第13話 牙を剥く

「があっ! ああうああああ!」


 みことは言葉にならない声を張り上げつつ、必死に暴れるものの、刀眞の拘束は一向に緩まない。父親との取っ組み合いの間にヘアゴムが切れたのか、長い濡れ羽色の髪を振り乱していく。


 怒りに表情を歪めたみことは、むやみやたらに手足を動かすのをやめ、父親の左の膝に勢いよくかかとを落とした。


 娘に人体の構造を教えたことが仇になったみたいだ。みことは、人体の中でも脆い部分である関節部に集中して攻撃を仕掛けている。その上、一点のみに狙いを定めたのだから、余計に性質が悪い。


 膝の皿を砕こうとしているのではないかと思うほどの強さで何度も踵を振り下ろされようとも、刀眞は眉間に皺を刻んだだけで、娘の拘束を続けてくれている。


 足止め役を引き受けてくれた恭矢や、娘の激しい抵抗に耐えてくれている刀眞に報いるためにも、ここで幸斗がしくじるわけにはいかない。


 ちょうどその時、みことが透き通りそうなほど白い喉を仰け反らせた。

 ただの偶然だ。だが、幸斗にとってはまたとない好機だ。


「……刀眞さん、もしもの時は、俺を蹴り倒してでもみことから引き剥がしてくださいね」


 刀眞に羽交い絞めにされたみことの元へと駆け寄るなり、激突するような勢いでその白い首筋に牙を突き立てた。すると、噛みついた場所からじわりと血が滲み出し、すすり上げる。その直後、桃の果汁かと錯覚するくらい甘い液体が舌の上に広がっていき、喉を滑り落ちていく。


「あ、やああ、ああああああああああああ!」


 自分の命を脅かしかねないことをされていると、本能的に悟ったのだろう。みことは懸命に幸斗の牙から逃れようとするが、拘束されている身ではその手立てはない。


 ――幸斗は、鬼と吸血鬼の混血だ。だからこそ、血を奪うという方法で暴走したみことの意識を落とすことができる。


 しかし、今まで冬城一族が手配してくれた輸血用の血液しか飲んでこなかったため、こうして自らの牙を使っての吸血行為は初めてだ。しかも、みことの血は想像を絶するほど美味なのだ。みこととのデートの前夜だからと、念のために昨晩血を飲んでおかなかったら、我を忘れてこの血をむさぼっていたかもしれない。


(あと……少し……)


 みことの様子を窺いながら血を啜り続け、どれほどの時間が経ったのか。


 次第にみことの抵抗が弱まってきたと思えば、目の焦点が合わなくなってきた。そして、みことがゆっくりと意識を手放し、がくりと項垂れる様を見届けると、即座に首筋から牙を引き抜き、勢いよく退いた。


 口から漏れ出る荒い呼吸は、緊張感からの解放によるものか。あるいは、これまで味わったことがない血を飲んだ興奮によるものか。


 弾んだ息を吐き出す口を右手の甲でぐいっと拭うと、そこにみことの血が付着した。ごく微量とはいえもったいないと思った時には、舌を這わせて舐め取っていた。

 そんな自分の化け物じみた行動に、はっと正気に引き戻された途端、つい舌打ちを零す。


「……ゆき、よくこらえたな」


 視線を戻せば、意識を失った娘の身体を脇に抱えた刀眞が、安堵に表情を緩めた。

 その直後、いつの間にか恭矢が車に乗り込んでいたらしく、再度刀眞の愛車が進行方向にいた男鬼をき殺しかねない勢いでこちらに向かってきた。


「乗れ!」


 恭矢らしくない怒号が鼓膜を叩くや否や、みことを確保した刀眞は後部座席のドアを、幸斗は助手席のドアを乱暴に開け、車内へと転がり込んだ。


 全員の乗車を確認した恭矢は、法定速度を無視したスピードで空き地を走り去ると、徐々にスピードを落としていく。


「刀眞さん、とりあえず病院を目指しますね」


「ああ、そうしてくれ。一応、みこともきょうも医者に診てもらった方がいい」


「……刀眞さんも膝、診てもらった方がいいと思いますよ」


 刀眞は真っ先に娘と恭矢の身を案じたが、自分の膝ももう少し気にかけた方がいいと思う。

 もうそんなに若くはないのだから、関節部はもっと労わるべきだ。


「……ゆき、親切そうな言い方してっけど、本当は失礼なこと考えてねぇよな?」


 一応、幸斗の親代わりをしているからだろうか。刀眞は時々、妙に鋭い。

 刀眞の言葉に軽く肩を竦めてみせた後、病院で検査してもらわなくても大丈夫だと信じられるのは自分だけだと気づき、苦い気持ちが込み上げてきた。


 ちらりと後部座席を振り返れば、父親の膝に頭を乗せ、ぐったりと横たわっているみことの姿が視界に映った。


 血を飲む量には気をつけたのだが、貧血を起こしているのか、固く目を閉じているみことの顔色は青白い。場合によっては、輸血が必要だろう。


 みことが今こうなっているのは自分のせいだとまざまざと突きつけられる光景から、気づけば目を逸らしていた。



 ***



 ――目の前の真っ白なベッドの上で横たわり、入院着を着せられたみことは、未だに瞼を閉ざしたままだ。

 豊かな胸が上下に動いていることを確認しなければ、死を疑ってしまうくらい、静かに眠っている。


 鬼や冬城一族の出の医者がいる病院にみことを運び込んでから、一日が経過している。


 案の定、貧血を起こしていたみことは速やかに輸血を受けたのだが、何故か意識が戻らないのだ。医者曰く、貧血を起こしていたこと以外は身体のどこにも異常は見受けられないというものの、みことが目を覚ます気配は一向にない。


 そのため、ひとまず一晩入院することになったのだが、一夜明けてもみことは眠り続けている。


 幸斗の判断が甘く、自分で思っていた以上に血を吸う量が多かったせいで、みことは昏睡状態に陥ってしまったのだろうか。


 男鬼である医師にはそうではないと言い聞かせられたが、昨日の夕方から降り始めた雨が窓ガラスを叩く音と、脱水症状を起こさないためにみことの左腕に打たれている点滴から滴る輸液の音が鼓膜を震わせるだけの空間にいると、自然と思考が悪い方向へと傾いていく。


 眠るみことの顔をじっと凝視し続けていたら、ふと個室のドアをノックする音が聞こえてきた。


「……はい」


 看護師だろうかと思いながら返事をすると、引き戸が静かに開けられた。


「みことは、まだ寝てるか」


 みことの病室に現れたのは、コンビニのビニール袋を提げた刀眞だった。


 刀眞は遠慮なく病室に足を踏み入れるや否や、娘の顔を覗き込む。

 みことがまだ目を覚まさないことを確認すると、刀眞はこちらへと振り向き、手に持っていたビニール袋を差し出してきた。


「ゆき、昨夜も朝もろくに食わなかっただろ。食えるもんだけでも腹に詰めとけ」


 みことから離れようとせず、付き添いという形で病院に一泊した幸斗とは違い、刀眞は自分の検査を済ませた後、琴子に事情を説明するためにも昨日、冬城家の屋敷に帰っていった。


 冬城家の屋敷に戻ってから、きちんと食事と睡眠時間を確保したに違いない。刀眞の顔色は良く、顔つきもしっかりとしている。


 みことに引っ付いていたところで、事態は改善しない。そんなことは、幸斗も理解している。

 でも、幸斗がほんの少しでもみことから目を離した隙に、何かあったらと思うと恐ろしい。みことの呼吸を確認していなければ、安心できない。


 そんな幸斗の心中を見透かしたかのように、刀眞は苦笑いを浮かべた。


「ゆきが飲み食いしてたところで、みことには何の影響もねぇよ。みことのことが気になって仕方ねぇなら、俺が見ててやるから、一旦この部屋から出たらどうだ?」


「……いえ、ここでいただきます」


 幸斗が一歩も退く様子を見せなかったからか、刀眞はそれ以上何も言い募ってこなかった。


 刀眞からビニール袋を受け取って中身を見てみれば、缶やペットボトルに入った飲み物や、おにぎり、サンドイッチなどが手当たり次第に入っていた。


 とりあえず目についた缶のカフェオレを取り出し、プルタブを引いて口をつける。

 昨晩はほとんど眠らなかった幸斗にとって、カフェインの刺激は些か強かったが、おかげでもやがかかり始めていた意識が鮮明になってきた。


 それから、適当に選んだ卵のサンドイッチとカフェオレで食事を簡単に済ませると、またみことの顔を見遣った。


「ゆき。一回自分のアパートに戻って、シャワーを浴びるなり着替えるなり、してきたらどうだ? なんなら、仮眠も取ってこい」


 こうして刀眞に気遣われる辺り、今の自分は相当ひどい有様なのだろう。

 そんな姿をみことに見せたくないと思う反面、あの満月みたいな黄金の瞳に誰よりも早く幸斗を映して欲しい欲求がある。


「……みことの意識が戻ったら、そうします」


「なら、せめてそこの洗面所で顔を洗って髭剃ひげそれ。清潔感は大事だぞ」


 幸い、みことが入院することになった病室は個室だから、部屋の中に洗面所が備え付けられている。

 投げて寄越された、刀眞が持ってきたもう一つのビニール袋を受け止めれば、そこにはタオルと髭剃りが入っていた。もしかしたら、刀眞はこうなることを見越していたのかもしれない。


「ゆき、みことがこうなったのはお前の責任じゃねぇ。みことが暴走しなけりゃ、お前はあんなことをしないで済んだんだ。だから、罪悪感なんざ持つ必要はねぇぞ」


「……なら、みことのせいだというのですか」


「いや。強いて言うなら、鬼社会の歪みそのものが原因だろ」


 刀眞はあっさりとそう言ってのけると、眠り続ける娘に視線を戻した。その視線の先には、幸斗が吸血した証である首筋の傷跡があった。


「みことが暴走したしっぺ返しは、もう受けた。お前らを襲った鬼柳の奴らも、これからそれ相応の落とし前をつけることになるだろ。だから、それで手打ちにすりゃいい」


 だから、この話はこれで終わりだと言わんばかりに、刀眞は娘から視線を外した。


「……刀眞さんは、奴らが憎くはないのですか」


「んー? あいつら、みことにこれ以上ないくらい、ボコられてたからなぁ。あれで、大分りただろ。それに、俺が奴らを叩きのめしたところで、もう起きちまったことは変わらねぇだろ」


 確かにその通りなのだが、どうしたらそんなにも物分かり良く納得できるのか。

 信じられない気持ちで刀眞を眺めていたら、もう一度苦い笑みを零された。


「力がありゃ、何でも解決できると思ったら大違いだ。まあ、あるに越したことはねぇけどよ。使いどころを見極めねぇと、お前らを襲った奴らやみことみたいになっちまうぞ」


 予想以上に理性的な意見である上、痛いところを突かれ、反論の余地もない。

 押し黙った幸斗に、刀眞はひらりと手を振った。

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