第19話 愛を、捧ぐ

 ――ずっと、意識が暗い水底に揺蕩たゆたっていたような気がする。

 眠りの底に沈んでいたみことを呼ぶ声に引き上げられるかのごとく、ゆっくりと瞼を持ち上げれば、見慣れない天井を背にした幸斗に顔を覗き込まれていた。


「……ゆき、くん?」


 一体、どれほど眠っていたのだろう。唇から零れ落ちた声は、掠れていた。

 そもそも、自分がどうして意識を失っていたのか、よく思い出せない。


(確か、瑠璃ちゃんが人質に取られて……でも、ゆきくんはわたしを鬼頭のお屋敷に連れていこうとして……それで――)


 ――それで、どうなったのか。

 自分の周りに視線を走らせ、みことが寝かされていたのはどこかの病室のベッドの上らしいことを把握する。


「みこと、気分はいかがですか。今、誰か呼びますから――」


「――ゆきくん、ちょっと待って」


 ナースコールに手を伸ばそうとした幸斗を止めたら、怪訝そうな紫の眼差しが注がれた。


「気分が悪いとか、そういうのはないよ。ただ……わたしの意識が戻るまで、どのくらいかかったのか、教えて」


「みことが眠ってたのは、一日だけですよ」


 幸斗はみことを安心させるように優しい口調でそう教えてくれたが、丸一日も意識がなかったのだとしたら、相当心配をかけてしまったのではないか。現に、視線の先にいる幸斗は、どこか憔悴しょうすいしているように見える。


「ゆきくん……わたし、ゆきくんの手を振り払った後のこと、よく覚えてないの。わたし、何があってこんなことになってるの?」


 正直に事情を打ち明け、さらなる説明を要求すれば、幸斗が驚いたように目を見張った。


「……覚えて、ないんですか」


「うっすらと覚えてることもあるけど……夢だったのか現実だったのか、正直自信がない」


「そう、ですか……」


 幸斗はどうしたのものかと言わんばかりに視線を彷徨わせたものの、紫水晶の双眸が再びみことを捉える。


「……分かりました、俺にできる範囲で説明します」


 そう前置きをしてから、幸斗はみことがこの病院に運び込まれるに至った経緯を、淡々とした口調で説明してくれた。

 しかし、明かされていく事実をすぐには呑み込めなかった。


「わたしが……瑠璃ちゃんを助けただけじゃなくて、鬼たちをリンチしたの?」


 到底信じられない話だ。

 そんな大立ち回りをしたというのであれば、もっと倦怠感けんたいかんや筋肉痛に見舞われているものなのではないか。


 でも、みことの身体は至って普段通りだ。輸血が行われ、点滴を打たれ、一日中眠り続けていたらしいとはいえ、そこまで早く回復できるものなのか。


 みことの手で鬼たちに報復したのだと、幸斗に聞かされた話を反芻していたところで、はっと我に返る。


「ゆきくん……わたし、この手で誰かの命を奪ったり、した?」


 もし、この手で誰かの息の根を止めたのだとしたら、みことは間違いなく鬼殺しだ。

 だが、幸斗は間髪入れずに首を横に振り、否定した。


「いいえ、みことは誰も殺めてません……重傷者は出ましたけど」


「そう……じゃあ、人間の社会の法が適用されてたら、わたしは傷害罪で捕まってたね」


 鬼社会では、人間の社会の法は通用しない。鬼には、鬼だけの掟がある。

 だから、みことが罪に問われることはないだろう。せいぜい、今後二度とこんな真似をしないようにと、厳重注意を受けるくらいに違いない。


 しかし、だからといって、みことが過剰防衛に走った事実は消えない。今回の出来事は、鬼の歴史に刻まれることになるだろう。


「それを言ったら、相手は暴行罪に加重人質強要罪、殺人未遂罪、銃刀法違反などで逮捕されるでしょうね」


「だからって、何の免罪符にもならないよ」


 右手を持ち上げると、目元を隠す。それから、深々と息を吐き出した。


「……ゆきくん、ごめんね」


「みことが謝らなきゃいけないようなことをされた覚えはありませんけど」


「いや、ゆきくんにとっていい迷惑でしょ。結婚したばかりの相手が、こんな……短命の化け物とか」


 自分で口にしておきながら、胸に痛みが走る。唇が、自嘲の笑みの形に歪む。


「ゆきくんは……もっと普通の相手と結婚出来たら、よかったのにね」


 ――本当に、こんな娘と結婚させられた幸斗が可哀想だ。


「ただでさえ、わたしは次の桃娘を産んだら、そう遠くないうちに死んで、ゆきくんの寿命まで決めちゃうのにさ……我を忘れるほど暴力に溺れる女と結婚しちゃったとか……貧乏くじを引いたも同然でしょ」


 もっと早く、自分でさえ知らなかった、みことの本性が暴かれていればよかったのに。そうすれば、幸斗はもっと真っ当な人生を歩めたはずなのに。


「わたし……ゆきくんからも、お父さんからも、琴子さんからも、瑠璃ちゃんからも、兄さまからも、他のみんなからも、本当にたくさんのものをもらってきたのに……まだ何も返せてないのに、こんなことになっちゃうなんて……」


 思い返せば、みことは関わった相手の大切なものを奪ってばかりだ。


 自分を産んでくれた母の命を奪い、父から最愛の妻を奪い、琴子や瑠璃からは時間と労力を奪ってきた。

 そしてこの先、幸斗の可能性と寿命まで奪うというのか。


 できることならば、みことにとって大切な人や鬼に何かを与えられる存在になりたかった。そうなれるように、努力もしてきたつもりだ。


 幸斗との婚姻だって、好きだからという理由が一番だが、桃娘であるみことと結婚すれば、箔がつくからという打算もあったのだ。そうすれば、鬼社会において不安定な立場にある幸斗を、少しでも守れるのではないかと思ったのだ。


 でも、いざ蓋を開けてみれば、どうだろう。ただの厄介な化け物の、思い上がりに過ぎなかったではないか。


「……ゆきくん。わたしはきっと、これから厳重に管理されるべき化け物として扱われると思う」


 桃娘は、鬼たちの制御下に置ける、子を産むための便利な道具だというこれまでの認識を、みことは覆してしまったのだ。十中八九、みことが長きにわたる雪辱を果たそうとするのではないかと、鬼たちは戦々恐々としているはずだ。


「そうしたら、護衛の鬼たちはそのまま監視に回ると思う。ゆきくんにも不自由な思いをさせることになるし、ゆきくんもわたしの監視を義務付けられるかも。だから、ゆきくんが望むなら、今のうちに――」


 ――離婚してもいいよ。

 そう続けようとしたみことの目元に乗せられた腕が、突然退かされた。開けた視界の先では、恐ろしいほど表情がごっそりと抜け落ちている幸斗に見下ろされていた。


「今のうちに……何ですか」


 幸斗の低い声からは、感情の起伏が一切感じられない。だからこそ、余計に怖いと思ってしまった。


「みことは俺を捨てるつもりですか。……もう、俺は文字通りみことなしでは生きられない身体にされたというのに」


 みことの手首を解放した幸斗の手が伸びてきたかと思いきや、その指先がみことの首筋に触れてきて、全身の肌が粟立った。


「角度的に見えないでしょうけど、ここに俺の噛み跡があります……俺がどうやってみことの意識を落としたのか、さっき説明しましたよね?」


 吸血鬼は、生涯を共にすると誓った伴侶の血を飲むことで、寿命が決まる。

 その話は、みことが中学生くらいの頃に聞いていた。そして、幸斗が吸血したことでみことを無力化したのだと、先刻説明を受けたばかりだ。


 じわりと目頭が熱を帯びていき、次第に視界がぼやけていく。


「ゆきくん……本当に馬鹿だよ……わたしの意識を落とすだけなら、他にも方法があったでしょ……」


 幸斗は自分自身の判断のせいで、己の運命を決定づけてしまった。いや、そもそも鬼の力が覚醒したみことが怒りに呑まれなければ、こんなことにはならなかったはずだ。


 しかも、生きるために必要不可欠であるにも関わらず、幸斗は吸血行為を忌避きひしていたのだ。それなのに、幸斗が嫌悪する行為を強いてしまったのかと思うと、やはりみことは疫病神以外の何者でもない。


「ゆきくん……なんで……わたしのために、そこまでしたの……?」


 泣きたくなんてないのに、目尻に溜まっていた涙が次から次へと溢れ出していく。


「ただ、みことと一緒に生きたかった。それだけですよ」


 幸斗の手が移動し、その長い指先に零れ落ちる涙をそっとぬぐわれた。


「周りから疎まれてた俺に、泣きながらただ生きてるだけでいいんだと言ってくれた女の子が、結婚できる年齢になったから……早めに手を打たないと他の男と結婚させられると分かってたから、結婚を申し込んだ。それって、そんなにおかしな話ですか」


 はっきりとは覚えていないものの、昔、無茶をしたみことを迎えにきてくれた幸斗に、そんなことを言った気がする。


 当時七歳の子供でしかなかったみことの、本人でさえ忘れかけていた言葉を、今でも大切に記憶に残してくれていたのかと、驚愕に目を見開くと、ますます涙が流れ出ていった。


「あの時と同じ言葉をそっくり返しますよ。俺は……みことが、ただ生きてくれるだけでいい」


 表情が抜け落ちていた幸斗の美しい顔に、心が奪われそうなほどの優しい微笑みが浮かぶ。


「みことに先に置いてかれるのだとしても。俺も、長くは生きられなかったとしても。みことがただの桃娘ではなく、鬼の先祖返りでもある可能性があったとしても――その限りある時間を一緒に過ごしたい。それ以上、俺は望みません」


 今、目の前で甘く囁くこの青年は、なんて無欲なのだろう。

 その気になれば、もっと多くのものを手に入れられそうなのに、その全てをみことに捧げようとしている。


 もったいないと思うのと同時に、それほどまでに望まれているのかと、眩暈めまいを覚えそうなほどの歓喜が胸の奥底から湧き上がってくる。


「だから、みこと。俺を想うなら、突き放そうとしないでください。次、あんなこと言ったら、その憎らしい口を塞ぎますよ」


 そう宣告した直後、みことはまだ何も口にしていないのに、唇を奪われた。

 その感触があまりにも優しくて、そのぬくもりがあまりにも愛しくて、涙が止まらなくなる。


「俺は……みことのいない世界なんて、いりません」


 ほんの少しだけ唇を離され、吐息交じりに零れてきた囁き声に、思わずぎょっと目をく。衝撃的な告白のおかげで、止まらないと思っていた涙まで引っ込んでしまった。


「だから、みことが申し訳なく思う必要なんて、これっぽっちもありませんよ。俺は既に、充分過ぎるくらいに幸せなんですから」


 幸斗は感情があまり顔や態度に出ない分、言葉を尽くしてくれる。

 だが、言い換えれば、幸斗が口に出さない感情は、あまり伝わってこないのだ。


 幸斗の胸の内に、こんなにも深く重い愛が隠されていたのかと、十二年以上共に過ごしてきたはずなのに、度肝を抜かれたみことの唇に、再度キスが落とされた。

 それからも、幾度となく触れるだけのキスが繰り返されていくうちに、自然と苦笑いが浮かんだ。


「ゆきくん……わたしじゃなきゃ、ゆきくんの気持ちを受け止めきれないね」


「みこと以外の女性に興味はありませんから、心配なさらずとも大丈夫ですよ」


 幸斗と同じ屋敷で生活している間、ずっと面倒を見てもらっていた。みことよりも年上で、精神年齢に至ってはもっと大人びている幸斗にこれまで甘やかされてきたと思っていた。

 しかし、みことが気づかなかっただけで、幸斗からも甘えられていたのかもしれない。


「それに、みことも死ぬまで俺に血を提供し続けないといけないんですから、お互い様かと」


「それは、ゆきくんが生きる上で必要なことなんだから、仕方ないでしょ」


「ほら、やっぱりお互い様じゃないですか」


 笑い交じりの吐息が、みことの唇をくすぐっていく。


「みこと――ずっと、ずっと……愛してる」


 普段は決して敬語を崩さない幸斗の素の言葉に、本気を感じ取る。


「わたしも……ゆきくんのこと、これまでもこれからも……愛してるよ」


 再開されたキスの合間にそう囁き返すと、重なる唇が一際深くなっていく。


 みことと幸斗は文字通り、互いの命を握り合う運命共同体になってしまった。

 でも、幸斗とならば、これから先何があっても、二人で助け合い、乗り越えていけるのではないかと思う。


 そんなことを考えつつも、幸斗の唇の感触と温度を味わい、目を閉じて陶酔とうすいする。


 ――だがその直後、みことの様子を見にきた父がこの病室に突入し、ちょっとした騒ぎに発展してしまった。

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