことは子供っぽいと周囲から認識されているし、自分でもそう思う。
でも、相手を見て振る舞い方を決めているという一面もあるのだ。
「だから、相手にどう思われるかとか気にしないで、言いたいことを言える沙夜ちゃんが、わたしは羨ましいよ」
それで相手との関係に亀裂が入ったこともあるだろうに、沙夜は他者に嫌われようが何だろうが気にも留めず、我が道を行くのだ。
そういう生き方を自己中心的だと評する人もいるに違いないが、自分が納得できる道だけを選び取ろうとする沙夜の生き様は、自分には絶対に真似できないと、みことは素直に尊敬しているのだ。
「だから、どうせならその生き様を貫いて欲しいって、勝手に思ってるんだ。辛い思いをすることも多いと思うけど、わたしや香夜ちゃんには選べなかった生き方を、沙夜ちゃんを通して見てみたいなって」
みことがにっこりと笑いかけてそう告げれば、沙夜は驚いたように猫みたいな目を大きく見開いた。
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