予約 前編
「――ずっと前から、好きでした! 私と付き合ってください!」
いつものように「ゆきくん」と呼ぼうとした声が、その言葉によって喉の奥に引っ込んだ。
みことが通う中高一貫校の女子校と、幸斗が在籍する男女共学の中学校は近くにある。
だから、小学生の頃と変わらず、みことはなるべく幸斗と一緒に登下校していた。
そして今日も、待ち合わせ場所へと急いでやってきてみたら、この告白現場に遭遇してしまったのだ。
(ど、どうしよう……! こういう現場に居合わせたら遠慮なく妨害してくれって頼まれてたのに、間に合わなかった……!)
異国の王子様さながらの上品な雰囲気の美形である上、内面も同年代の男子よりも遥かに大人びている幸斗は、小学校の高学年くらいから身近な女子の憧れの的だった。
だから、女の子から愛の告白を受けたことは、一度や二度の話ではない。
だが幸斗としては、女子から好意を向けられることは歓迎できない事態らしい。
以前、みことが空気を読んで事態が収束するのを黙って待っていたら、何故か機嫌が悪くなった幸斗に、次からこういうことがあったら、全力で阻止して欲しいと頼まれたのだ。
とはいえ、今ここで空気を読まずに突入していく度胸は、ただの妹分に過ぎないみことにはない。
内心激しく動揺しつつも、不自然にならないようにその場を移動し、電柱の影に隠れて二人の様子をこっそりと窺う。
制服として指定されている学ランを身に纏った幸斗の横顔からは、感情らしき感情が一切読み取れない。
はっきり言って、幸斗と接することに慣れていない相手からすれば、怖いとすら思うのではないか。
それでも告白を遂行してみせた女の子に感心していたら、不意に幸斗が美しい所作で頭を下げた。
「――申し訳ございません。好きな人がいるので、貴女の気持ちに応えることはできません」
自分に告白してくれた女子に答えを返した幸斗の口調は、どこまでも丁寧だ。
しかし、だからこそひどく他人行儀に感じられたし、直接あの言葉を浴びせられた女の子は、突き放されたような心地を味わったのではないか。
みことの予想は当たったみたいで、幸斗に想いを丁重に断られた女子はきつく唇を噛み締め、それ以上何も言わずに走り去っていってしまった。
でも、今のみことには見事玉砕した女の子を気にかける余裕なんて、微塵もなかった。
(は……? 好きな、人……?)
もしも、幸斗が「好きな子」と表現していれば、みことを指しているのかもしれないと思っただろう。
みことは決して他者から向けられる好意に鈍感ではないから、幸斗から受ける特別扱いも、恋情に限りなく近い想いにも、きちんと気づいている。
だから、自惚れでも何でもなく、自然と自分のことではないかと思えたはずなのだ。
だが、年下の女の子を「好きな人」とは普通は表現しないと思う。
年上か、少なくとも同い年相手に使う言葉だろう。
(……ゆきくんの好きな人って、誰なの)
幸斗とみことは学年も、通う学校も違う。
だから、みことの知らないところで、幸斗が女子の先輩や同級生に恋に落ちたとしても、不思議なことなんて何もない。
それなのに、幸斗の返事を聞くまで、その可能性に全く思い至らなかった。
あまりにものんきに構えていた自分に愕然としていたら、ふと石鹸によく似た清潔な香りが鼻先を掠めていった。
いつの間にか俯いていた顔を上げれば、紫水晶の双眸に射抜かれた。
「お待たせして、すみません。みこと」
こんなにも接近されるまで幸斗の存在に気づかなかった上、至近距離で顔を覗き込まれ、思わず息を呑む。
しかし、すぐに先程の発言を思い出したら、何事もなかったかのような涼しい顔をしている幸斗に、自然と苛立ちを覚えた。
「……べっつにぃ。ゆきくんが謝ることじゃないでしょ」
できることならば、みことだっていつも通りに幸斗に接したかった。
でも、そんなみことの気持ちをこれでもかというほど裏切り、唇から零れ落ちた声はあからさまに不貞腐れた響きを帯びていた。
(なにが、べっつにぃなの。全然、別にって声じゃなかったくせに)
自分の幼さに嫌気が差し、幸斗から顔を背けると、さっさと歩き出す。
「ほら、早く行こ。今日は買い物してから、帰るんだから」
本当は一人で帰りたい気分だが、桃娘であるみことに単独行動は許されない。
だから、もし幸斗とは別々に帰る場合は、仕事で東北に行っている父がいない今、みことの護衛を担当している瑠璃をわざわざ呼び出さなければならないのだ。
さすがに、そこまでして幸斗と距離を置きたいと思うほど、みことも子供ではない。
それでも、口をへの字に曲げたまま足早に歩き続けていたら、あっという間に幸斗に追いつかれてしまった。
だが、みことの機嫌がすこぶる悪いからか、時折視線を向けられることはあっても、口を開く様子は欠片もない。
みことも、時々幸斗を横目に窺いながら歩みを進めていく。
ふと視線を落とせば、みことの身を包む、襟がセーラー服調になっている、海老茶色のワンピース状の制服が視界に入った。
幸斗が通う中学校の女子生徒の制服はセーラー服だから、似ているといえば似ている。
しかし、向こうの制服の色は濃紺である上、胸元を飾っているのは赤いスカーフであるのに対し、みことが通う桃園女学院の制服は黒いリボンがあしらわれている。
そもそも、制服が似ていたところで、幸斗と同じ学校に通えるわけではない。
しかも、幸斗はあと半年もしないうちに、中学校を卒業するのだ。
今になって同じ学校に在籍することができたとしても、一緒に過ごせる時間などたかが知れている。
(こんな不毛なこと考えるなんて、ばっかみたい……)
黙々と歩き続けているうちに、気づけば目的地である商店街の中のドラッグストアへと辿り着いていた。
一つ溜息を零し、店内に足を踏み入れるや否や買い物かごを二つ取り、そのうちの一つを幸斗に渡す。
「はい、ゆきくん。これお買い物メモ」
最初は、みことが愛用しているリップクリームがそろそろ使い終わりそうだったから、新しいものを購入するためだけにドラッグストアに寄るつもりだったのだ。
でも、みことたちがドラッグストアに行くと知った琴子が、あれもこれもと追加で頼んできたのだ。
みことが手渡したメモ用紙を素直に受け取った幸斗は紙面に視線を落とすなり、眉根を寄せた。
「……随分とかさばるものや重いものを頼まれたものですね」
「まあ、琴子さんも歳が歳だから……。それに、今日はそういうのの特売日だったんだって」
トイレ用洗剤や食器用洗剤は、まだいい。
しかし、箱ティッシュやトイレットペーパー、それから二リットルのペットボトル飲料は、車の運転ができる人に頼んで欲しかった。
もう一度溜息を吐きつつ、カートも取ってくると、買い物かごを乗せた幸斗がみことをちらりと見遣った。
「みことは、先に自分の買い物をしててください」
「え、いいの?」
「元々の用事は、みことの買い物だったんですから、そちらをどうぞ優先してください。それに、二手に分かれた方が、早く済みますし」
「……それもそうだね。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうね」
みことがそう答えれば、幸斗は浅く頷いてさっさと飲料水コーナーへと向かってしまった。
きっと、一番重いものをみことに運ばせなくて済むように、真っ先に取りに行ってくれたに違いない。
その気遣いが嬉しい反面、そういうところが異性の目に好ましく映るのだろうと思ったら、手放しに喜べない。
(ゆきくん、そこまで格好良くなくても、優しくなくても、よかったのにな……)
そうすれば、他の女子が幸斗の良さに気づくことはなかったのかもしれないのにと、心の狭いことをつい考えてしまう。
みことが普段使っているものよりも値段は高いものの、保湿効果も高いという謳い文句が書かれている。
(もう十月も半ばだし……自分のお小遣いで買うんだし……い、いいよね)
誰にともなく心の中でそう言い訳しつつ、新商品のリップクリームにそろそろと手を伸ばす。
その中から無香料のものを選び取って買い物かごに入れ、その場から離れようとした直後、いつもならば気にも留めないリップグロスに、ふと視線が吸い寄せられていった。
パール粒入りの淡いピンクのリップグロスは、見た目も非常に可愛らしい。
それに、もっと鮮やかな色だったら手を出しにくかったものの、唇本来の色とさほど変わらない色合いのものならば、まだ十三歳のみことが使ってもおかしくはないのではないかと、自然と購買意欲が高められていく。
思わずリップグロスを手に取ってみたものの、表示されている金額が視界に映った途端、ぴたりと動きが止まってしまった。
(こういうのって、思ったより高いんだ……)
まだ日焼け止めとリップクリーム以外のコスメ用品を買ったことがなかったみことは、てっきりリップクリームとそんなに変わらない値段で買えるものだとばかり思っていた。
衝撃が薄れていくにつれ、こういうものを背伸びして欲しがるところが、つくづく子供っぽいと、自己嫌悪に陥っていく。
(本当に……ばっかみたい)
冷静さを取り戻せば取り戻すほど、自分でも気づかないうちに、こういうものを使えば少しは大人びて見えるのではないかという薄っぺらい考えを抱いていたことまで自覚させられ、何だか情けなくなってきた。
「――それ、買わないんですか」
手に取ったリップグロスを元の場所に戻した直後、低く穏やかな声が耳朶を打った。
驚いて振り向くと、いつの間にかすぐ近くに幸斗がいた。
みことの手元を見つめていたらしい視線が持ち上がれば、紫の眼差しと黄金の眼差しが絡み合う。
その眼差しに晒されていると、みことの分かりやすい心を全て見抜かれてしまいそうで、咄嗟に目を逸らして苦笑いを浮かべる。
「……うん、ちょっと気になっただけだから。買い物、続けよ」
「頼まれたものは、全部取ってきましたよ」
「え? は、早いね……ありがとう」
みことがぼんやりとリップグロスを眺めている間に、幸斗は手早く用事を済ませてきてしまったらしい。
幸斗の仕事の早さに驚きつつも礼を告げ、一刻も早く未練を断ち切るべく、レジカウンターへと足を向けた。
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