好き

 ――初めてクリスマスイブに幸斗と一緒に遊園地に訪れてから、三年が経過した。

 あれから毎年恒例の行事と化し、今年でもう四度目の幸斗と遊園地で過ごすクリスマスイブだ。

 今年もみことと手を繋ぎながらパレードを眺める幸斗を、ちらりと見遣る。


 ――高校三年生の幸斗は、大学受験の結果がどうであれ、来年の三月には冬城の屋敷から出ていく。

 そしてその時、みことに伝えたいことがあると、三年前のクリスマスイブに告げられた。みことも、それまで待っていると返事をした。


(その気持ちは、今でも変わらないんだけど……)


 だが今日一日、幸斗と共に過ごしているうちに、みことから想いを伝えたいという気持ちもどんどんと膨らんでいったのだ。

 それに、ただ手を繋ぐだけではなく、幸斗にもっと触れてみたいとも思ってしまった。


(わたし……自覚なかったけど、実は肉食なのかな……)


 初潮を迎えたあの日の夜以降、前みたいに幸斗にスキンシップをしないように、なるべく気をつけてきた。それこそ、こういう時でもない限り――幸斗から手を伸ばしてこない限り、手だって握らない。


 もしかして、自ら禁欲生活を課しているうちに、いつの間にか欲求不満でも起こしていたのかと、自分自身に慄きつつも、繋ぐ手にほんの少しだけ力を込めていく。


 すると、幸斗も握り返してくれた。それだけではなく、みことの指と指の隙間に絡められていた幸斗の指の腹に手の甲をそっと撫でられた途端、何故か背筋がざわめいた。


 そうしたら、腹の底でくすぶっていた、触れてみたいという欲求があおられ、幸斗と繋いでいる手がしっとりと汗ばんできた気がする。


 気のせいならばいいが、もし本当に手汗をかいていたら、どうしよう。


 不快に思われたら嫌だから、急いで手を放したら、追いすがってきた幸斗の手に素早く掴まれてしまった。


「……みこと?」


 幸斗の声には戸惑いだけではなく、微かな不安も含まれているように聞こえ、咄嗟に隣を振り仰ぐと、その声色通りの紫水晶の双眸にじっと見つめられた。

 僅かに開かれた薄く形の良い唇から零れ落ちた吐息が、冬の外気にさらされて白く見える。


 その眼差しと唇を視界に入れるや否や、決して拒絶したわけではないのだと、幸斗を安心させたい気持ちと、その唇に触れてみたいという欲が、胸の奥底から同時に噴き上げてきた。


 その衝動に背を押されたかのごとく、気づけば幸斗と手を繋いだまま背伸びをしていた。


 ――初めてのキスは、本当に触れたのかどうか自信がないくらい、唇をかすめるだけのささやかなものだった。


 しかし、それでもみことの心は満ち足りて、コーヒーブラウンのショートブーツのかかとをゆっくりと石畳の地面に下ろしていく。


 ここにいる観客の目は、華やかで幻想的なパレードの一団に釘付けになっている。

 しかも今は夜で、みことのキスはほんの一瞬で終わってしまったのだ。

 きっと、当事者である幸斗以外の誰の目にも留まらなかっただろう。


「――好き」


 珍しく驚愕に目を見開く幸斗に向けた声は、吐息同然のあまりにも儚いものだった。

 完全に固まってしまった幸斗にふわりと微笑みかけ、溢れる想いのままに言葉を重ねる。


「ゆきくんが、好き。大好き」


 先刻よりは聞き取りやすくなったものの、それでもまだ多分に吐息をはらんだ声だ。

 余程意識していなければ、この喧騒けんそうの中では拾えないだろう。


「……約束破って、ごめんね。でも、わたし、我慢、できなくなっちゃって……ゆきくんに、キ、キス、したくなっちゃって――」


 そこまで言ったところで、どうしてか急に真顔になった幸斗に強く手を引かれ、パレードの光から引き離されていく。


「ゆき、くん?」


 声をかけるものの、幸斗から返答はない。

 その上、未だに手が解放される気配はないから、みことは足早に進んでいく幸斗の背を追いかけるしかない。


(……怒らせちゃったかな……)


 幸斗は、みことに恋愛感情を抱いていると思う。

 でも、だからといって、幸斗の意思も確認しないままにキスをしてしまったのは、あまりにも横暴だったのではないか。


 次第に冷静さを取り戻していくにつれ、自分の欲を優先させた行動で幸斗に嫌な思いをさせてしまったのではないかと思い至り、先程までは熱くなっていた顔から血の気が引いていく。


(ゆきくん、今日も楽しそうにしてたのに……)


 それなのに、みことの欲望によって楽しかった一日の幕引きを台無しになってしまったかもしれないのだ。


 申し訳なさと罪悪感と焦りで胃がきゅっと引き絞られた直後、幸斗が不意に歩調を緩めたかと思えば、等間隔に円柱が並ぶ建物の壁にみことの背を押しつけた。それから、みことの顔のすぐ脇に左手を突く。


「……え」


 まさか、これが噂に聞く壁ドンなのかと、妙に冷静に状況を把握していたら、ふと幸斗が顔を近づいてきた。


 パレードの光からも、そこかしこに設置されているガス灯に見立てた街灯からも離れているここでは、幸斗の表情がよく読み取れない。


 目を丸くして、眼前に迫る幸斗の顔を凝視していると、やがてもう一度互いの唇が重なり合った。


 しかも、掠めるようなみことのキスとは違い、幸斗のキスはしっかりと感触やぬくもりを味わうようなものだ。


 思わず身じろぎすれば、幸斗の右手がみことの後頭部に添えられ、動きを封じられてしまった。

 それから、角度を変えながら何度も唇をついばまれていく。


 幸斗とのキスは、ひどく心地良い。あまりにも気持ちが良くて、とろりと意識がとろけてしまいそうだ。


 されるがままに幸斗の唇を受け入れていたら、唐突にみことの下唇を舐められた。

 湿った熱い感触に驚いて肩を跳ね上げた拍子に、幸斗がゆっくりと顔を離していく。


 とはいえ、互いの吐息が互いの顔に触れる程度しか距離を置いていないから、傍から見れば、大して変わらないのかもしれない。


 真紅のコートも、ふわふわとしたミルキーホワイトのマフラーも、幸斗とキスをするまでは寒さをしのぐために手放せなかったのに、今ではかえって暑いくらいだ。


「……どうして、先に言っちゃうんですか」


 緊張からか興奮からか、弾んだ息を整えていたら、剣呑な低い声が耳朶を打つ。


 幸斗が身に纏っているタートルネックのニットも、スラックスも、ロングコートも黒いから、こうして覆い被さられていると、今にも闇に呑まれてしまいそうな錯覚を引き起こす。


 でも、そんな中でも、幸斗の雪みたいに白い肌とプラチナブロンド、それから苛立ちと情欲を滲ませた紫水晶の瞳は、暗闇に浮かび上がって見えた。


「えっと……さっきも言ったけど……我慢、できなくなっちゃって……」


「約束を守れないような子には、お仕置きが必要ですね」


 呟くようにそう告げられたかと思えば、みことの後頭部に回されていた幸斗の右手がするりと移動し、顎を掴まれた。そして、感触を確かめるかのように、幸斗の指先がみことの下唇をなぞっていく。

 そんな些細な仕草にさえ背を震わせた直後、再び幸斗に唇を塞がれた。


 今度のキスは先刻よりも深く、心地よさだけではなく息苦しさにも襲われる。

 本能的に酸素を求めて口を開けば、まるでそのタイミングを狙っていたかのごとく、幸斗の舌がみことの口内に侵入してきた。


 ゆっくりと歯列をなぞり上げられ、上顎をねぶられていくと、口の中に自然と唾液が溜まってくる。


 もしかしたら、この唾液はみことのものではなく、幸斗の口から流れ込んできたものかもしれない。

 だが、仮にそうだとしても、みことの口の端から溢れてしまったら、幸斗によだれを垂らしたと思われるかもしれない。


 恋する乙女として、好きな男の子の前でそんな醜態は晒したくない。


 もう、どちらのものでも構わないと、今にも溢れ出しそうになっていた唾液を飲み込み、こくりと喉を鳴らした途端、みことの口内を愛撫していた幸斗の舌についに舌を捕らわれてしまった。


「……ふ……ぅ……」


 互いの舌を絡ませ合うという、慣れない動きに翻弄ほんろうされている合間に漏れ出てきた吐息交じりの声は、みこと自身驚くほど、甘ったるい。

 これは絶対に幻滅されたと思ったら、不意に涙腺が緩んだのか、じわりと視界が滲んでいく。


(……確かに、これはお仕置きだ……)


 恥ずかしくて、自分が情けなくて、どうしたらいいのかも分からなくて、もう泣きたい。

 モスグリーンのショートパンツから覗く、ダークグレーのタイツに覆われた足が、何故か震え出す。


 目尻から涙が零れ落ちようとした矢先、幸斗がようやくみことの舌を解放してくれ、顎を掴んでいた手で生温なまぬるい雫をぬぐってくれた。


「――好きです、みこと」


 明瞭になった視界いっぱいに、何かを堪えるように眉根を寄せつつも、みことに柔らかく微笑みかけてくれる幸斗が映り込む。


「絶対、みことよりも俺の方がもっと大好きです。みことのこと、ずっと大切にします。だから……こういうことをするのも、そういう顔を見せるのも、俺だけにしてください」


 どこか切羽詰まった話し方は、滅多に感情を乱しているところを見せない幸斗らしくない。

 しかし、それだけ真剣に、切実に求められているような気がして、きゅっと胸がうずく。


「……うん」


 本当は、みことよりも幸斗の恋心の方が強いという発言には首を傾げるしかなかったし、そういう顔というのもどういう顔なのかと問いただしたかった。


 でも、今ここで馬鹿正直に問いかけようものなら、幸斗に攻め込む隙をさらに与えることになりそうな気がしたから、とりあえず大人しく頷いておく。


 それに何より、今はそんなことよりも先に確かめておきたいことがあるのだ。


「えっと、それじゃあ……わたしたち、今から恋人同士ってことでいいんだよね?」


 恋人同士という言葉に胸を高鳴らせながら問いかければ、幸斗の表情がふわりとほころび、苦笑いをされた。


「散々キスしておいて、今さらな気がしますが……そうですね、付き合ってるって認識で合ってますよ」


「じゃあ、じゃあ……ゆきくんはわたしの彼氏で、わたしはゆきくんの彼女なんだね!」


 幼い頃からずっと憧れてきたポジション名を口にすれば、微笑ましいものを見るような眼差しを注がれる。


「はい、そうです」


「やった! じゃあ、これからは好きな時に手を繋げるし、ハグできるし、キスもできるね!」


 恋人同士という関係性はなんて素晴らしいものなのかと、内心感動に打ち震えていたら、どうしてか幸斗の表情が微妙なものへと変化した。


「ゆきくん?」


「いえ……みことにお願い事ばかりして申し訳ないんですが……もうちょっと、その勢いをセーブしてください。俺があの家を出るまででいいので」


「あ、受験があるから?」


 今日は息抜きということでデートをしているが、幸斗は受験生なのだ。

 確かに、恋にうつつを抜かすみことに付き合ってばかりもいられないだろう。


 みことが納得して頷いていると、幸斗の右手にそっと頬を撫でられた。


「それもありますけど……みことが思ってるほど、俺の理性は絶対的なものじゃありませんから」


 幸斗に何を言われたのか、すぐには理解できなくて、きょとんと目を瞬かせる。

 だが、徐々に理解が追いついていくにつれ、じわじわとまた頬が熱を帯びていく。


「う、うん……分かった、約束する」


「今度は、ちゃんと守ってくださいね」


「うん」


 気持ちがまだそこまで追いついていないというのもあるが、みことは桃娘とうじょうなのだ。結婚するまでは、純潔を守り通す義務がある。


 そして、それ以上にみことが婚前交渉に及ぼうものなら、怒り狂った父に幸斗の全身が八つ裂きにされてしまいかねない。


 きりっと表情を引き締めて力強く頷くと、再度幸斗の指先がみことの下唇に触れてきた。


「あと、今夜はなるべく早く離れに行ってくださいね……あまり一緒にいる時間が長過ぎると、襲わない自信がなくなってくので」


 淡々と続けられた言葉に、ぽかんと口を開ける。


(男鬼って……大変なんだな……)


 みことにとっての欲望とは、せいぜいキス止まりだ。

 キスを遥かに凌駕りょうがする欲を持て余す男鬼という生き物は、そんなに理性と欲望の狭間で戦わなければならないのか。


「うん、約束する」


 幸斗を苦しめるような真似はしたくないから、もう一度宣言したら、みことの下唇を撫でていた指先が離れ、代わりにキスがふわりと降ってきた。


「……いい子にしてれば、これからもご褒美のキスをあげます」


 あっという間に幸斗の唇が離れていったかと思えば、甘く優しく囁かれ、くらりと脳髄のうずいが痺れた。


 ――ご褒美のキスをかてに、幸斗が冬城の屋敷を出ていくまでは、恋人らしいスキンシップは我慢しよう。


 今すぐにでも幸斗に抱きつきたい衝動を堪えつつ、そう心の中で誓ったみことは小さく頷いた。

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