カウントダウン

 ――それは、とある冬の日の夕食での出来事だった。


 琴子ことこが作った彩り豊かな食卓の上に、白飯ではなく赤飯が盛りつけられた茶碗が並べられており、幸斗ゆきとは内心首を傾げた。


 祝い事があると、琴子は必ずといってもいいほど赤飯を炊く。

 だが、今日はこれといってめでたい日でも何でもない。


 この間、幸斗が受験した私立高校の合格通知を受け取ったばかりだが、その時に既に祝ってもらっているから、今日は違うだろう。


「さぁさ、みんな揃ったわね。それじゃあ、お夕飯にしましょう」


 幸斗がぼんやりと突っ立っていたら、残りの二品をみことと共に運んでくるや否や、琴子が朗らかにそう声をかけてきた。


 刀眞とうまは仕事で不在の上、今日は瑠璃るりが幸斗たちと一緒に食卓を囲む日ではないらしく、姿が見当たらない。

 だから、幸斗とみこと、それから琴子の三人がそれぞれの定位置につく。


 食事が始まっても、琴子の口からもみことの口からも、祝いの言葉は出てこない。

 もしかしたら、ただ単に小豆が中途半端に余っていたからとか、そういう理由で赤飯を炊いただけなのかもしれない。


 そう考えていたのも束の間、琴子が何故か嬉しそうにみことにやたらと話しかけている姿が目についた。


 そして、何かと構ってくる琴子の相手をしているみことの唇は、綺麗なを描いているのに、その黄金の双眸はちっとも笑っていなかったのだ。




    ***



 夕食の時に微かな違和感を覚えたものの、あの時のみことは迂闊うかつに声をかけられる雰囲気ではなかったから、結局幸斗が口を開くことはなかった。


 入浴を済ませ、何か飲み物を用意しようと、台所へと続く居間に足を踏み入れたら、胎児みたいに背を丸め、こたつで横になっているみことの姿が視界に映った。


 幸斗同様に風呂上がりらしく、ラベンダー色のパジャマを身に纏い、その上にグレーの厚手のカーディガンを羽織っているみことは、腹部を庇うように身体を丸めていた。


 もしかして、体調でも崩したのかと、足早にみことの元へと歩み寄ってひざまずく。

 すると、ほのかに血の匂いが半分は吸血鬼である幸斗の嗅覚を刺激した。


「……みこと? お腹が痛いんですか。それとも、怪我でもしたんですか」


 体勢から察するに、腹痛にでもさいなまれているのだろうか。

 しかし、もしそうだとすれば、この血の匂いは何なのか。


 理由が前者だとすれば、幸斗相手に答えにくいだろうかと、口にしてからようやく気づくと同時に、みことがのろのろと上体を起こした。

 それから、こくりと小さく頷いた。


「……お腹、痛い」


 満月を連想させる黄金の瞳は、目の縁いっぱいに溜まった涙で潤んでいた。

 みことがくしゃりと表情を歪めたかと思えば、辛うじて目尻に留まっていた涙がぽろぽろと零れ落ちていく。


「わた、し……死にたくない、よぉ……」


 腹部に両手を当てたまま、みことはしゃくり上げた。


 腹痛程度では、人間はそう簡単には死に至らない。

 虫垂炎や腸閉塞、急性胆管炎など、緊急を要する腹痛もあるが、果たして十三歳のみことがそこまで思い至るだろうか。


 そこまで考えたところで、ふと夕食の時に出された赤飯が脳裏を過った。


 ――祝い事があると、琴子が用意する赤飯。目が笑っていないみこと。微かに漂う血の香り。腹痛を訴え、死にたくないと涙を流すみこと。


 それらが何を意味するのか理解してしまった途端、幸斗は言葉を失った。


 ――おそらく、今日みことに初潮が訪れたに違いない。


 女子の生理については保健体育の授業で多少習ったし、幸斗は産婦人科医を目指して勉強しているから、同年代の男子よりはその辺りの知識は持っている。


 そして、どうして急に死にたくないなどと言い出したのかといえば、みことが桃娘だからだろう。


 きっと、琴子くらいの世代の人間からしてみれば、女子が初潮を迎えたということは、大人の仲間入りを果たしたということで、喜ばしいことに違いない。


 でも、次代の桃娘を産めば、そう遠くない未来に命を落とすことが決まっているみことからしたら、子供を産める身体になったということは、死へのカウントダウンが始まったも同然だ。


(どうして――)


 ――琴子は、鬼の元へと嫁ぐまでの桃娘を育て上げる冬城一族の人間なのに、何故みことの心境を理解できなかったのか。


 みことの母親であるひかりも、琴子が育てたと聞いている。ならば、こういう出来事を経験するのは二度目のはずだ。

 それなのに、どうしてみことの心情に寄り添ってやらないのか。


(……ひかりさんの時も、そうしなかったから?)


 遠慮が先立つのか、そもそも最初から心を開く気がないのか、みことは昔から琴子にあまり負の感情を見せない。


 もしかしたら、ひかりもみことと同じように、琴子に内心を吐露することがそれほどなかったのかもしれない。


 そうだとしたら、琴子が普通の少女に接するようにみことと関わるのも頷ける。


「……みこと」


 泣きじゃくるみことの頭に手を伸ばし、すっかり乱れてしまっている長い黒髪をそっとく。


 みことは、幸斗と二人きりになって初めて、死への恐怖を零した。

 つまり、それだけ幸斗には気を許している証なのだろう。


 内容が内容なだけに、ここは気まずさを覚える場面なのかもしれないが、それよりもみことが胸の奥底に隠していた本音を幸斗にはさらけ出してくれたという事実への仄暗い喜びが上回った。


「もう、歯は磨きましたか」


 幸斗の何の脈絡もない問いに、みことがきょとんと目を瞬く。その拍子に、涙がまた目の縁から溢れ出し、はらはらと白い頬を濡らしていく。


 涙を流しつつも無言で首を横に振るみことに、意識して優しく微笑みかける。


「それなら、ラベンダーティーを淹れましょう。お腹が温まりますし、ラベンダーには鎮静効果があるんです。きっと気持ちが落ち着いて、よく眠れますよ」


 ラベンダーティーには少し苦みがあり、甘さは控えめだ。

 だから、苦いものが得意ではないみことが飲む場合には砂糖が必要だと思ったから、まだ歯磨きをしていなくてよかった。


 もう一度みことの頭を撫でると、その場から立ち上がって台所へと向かう。

 幸斗は紅茶やハーブティーが好きだから、淹れ慣れているものの、今日は特に細心の注意を払い、丁寧に淹れていく。


 あらかじめ温めておいた二人分のマグカップに、出来上がったばかりのラベンダーティーをゆっくりと注ぎ、みことの分には砂糖を一匙ひとさじ入れて混ぜる。


 ラベンダーティーを淹れたマグカップを手に居間に戻ると、涙と鼻水を拭き終えたみことに慎重にカップを渡す。


「……良い香り」


 マグカップを受け取り、ラベンダーティーの香りを嗅いだみことの表情が、ふっと和らぐ。

 それからラベンダーティーに静かに息を吹きかけ、ゆっくりと口にした。


「何だか……香りも味も、ほっとする感じだね」


「気に入ってもらえたなら、よかった」


 みことの隣でこたつに入った幸斗も、砂糖抜きのラベンダーティーを飲む。

 しばらく互いに無言でマグカップを傾けていたら、やがて隣からこたつの天板にカップを置く微かな音が聞こえてきた。


「……ごちそうさまでした。ゆきくん、ラベンダーティーを淹れてくれて、ありがとう。おいしかったよ。それから……急に泣き出して、ごめんなさい。困らせちゃったよね……」


 幸斗へと振り向いたみことは、弱々しく眉を下げてぎこちない笑みを浮かべていた。その目元と鼻の頭は、泣いた証としてまだうっすらと赤く染まっている。


「誰にでも、泣きたくなることくらいあるんですから、気にしなくて大丈夫ですよ。でも、夜は情緒不安定になりやすいですから、考え事はおすすめできません」


「そう……なんだ……」


 ぼんやりと返事をしたみことに、幸斗は力強く頷く。


「はい。ですから、考え事をするなら明日の日中の方がいいですよ」


 そう補足すると、空になった二人分のマグカップを手に取り、こたつから出る。それから、使い終わったカップやティーポットを洗うために台所に戻ろうとした矢先、幸斗の身を包む黒いスウェットの裾が不意に軽く引っ張られた。


「……ゆきくん、本当にありがとう」


 幸斗が振り返るよりも早く、背にぬくもりを感じた。

 みことが幸斗の背に額をくっつけて後ろに立っているのだと、感触から認識するなり、緊張から自然と身体が強張った。


「何も聞かないでくれて……おいしいハーブティーを淹れてくれて……本当に、本当に……ありがとう」


 血の匂いと共に、桃みたいに甘く瑞々しい香りがふわりと立ち上ってくる。

 ただでさえ、みことの身体から発せられる香りは幸斗にとって魅惑的に感じられるのに、血の匂いまで漂ってきている今、自分の意思とは関係なくごくりと喉が鳴る。


「ゆきくんも、何か悩んでることがあったら、わたし、話くらいなら聞けるよ。言いたくなかったら、ただ傍にいるよ。わたしが傍にいるのも嫌なら、そっとしておくし……えっと、だから、だからね……」


 言葉に迷うみことが、そうっと後ろから幸斗に抱きついてきた。


 いつもならば、みことからのスキンシップは喜んで受け入れるところなのだが、今は微塵も嬉しくない。


 それどころか、身体はますます緊張を強いられ、吸血衝動が湧き上がってきたせいで、口の中に唾液が溜まってきた。


「わたしも、ゆきくんの助けになりたいから……わたしにできることがあったら、何でも言ってね」


「何でも……ですか」


「うん、何でも」


 ぎこちなく首だけ動かし、背後を振り返る。

 すると、真剣に幸斗を見上げる黄金の眼差しと紫の眼差しが交錯した。


「……それなら、みこと」


「うん」


「今すぐ離れてもらえますか」


 幸斗がそう告げるや否や、みことは不思議そうな表情を浮かべた後、飛び上がるようにして慌てて離れていった。


「ご、ごごごごごごご、ごめんね! いつもの調子でくっついちゃったけど、そうだよね! もう、こういうのは嫌になってくる歳だもんね! これから気をつけるから! それじゃあ、おやすみなさい!」


 目元や鼻の頭だけではなく、顔全体を真っ赤に染め上げ、あわあわと意味もなく両手を動かしたかと思えば、みことは脱兎のごとく居間から走り去っていってしまった。


 みことの慌ただしい足音が遠のいていくと、幸斗は視線を正面に戻し、台所へと足を運ぶ。

 そして、シンクに二人分のマグカップを置いた途端、盛大な溜息を吐きながらその場にしゃがみ込んだ。


(あれの匂いでそそられるとか……変態か)


 いっそ一思いに、誰かに殺して欲しい。


 自己嫌悪から項垂れたのも束の間、のろのろと立ち上がり、幸斗専用の黒い小型の冷蔵庫の扉を開く。


 冷蔵庫の中には、冬城一族や医療関係者である鬼の末裔が幸斗のために調達してくれた、輸血用の血液が収納されている。

 その中から一つ輸血パックを選び取れば、渇きを訴える喉を癒すために口の中へと流し込む。


 みことと同じ血液型の血を選んで飲んでみたのだが、先程嗅いだばかりの香りに比べたら、圧倒的に劣っている。


 みことの血を飲んだことはないから、味は比較しようがないが、あの身の内を巡る血潮ちしおはどんな味がするのだろう。


 ――いつか、みことの血をすすることが許される日が来るのだろうか。


 そんなことを取り留めもなく考えつつ、最後の一滴まで血を飲み干した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る