第15話 雪
――それは、幸斗が小学三年生、みことが小学一年生の一月の出来事だった。
その日は、みことは鬼頭本家で茶道を習う日だったから、幸斗とは帰りが別々の日だった。
将来、どんな家に嫁ぐことになっても困らないよう、みことは毎日のように習い事に勤しんでいる。
だから、放課後はろくに遊ぶこともできないのだが、それでもみことはあまり文句を言わない。
ただ、みことは苦いものや辛いものが苦手だから、茶碗一杯の抹茶を飲まなければならない茶道だけは、唯一苦手意識を持っている。
今日もきっと涙目で帰ってくるに違いないから、みことに温かいココアを淹れて口直しさせてあげようと考えながら、雪道を踏みしめて冬城家の屋敷に戻ると、何故か屋敷は騒々しい空気に包まれていた。
疑問に思いつつも幸斗が玄関の引き戸を開ければ、上がり口に立っていた琴子が勢いよくこちらへと振り向いた。
「た――」
「――ゆきくん! 帰りに、みことさん見なかった!?」
いつもおっとりとしている琴子らしからぬ剣幕に息を呑んだのも束の間、おずおずと首を左右に振る。
「……見てないです。今日はみこと、茶道の稽古の日ですよね? 習い事の日は、車で帰ってくるんじゃ……」
習い事がある日は、瑠璃が車で直接小学校に迎えに上がり、そのまま鬼頭の屋敷に送り届ける手筈になっているはずだ。そして、稽古が終わり次第、みことはまた車でここまで送られて帰ってくる。
「それが、みことさん……瑠璃ちゃんが学校にお迎えにいった時には、もういなくなってたそうなのよ」
「……え?」
今日は、三年生は六時間目まで授業がある日だ。五時間目までしか授業が入っていない一年生であるみことの行方が、瑠璃が迎えにいった時点で知れなくなったということは、問題が発生してからそれなりに時間が経っているのではないか。
「……刀眞さんには、連絡は入れたんですか」
「もちろんよ。でも、刀眞さん……明後日まで仕事の都合で神戸にいる予定だったのよ。しかも、この雪でしょう? だから、すぐにはこっちに戻ってこられないって……」
「鬼頭の本家には……」
「すぐに、このことを伝えたわ。きっと捜索してくれてるはずよ」
ならば、子供である幸斗にできることはない。鬼頭の鬼がみことを捜してくれている上、外は今も雪が降っているのだから、幸斗は家の中で大人しく帰りを待っているべきだ。
だが、今もみことは寒い外にいるかもしれないのに、自分は暖かい室内でただじっと待っているだけだなんて嫌だと、心の底から強く思った。
「――琴子さん、俺もみことを捜してきます!」
「ちょ……ゆきくん!?」
玄関の上がり口に黒いランドセルを投げ捨てるなり、琴子の制止の言葉を振り切って一目散に外へと駆け出していく。
桃娘であるみことが誘拐された可能性は、大いにある。鬼頭の鬼たちも、その可能性を視野に入れて捜してくれているだろう。
ならば、幸斗はみことが自分の意志でどこかに行った場合を考え、捜索してみよう。
(みことが、行きそうな場所……)
みことは放課後、ほとんど自由時間がない上、鬼の同伴なしでの行動は禁じられているため、学校以外の場所で友達と遊んだことはない。
だから考えられるのは、刀眞や幸斗と一緒に行ったことがある場所だけだ。
公園や散歩道、みことが気に入っているクレープ屋などを捜し回ってみたものの、幸斗が求める姿は見つからない。
(あとは――)
刀眞に連れていってもらったことがある、スーパーやショッピングモール、映画館だろうか。
いや、そこまで捜索範囲を広げてしまったら、時間ばかりがかかってしまう。
しかし、みことが失踪してから一時間以上経過しているのだから、ある程度遠くに行ってしまった可能性も考慮しておくべきだ。
相反する考えが頭の中でせめぎ合い、焦燥感ばかりが募っていく。
(……落ち着け)
みことが行きそうなところをしらみつぶしに捜すやり方は、非効率的だ。
ならば、もしみことが自分の意志でどこかに行く場合、その目的は何なのだろうか。
(父親に、会いにいくため……?)
物分かりが良く、行動範囲が狭い子供であるみことが、周囲に心配をかけることになっても押し通したい無茶といえば、そのくらいしか思いつかない。
そして、その父親は今、関西に仕事で行っている。そのことは、みことも知っている。
それならば、みことは父親に会うために、駅に向かったのではないか。
そう思い至った直後、即座に方向転換して駅に続く道へと進む。
そうやって足を動かしている間にも、降りしきる雪は徐々に勢いを増していき、だんだんと視界が悪くなっていく。
それでも前に進み続けていたら、前方から小さな人影が見えてきた。
見覚えがあるルビーレッドのコートとスノーホワイトのマフラー、それから濡れ羽色のポニーテールという組み合わせが目に留まった途端、気づけば走り出していた。
「――みこと!」
幸斗の呼び声に、ラベンダー色のランドセルを背負い、俯き気味に歩いていた女の子がのろのろと顔を上げた。
黄金の眼差しと紫の眼差しが一つに溶け合うや否や、どちらからともなく走り出していた。
「ゆきくん……!」
今にも泣き出しそうな顔で駆け寄ってきたみことを、ぎゅっと抱き寄せる。
長い時間、外にいたのだろうか。抱きしめた小さな身体は、防寒具を身に着けているにも関わらず、冷え切っていた。
「……馬鹿!」
つい、口から罵声が飛び出す。
珍しく大きな声を出した幸斗に驚いたのか、慌てて顔を上げたみことは目を丸くしていた。
「みこと、どれだけ心配したと思ってるんですか! 怪我はありませんか? どうして、こんなところに一人でいるんですか?」
小さな肩を両手で掴み、矢継ぎ早に問いかけるものの、みことは目を白黒させるばかりで、一向に答える様子がない。
勢いのままに質問を浴びせてしまったが、ひとまずみことを冬城家の屋敷に連れて帰るのが先決だと思い直し、深く息を吐き出す。
「……突然、大きな声を出してごめんなさい。とりあえず、帰りますよ。みんな、本当に心配してるんですから」
「……心配かけて、ごめんなさい」
しゅんと項垂れたみことの肩から両手を外し、ランドセルを下ろさせる。そして、みことの代わりに幸斗がラベンダー色のランドセルを背負うと、その小さな手を取る。
「みこと、歩いて帰れますか」
「……うん、自分で歩ける」
下を向いたまま、みことは幸斗に手を引かれるがままに歩き出した。
いざとなったら、ランドセルを前面に回し、みことを背負って帰ろうと考えながら、繋いだ手に一度視線を落とす。
「もう一度訊きますけど……みことは、一人でここまで来たんですか。それとも、誰かに連れてこられたんですか」
「……一人で、来たの。学校が終わった後、こっそりと……」
つまり、みことは瑠璃の目をかいくぐってここまで一人でやって来たみたいだ。仮にも瑠璃はみことの護衛として雇われているのに、幼いながらになかなかの手腕の持ち主だ。
「どうしてって、訊いてもいいですか」
できる限り穏やかな口調を心がけて訊ねれば、俯いていたみことが遠慮がちに顔を上げた。
「お父さんに……会いたかった、から……」
決まり悪そうに返ってきた答えに、やはりそうだったのかと納得すると同時に、みことへの同情が少しずつ芽生えていく。
幼い少女が離れて暮らす親を恋しがるのは、仕方がないことだろう。むしろ、今までのみことが大人にとって都合が良過ぎたのかもしれない。
それに、これまでは親に会いたくても、そのための手段を思いつきもしなかっただろう。でも、成長していくにつれて知恵を身につけ、行動範囲が広がっていく中で、父親に会いにいくための方法を見つけたに違いない。
そうしたら、我慢が限界を迎えてこんなことになったのかもしれない。
「刀眞さんが今、神戸にいるって聞いたから、駅に行ったんですか」
「うん……昨日のうちに、ランドセルにお正月のお年玉入れておいて、切符買いにいったの。でも……」
「でも?」
「神戸に行くには、どの切符買えばいいか分からなくて……駅員さんに訊いたら、お父さんかお母さんはいないのって、訊き返されちゃって……いないって言ったら、お父さんかお母さんに電話してもいいかなって言われて、慌てて逃げてきたの……」
確かに、ランドセルを背負ったままの小学生の女の子が一人で駅の構内をうろうろとしていたら、迷子か家出かと思われるだろう。駅員の対応は、大人として至極当然のものだ。
それにしても、鬼頭の鬼たちが捜索していたはずなのに、どうしてみことは駅まで一人で辿り着けたのか。
「大人たちがみことのことを捜してるはずなんですが、誰かに会いませんでしたか?」
「鬼っぽい人は見かけたけど……見つかったら、誘拐されるかもって思ったから、隠れながら駅まで移動したんだ」
桃娘を保護するはずの鬼が、みことの目には誘拐犯に映ったのか。
「わたし、鬼に攫われそうになったことがあったから、お父さんに知らない鬼にはついてっちゃ駄目って言われてたの。だから、あの人たちもそうなのかなぁって思って」
確か、みことが四歳の時に、まだ父親と一緒に暮らしていた家に、鬼頭本家とは繋がりが薄い鬼頭一族の鬼が押し入り、殺人未遂事件と誘拐未遂事件が発生したはずだ。
当時の経験と父親からの言いつけが、今回はことごとく裏目に出てしまったみたいだ。
「そうだったんですね……それは、怖かったでしょう」
ただの誤解だったとしても、まだ七歳のみことにとって、どれほどの恐怖だったのだろう。
繋いだ手をきゅっと握り直すと、みことは首を左右に振った。
「ううん、そんなに怖くなかったよ。あの時は必死だったから」
「……そんなに、刀眞さんに会いたかったんですか」
そんなにも寂しい思いをしていたのかと問いを投げかければ、みことはこくりと頷いた。
「うん……お父さんに、お願いしたいことがあったから」
「でも、刀眞さんはあとちょっとで帰ってきますから、もう少しの辛抱ですよ」
「すぐじゃなきゃ、駄目なの」
「それなら、電話すれば――」
「直接じゃなきゃ、意味ないの!」
幸斗が代替案を提案していくうちに、珍しくみことは声を荒げた。きゅっと眉を吊り上げ、睨みつけるように黄金の瞳が幸斗を見上げてくる。
「少しでも早く、お父さんに『そんなことないよ』って、ゆきくんに言って欲しかったの! それは、電話越しじゃ駄目なの!」
立ち止まってしまったみことは、駄々を捏ねるように声を張り上げて主張する。黄金の双眸には、みるみるうちに涙が溜まってきた。
話が全く見えてこないものの、これは適当に流しては駄目だと察する。
早く家に連れて帰り、身体を温めてから話を聞きたいところだが、みことは両足を踏ん張ってそれ以上進もうとしない。
今にも泣き出しそうなみことを問答無用に抱き上げれば、マフラーと同じ色の手袋に包まれた両の拳に肩を叩かれた。
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