第16話 ただ、生きているだけで

「……みこと。刀眞さんに『そんなことないよ』って、何について言って欲しかったんですか」


 決してはぐらかそうとしているわけではないのだと伝えるため、みことの背を擦りながら質問すると、震える声が返ってきた。


「だって……だって……! うちのお手伝いさんたちが、ゆきくんも助からなければよかったのにって……そうすれば、こんな厄介なことにならなかったのにって、そもそも産まれてこなければよかったのにって、話してたんだもん!」


 みことの怒ったような声が耳朶を打った途端、そんなことかと内心呟いた。


 幸斗の両親は痴情ちじょうのもつれにより、伯父の正妻に殺害されたのだ。


 現場には幸斗もいたのだが、当時五歳だった子供を手にかけるのは、さすがに躊躇われたのだろうか。もしくは、幸斗を守るために覆いかぶさっていた母の遺体が邪魔だっただけなのか。


 とにもかくにも幸斗だけは見逃され、女鬼は両親の命を奪った銀製の大振りのナイフで自らの喉を裂き、その場で自害したのだ。


 鬼柳本家にとって、家名に泥を塗った事件を思い起こさせる幸斗は、目障りな存在でしかないのだろう。


 そんな扱いに困る子供を押しつけられた冬城一族も、冬城家に仕える者たちも、とんだ災難だったに違いない。それでも幸斗を引き取る決断を下しただけ、鬼柳一族よりは遥かに温情をかけてもらえている。


「みこと……それは、仕方ないことですよ」


「そんなことないもん!」


「そんなこと、あるんです……いるんですよ、ただそこにいるだけで、周りに嫌な思いをさせてしまう子供は」


 ――お前さえ、いなければ。


 せ返るほどの血の臭いが充満した自宅から刀眞に助け出され、運び込まれた病院で、異父兄であり従兄弟でもある暁斗に、心の底から忌々しそうにそう吐き捨てられた。


 その時から、幸斗は他者に何の期待もしなくなった。期待さえしなければ、相手に何も求めなければ、傷つかずに済む。


「だから、みこと――俺なんかのために、こんなことしなくてよかったんです」


 そう言い終わった直後、思い切り頬を張り飛ばされた。

 手袋越しだったから、そんなに痛くなかったものの、みことに平手打ちを受けたことそのものに衝撃を受け、目を見開く。


「……なんか、じゃない……」


 幸斗を睨み据えるみことの目尻から、涙が溢れ出していく。


「ゆきくんは、わたしの大切な男の子だもん! なんかじゃないもん!」


 手袋に包まれたみことの両手が、再びネイビーブルーのコートに包まれた幸斗の肩を叩く。


「産まれてこなければよかったのにって言われると、本当に自分でもそう思っちゃうのに! 今すぐ消えたい気持ちになっちゃうのに! ごめんなさいの気持ちでいっぱいになっちゃうのに! あの人たち、子供だからどうせ分からないからって、平気であんなこと言ったんだよ! わたしも言われたことあるから、分かるもん!」


 みことの心からの叫びに、思わず息を呑む。

 周囲から愛されているように見えるみことですら、産まれてきたことそのものを呪われたことがあるのか。


(ああ、でも、そうか――)


 桃娘は次代の桃娘を産むと、命を落とす。その仕組みがある以上、先代の桃娘の死を惜しむ者に、非難の矛先を向けられてしまうのは、ある程度仕方がないのかもしれない。

 でも、だからといって納得できるわけがない。


 誰がみことの心の柔らかい部分を抉る言葉を浴びせたのかと、次第に腹の底からふつふつと怒りが湧き上がってきた。


「でも、でもね……お父さんに『産まれてきて、ごめんなさい』って謝ったら、そんなことないよって抱きしめてくれたの。みことのお父さんにしてくれて、ありがとうって言ってくれたの。そうしたらね……すごく、ほっとしたの。生きてていいんだって、思えたの。だからね、ゆきくんにもお父さんにそう言ってもらいたかったんだ」


 この雪の中、みことが良い子の殻を破り捨ててまで成し遂げたかったことは、これだったのか。


 たかがそんなことで、と思う人もいるかもしれない。

 だが、みことにとっては決して譲れないことだったのだろう。かつての自分が生きていることを申し訳なく思ってしまった言葉を投げつけられた幸斗のために何かしたくて、必死だったに違いない。


「ゆきくんは……わたしの大切で大好きな男の子なのに……ただ生きてくれるだけで、わたし、嬉しいのに……だから……だからぁ……!」


 みことの目の縁から零れ出した涙が、次々と白くて柔らかな頬を伝い落ちていく。

 そこから先は言葉にならなかったのか、みことは幸斗にしがみつくと、わあわあと声を上げて泣きじゃくった。


「……ただ、生きてるだけで?」


 亡き両親にさえ、そんなことを言われた記憶はない。もしかすると、覚えていないだけで物心がつく前に言われたことがあるのかもしれないが、両親亡き今、記憶に残っていなければ、なかったも同然だ。


 みことが幸斗からほんの少しだけ身体を離したかと思えば、顔を覗き込まれた。


「……うん、そうだよ。わたしの面倒見てくれるしっかり者のお兄ちゃんでいてくれるのも嬉しいし、そんなゆきくんも大好きだけど、そうじゃなくてもわたしはゆきくんが大好きだよ」


 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでもみことは精一杯の笑みを浮かべた。


「だから、ゆきくん。産まれてきてくれて、ありがとう。ゆきくん、大好き……お父さんに会えなかったから、わたしが代わりでごめんね。でもね――」


 透明感のある愛らしい声を遮るように、無心に動かしていた足を止め、みことの身体をぎゅっと抱き竦めた。


「……ゆきくん?」


「……みこと、ありがとう」


 みことは父の言葉に救われたから、刀眞に言わせることにこだわっていたのだろう。

 しかし、ここまで嘘偽りのない本音でぶつかってきてくれた方が、ずっとずっと幸せだ。言葉だけではなく、みことの健気さこそが幸斗の心に響いたのだと、どうやったら上手く伝えられるだろう。


「みことのその気持ちだけで……俺には、充分ですよ」


 ――貴方は……こうはならないでね。


 いびつな笑みを張り付けたまま、自らの喉を掻き切った女鬼の姿も。


 ――こんな子が一人、生き残ってもねぇ……。


 一人生き残ってしまった幸斗を歓迎していない声も。


 ――お前さえ、いなければ。


 生まれて初めて会った、実の兄から向けられた憎悪の眼差しも。


 その声が、涙が、笑顔が、想いが、記憶の奥底に封じ込めてくれる。幸斗を守るように、遠ざけてくれる。


 この先、もっと辛く苦しいことがあっても、みことの言葉と笑顔を思い出せば、きっと生きることを諦めずにいられるはずだ。


「……本当?」


「本当ですよ」


「わたし、まだ子供だけど、わたしの言葉、ちゃんとゆきくんに届いた?」


「……はい、ちゃんと届きましたよ」


 みことの言葉を繰り返していたら、ふわりと笑いかけられた。


「よかったぁ……わたしの言葉でも、届くんだ」


「もちろんですよ」


 もしかしたら、「置いていかないで」と縋っても余所よその家に預けられ、会いにきてくれてもいつかは帰ってしまう父親の背中を見送っているうちに、子供である自分の言葉は無力だと思い込むようになっていったのかもしれない。


 確かに、子供は大人に比べたら無力だ。

 でも今、こんなにも幸斗を優しい気持ちにさせてくれたのは、紛れもなくみことの力だ。


「だから……一緒に帰りましょう、俺たちの家に」


「うん!」


 元気よく頷いたかと思いきや、みことは幸斗の肩に額を預けた。先程、大声を上げて泣いていたから、疲れてしまったのかもしれない。

 みことの身体を抱え直すと、再度白雪を踏みしめて帰路を辿っていった。



 ***



 幸斗がみことを連れて帰ったら、それはもう大きな騒ぎになった。

 今までどこに行っていたのかと詰め寄る大人たちが怖いのか、みことは先刻から幸斗の後ろに隠れている。


「……みことは、刀眞さんと一緒にいました」


 幸斗のために家出を決行したみことが責められる姿を見たくなくて、咄嗟に嘘を吐く。


「刀眞さんと?」


 怪訝そうに訊き返してきた琴子に、首肯する。


「はい、みことへのサプライズで予定よりも早めに帰ってきたそうです」


「私が連絡を入れた時は刀眞さん……驚いてたみたいだったけど……」


「冬城の方々も驚かせたかったみたいです」


 刀眞は結構子供っぽいところがあり、遊び心満載のことをするのを楽しむタイプだ。これまでも、みことや幸斗に様々なサプライズを仕掛けてきた。


 そのおかげで、幸斗の嘘は受け入れやすかったらしい。琴子は何度も頷き、困ったように頬に片手を当てた。


「……刀眞さんも、困った人ねぇ。もう、心臓に悪いわ」


 みことのために嘘を吐くと決めたのは幸斗だが、ここまですんなりと信じられると、罪悪感が芽生えてくる。その上、刀眞の日頃の行いが窺え、何とも言えない心地にさせられる。


 あとで刀眞に口裏を合わせてもらおうと考えていたら、幸斗の後ろに隠れていたみことが顔を出し、申し訳なさそうに見上げてきた。不安そうな眼差しは、本当にこれでよかったのかと言いたげで、今にも真実を白状してしまいそうだ。


 だから、幸斗は右手を持ち上げると、人差し指を立てて自身の唇に押し当て、小首を傾げた。すると、何故かみことの頬がみるみるうちに赤く染まっていき、慌てたようにもう一度幸斗の後ろに隠れてしまった。

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