第14話 家族

「そんじゃまあ、俺は検査入院したきょうと瑠璃ちゃんのとこにも見舞いに行ってくるわ。みことが起きたら、すぐ呼べよ」


「……刀眞さんの膝は、大丈夫だったんでしたっけ」


 昨日、みことから鋭い一撃を鳩尾に受けた恭矢は、もしかすると内臓を痛めているかもしれないからと、検査入院することになったのだ。


 鬼である恭矢の肉体は頑丈であるとはいえ、攻撃してきたみことも十中八九鬼に匹敵する力を持っているのだ。念には念を入れるくらいが、ちょうどいいのだろう。


 複数の男鬼から暴行を受け、鬼頭本家の屋敷に辿り着くや否や、病院へと搬送された瑠璃は、言わずもがなだ。おそらく、しばらく入院することになるに違いない。


「おう、伊達に修羅とか呼ばれてねぇよ」


 そして、恭矢と同じくらいみことから猛攻を受けた上、四十代である刀眞も念のため検査を受けたのだが、膝に異常はなかったのだという。さすが、先祖返りだ。


 刀眞が退室すると、途端に病室は静けさを取り戻した。

 溜息を一つ吐き、刀眞に言われた通りに手早く身だしなみを整え、急いでみことの元へと戻る。


 だが、慌てて戻ってきたところで、みことが目を覚ますはずもない。みことは相も変わらず、眠り姫のままだ。


(……確か、身体が心を守ろうとした結果、こうなってる可能性があるって、言ってたな)


 昨日、みことは突然、鬼柳一族の男鬼たちによって非日常へと叩き落された。しかも、幸斗と一緒にいたせいで命の危険にも晒された。医者の言う通り、肉体的にも精神的にもひどく疲弊していて当然だ。


「……みこと」


 ――みことは自身の伴侶にと、幸斗を望んでくれた。

 しかし、果たして幸斗はみことの未来の夫に相応しい鬼だったのだろうか。


 もしも、みことが幸斗以外の男鬼を選んでいたならば、こんなことにはならなかったのではないか。

 みことが他の男鬼を伴侶に迎え入れる光景を想像しただけで、嫉妬で胃が焼かれそうな感覚を味わうというのに、他の選択肢が脳裏にこびりついて離れない。


 豊かな濡れ羽色の睫毛に縁取られた瞼や、花びらみたいに淡く色づいた唇を眺めているうちに、初めてみことと出会った日をありありと思い出していった。



 ***



「はじめまして、みことです。よんさいです。よろしくおねがいします」


 初めてみことが冬城家の屋敷に父親に連れてこられた日は、二月のひどく寒い日だった。夜中から雪が降っていたため、刀眞はみことを送り届けるだけでも大変だったに違いない。


 明らかに練習させられたのであろう挨拶の言葉を、緊張しつつも並べたみことの頭を撫でると、刀眞は琴子に簡単に挨拶を済ませ、さっさと屋敷の玄関の外へと出ていってしまった。


 みことは、何故自分を置いて父親がいなくなってしまったのか、理解できなかったのだろう。

 琴子の制止の言葉を振り切り、すぐさま父親を追いかけて外へと向かった。それから間もなく、みことの泣き叫ぶ声が聞こえてきた。


 いつまで経っても泣き声が止まないから、心配になっておそるおそる玄関の引き戸を開け、隙間から外の様子を窺えば、雪が降りしきる中、みことは地面に膝をついた父親に抱き竦められていた。

 その光景を目の当たりにした時、心の底から安堵したのだ。


 ――ああ。あの小さな女の子は、自分とは違ってちゃんと愛してくれる親がいるのか。いらなくなったから見捨てられ、この屋敷に預けられるわけではなかったのか。


 名残惜しそうに娘を放してからは一度も振り返らなかった父親の背中に向かって、みことは力の限り泣きながら呼びかけ続けた。そうやって父を求め続けていれば、いつか振り返り、戻ってきてくれると信じていたのかもしれない。


 でも刀眞は結局、幸斗が顔を覗かせてからは娘の声に応じなかった。


 今思えば、刀眞も幼い娘と離れて暮らさなければならなくなり、辛かったに違いない。あれ以上、みことを思いやる精神的な余裕がなかったのかもしれない。


 だが、刀眞は幸斗に優しくしてくれる数少ない大人の鬼だったから、娘の涙ながらの訴えに耳を貸さない姿に、当時はひどく衝撃を受けたのだ。


 積雪の中でうずくまり、泣きじゃくるみことを見ていられず、幸斗は引き戸を開け放つと、外へと飛び出した。


「……みこと」


 両親が亡くなってからずっと自分の殻に閉じこもり続けていたため、幸斗から歳が近い女の子に声をかけるのは、随分と久しぶりのことだった。いや、もしかしたら自分から声をかけたのは、あれが初めてだったのかもしれない。


 ゆっくりとこちらへと振り返ったみことの大きな両目には、今にも溢れ出しそうなほど涙が溜まっていた。


「おいで」


 咄嗟に出てきた言葉に、幸斗自身驚いた。


 両親がいなくなってから、たくさんの大人に存在を拒絶され続けてきたのに。

 そんな扱いを受けているうちに、簡単に他人に気を許してはならないと、幼いながらに胸に誓ったのに。


 涙に濡れた黄金の眼差しと紫の眼差しが絡み合った途端、自然とみことに手を差し伸べていたのだ。


 みことはくしゃりと表情を歪めると、勢いよく立ち上がって幸斗にすがりついてきた。


「……ゆき、くん、は……みことと、いっしょ、いて、くれる……の?」


 刀眞から、これから共に暮らす男の子の名前を聞かされていたのだろう。みことは何の迷いもなく、幸斗を「ゆきくん」と呼んだ。


「……一緒に、いますよ」


 幸斗は一年近く早く、みことがこれから暮らすことになる屋敷に預けられた上、他に行き場所がないのだ。幸斗の意思もみことの意思も関係なく、二人は同じ場所で生きていかなければならない。


 しかし、たとえ他に行く当てがあったとしても、あの時の幸斗は確かにこの小さな女の子の傍にいてあげたいと思ったのだ。


 自分よりは恵まれていると思っていた少女が、結局は親に置き去りにされたから、同情したのだろうか。似た境遇の少女を繋ぎ止め、傷の舐め合いをしたかったのだろうか。


「じゃあ……みことも、ゆきくんといっしょ、いる。だから……なかよく、してね」


 最初に聞いた挨拶の言葉とは比べ物にならないくらい、たどたどしい言葉には、何の打算も飾りもないからこその素朴な響きが含まれていた。

 だからこそ、幸斗の胸の内側に温かなものが広がっていった。


「はい……仲良く、しましょう」


 こうして、家族を失ってから一年以上が経ってから、この小さな女の子が幸斗の新しい家族になってくれたのだ。



 ***



「ゆきくん! ゆきくん!」


 一緒に暮らすようになってから、みことは親鳥をしたう雛鳥みたいに、幸斗の後をついて回った。みことは人懐っこく愛嬌があり、周囲の大人から愛される子供だったが、どうしてか一番幸斗に懐いていた。


 年下の女の子に無邪気に懐かれるのは悪い気がせず、幸斗も積極的にみことの面倒を見れば、琴子をはじめとした大人たちから褒められ、自分が少しは良いものになっていく気がした。


 休みを取っては娘の様子を見にくる刀眞は、幸斗がみことに気に入られているのが面白くないのか、時折大人げない言動を取る。でも、やはり最終的には、幸斗の頑張りを認めてくれるのだ。


「どうしましたか、みこと」


「ゆきくんは、なんでおとなみたいなしゃべりかたなの?」


 まだ幼稚園生のみことにとって、普段から敬語で話す幸斗が不思議でたまらないのだろう。大きな黄金の双眸が、興味津々に幸斗を見つめてくる。


 小学生になったばかりの幸斗の周りでも、日常会話でも敬語を使う子はいないから、よく不思議がられて理由を訊かれる。


「少しでも、周りの人に嫌な気持ちにさせないためですよ」


 親戚の家をたらい回しにされている間に、幸斗がただそこに存在するだけで相手を不快にさせることがあるのだと、学んだ。だから、少しでも相手の不快感を軽減させたくて、常に礼儀正しく振る舞おうと決めたのだ。


 すると、みことはますます不思議そうに首を傾げた。


「……ゆきくんがわたしみたいなしゃべりかたしても、わたしはいやなきもちにならないよ?」


「みことが嫌じゃなくても、他の人が嫌だと思う時があるんです」


「じゃあ、わたしのまえではゆきくんがおしゃべりしやすいようにしていいよ!」


「俺はそんなに器用じゃないので、丁寧な喋り方の練習をするために、誰に対しても同じ喋り方をするって決めたんです」


「れんしゅう?」


「はい。俺もみことも、ピアノを習ってるでしょう?」


「うん」


「すらすら弾けるようになるには、練習が必要でしょう?」


「うん」


「それと一緒です」


「ふうん……ゆきくんが、いまのしゃべりかたがいいなら、それがいちばんだね」


 一応納得したらしく、みことは大きく頷くと、居間のテーブルの上に置いてあったスケッチブックと色鉛筆のケースを引き寄せた。


「わたし、おえかきするけど、ゆきくんもする?」


「はい。みことは何を描くんですか?」


「ねこさん! にゃんにゃんにゃにゃーん」


 擬音語を口ずさみながら、みことはケースから黄色の色鉛筆を取り出し、楽しそうに絵を描き始めた。色鉛筆を握った小さな手が動く度に、みことのポニーテールもゆらゆらと揺れる。

 心の底から楽しそうなみことを横目に、幸斗も黒い色鉛筆を選んで猫の絵を描き始めた。


 ――みことは、本当に良い子だ。


 滅多に負の感情に振り回されず、聞き分けが良い。せっかく会いにきてくれた父親が帰ってしまうと、しばらく幸斗にしがみついて涙を流すが、食事の時間やおやつの時間になれば、すぐに笑顔を取り戻す。面倒を見る側にしてみれば、こんなにも手がかからない子はなかなかいないと思う。


 親を、家庭を奪われたからこそ、これ以上何も失わずに済むように、良い子になるしかなかっただけなのに。

 自分だって、そうだったのに。


 似た境遇の幸斗ならば、みことの本当の気持ちを見抜くことができても、おかしくなかったのに。


 みことがあまりにも毎日を明るく生き生きと送っているから、そんな当たり前のことにも気づけなかった。

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