第11話 ぜんぶ、こわしていいよ

「……ゆきくん、ごめん。わたしをおぶって、走ってくれる? あいつら……また、ゆきくんの頭を狙ってた。多分、また狙ってくると思う。だから……」


「ですが、そうしたらみことが……」


「あいつら、わたしのことは一度も狙ってない。まあ、さすがに子供を一人も産んでない桃娘を殺すほど、向こうも馬鹿じゃないよ。だから、心配しないで。わたしがゆきくんの盾になる」


 逡巡するように視線を彷徨わせたのも束の間、腹を括ってくれたに違いない。幸斗は表情を引き締めるなり、素早く身体を起こしてみことに背を向け、その場にしゃがみ込んでくれた。


 みことがその背に飛びついた途端、幸斗にしっかりと両足を抱え込まれたかと思えば、人一人分の重みなんてないかのように駆け出した。


 また幸斗の頭部に狙いを定めて発砲されないよう、目の前の首にぎゅっと抱きつく。もし、このまま狙撃すれば、頭に風穴が開くのは幸斗ではなく、みことだ。


 弾かれたかのように、左手にある陸橋に視線を投げる。目視できる範囲には人影は見当たらないが、今も尚どこかでみことたちに狙いを定めているのかもしれない。


 そう思い至った直後、何故かみことの口角が上がっていった。幸斗の首に巻き付けていた左腕を外し、目に見えぬ狙撃手に向け、親指で喉を裂くジェスチャーをしてみせる。


(……やれるものなら、やってみろ)


 次から次へと命の危機に瀕する状況に直面し、脳内にアドレナリンが溢れ出しているのだろうか。不思議と、気分が高揚していた。


 視線を正面に戻すと、振り落とされないよう、またすぐに幸斗に掴まり直す。

 みことを背負っているにも関わらず、幸斗の走るスピードが衰える気配は一向にない。


 このまま敵の攻撃を捌き続けていれば、いずれは振り切ることができるだろう。そうしたら、敵を引き連れずに鬼頭本家の屋敷に辿り着けるかもしれない。

 そんな淡い希望が胸の奥底に芽生えそうになったところで、ふと右手に空き地が見えてきた。


「止まれ!」


 突然響き渡った怒声に構わず、幸斗が走り抜けようとした直前、みことの視界の端にとてもではないが見逃せないものが映った。


「ゆきくん、お願い! 止まって!」


 みことの悲鳴じみた声に、スピードを緩めた幸斗が首を捻り、驚いたように振り返る。

 だが、幸斗の反応に構っている余裕なんて、今のみことには砂粒ほどにもない。幸斗の背から飛び降り、空き地に向かって駆け出す。


「――瑠璃ちゃん!」


 ――そこにいたのは、後ろ手に縛られ、両膝を地につき、こめかみに銃口を押し当てられ、見るも無残な姿に変わり果てた瑠璃だった。


 ここに至るまで、苛烈な暴行を受けたに違いない。ミッドナイトブルーのパンツスーツは所々破れ、血が滲んでいる。そして何より、顔が原型を留めないほど腫れ上がり、鼻からはだらだらと血が流れている。


「み、こと、様……に、げ……」


「うるせぇ、クソあま


 それでも尚、みことに逃げろと訴えかけようとした瑠璃の鳩尾みぞおちに、男鬼の鋭い蹴りが入った。すると、瑠璃の口からくぐもった呻き声が漏れたかと思えば、胃の内容物を吐き出した。


「おいおい、きったねぇなぁ……」


「瑠璃ちゃんに、それ以上手を出すな!」


 瑠璃のこめかみに銃口を押し当てている男鬼が嫌悪に表情を歪めるのも意に介さず、みことは接近していく。

 しかし、不意に後ろから腕を掴まれ、たたらを踏む。


「ゆきくん!?」


 信じられないことに、みことの行動を阻んだのは、味方であるはずの幸斗だった。

 幸斗は苦い表情を浮かべているものの、無情にも首を左右に振った。


「……みこと、これ以上近づいてはいけません。それでは、あちらの思う壺です」


「でも! それじゃあ、瑠璃ちゃんが!」


「彼女は、みことの護衛です。奴らをみことに近づけさせないために、何があっても足止め役を続けたはずです。……ここで、みことが向こうの手に落ちては、瑠璃さんの努力が無駄になります」


「そうだけど……!」


「みことを安全な場所に避難させたら、俺がいくらでも奴らに報復を受けさせますから。だから、ここは堪えてください」


 幸斗の言い分は正しい。

 みことはここで瑠璃を見殺しにしてでも、自分の身を守るべきだ。父の言う通り、今すぐ鬼頭本家の屋敷に避難し、助けを求めるべきだ。


 だって、みことはたった一人の桃娘なのだから。みことにとって大切な人たちを悲しませないためにも、そうするのが一番だから。


 そう頭では理解しているのに、心はいつまで経っても納得してくれない。


「おいおい……お前、人質の役にも立たねぇのかよ。これだから、まずはよぉ!」


 瑠璃の髪を掴んでいた男が、さらにぐいっと引っ張る。強制的に顔をあおのかされた瑠璃の口からは、苦悶の声が零れ落ちてきた。


 その姿を目の当たりにした途端、瑠璃が冬城の屋敷の土間で土下座をして、どうかここに置いてくれと頼み込む姿が、瞼の裏に蘇ってきた。


 ――お願いします。嫁ぎ先を追い出され、実家にも戻れないんです。雑用係でも何でもやりますから、ここに置いてください。


 あの時の瑠璃は、今、目の前で広がっている光景ほどひどくはなかったものの、それでも心身ともにぼろぼろだった。ここ以外に行く当てがないのだと、ここで保護しなければ、どこかで野垂れ死にしてしまうのではないかと思うほど、切羽詰まっていたのだ。


 子を生した女鬼は、よくやったと大切にされる。子を生せなかった女鬼は、出来損ないだと蔑まれる。


 瑠璃は一度懐妊したものの、死産だった。しかも、その時の出産が原因で、子を望めない身体になってしまったのだ。

 だから、嫁ぎ先からも実家からも、見放された。


 そんな瑠璃が、どうして冬城家を頼ったのか、詳しいことは知らない。

 でも、できる限り鬼と関わりたくなかったからなのではないかと、みことは密かに思っていた。


 当時の光景を思い出した直後、脳裏に次々と過去の記憶が掠めていった。


 見知らぬ男鬼に誘拐されそうになったこと。娘を取り戻すため、腹部に深い傷を負いつつも大立ち回りをした結果、動かなくなった父。


 みことが必死の思いで鬼頭本家に連絡を入れ、父は一命を取り留めたものの、なかなか目を覚まさず、静かに布団の上で横たわっている姿。


 父が無事回復したことに安堵したのも束の間、みことは唯一の親と引き離されて暮らすことになった。

 そして、これから一緒に暮らすことになった男の子は、「親と一緒に殺されればよかったのに」と陰で言われていた。


 ああ。そういえば、いつだっただろう。確か、みことも誰かに似たようなことを言われた気がする。


 ――どうせ死ぬなら、何人か鬼の子を産んでから死ねばよかったのによぉ。


 ああ、そうだ。母の通夜と葬式に出席した時だ。そして、みことではなく、母が言われたのだ。


 幼いみことは、何故黒い服を着た鬼やその関係者たちが大勢集まっているのか分からず、ただただ恐ろしかったことを覚えている。その時に、誰かがそんなことを言い出したのだ。

 いや、あるいは父方の祖父母が父に再婚の話を持ちかけてきた時だっただろうか。


 どちらも、物心がつくかつかないかの頃の記憶だから、はっきりとは思い出せない。


(……どうして?)


 だが、疑問の声だけは今でも胸の奥にこびりついている。


 どうして――みことも、みことが大切に想う者も、理不尽に踏み躙られるのだろう。

 何か、そんなに悪いことをしただろうか。


 何故、子供を産めなかった女鬼は、価値がないと言わんばかりの仕打ちを受けなければならないのだろう。


 希少価値が高い存在だと、身柄が狙われるのは仕方がないことなのだろうか。

 娘を守ろうとしたら、刃物で刺されるのは当然のことなのか。

 どうして、運よく生き残ったことを悪く言われなければならないだろう。

 何故、死者を鞭打つ言葉を平然と口にできるのか。


 ――みこと。もし、なにもかもいやになったらね。


 母が亡くなる前にのこしてくれた、幼いみことでも読めるように全てひらがなで書かれた手紙の文章が、突如として脳裏に閃いた。


 ――ぜんぶ、こわしていいよ。


 その言葉が脳裏に浮かび上がった直後、ずっと昔に聞いた母の声が耳元で囁きかけてきた気がした。

 みことの腕を掴む手により一層力が込められたのを皮切りに、幸斗の手を振り解く。


「……ゆきくん、ごめんね。わたし……」


 目を見張る幸斗を一瞥し、ぎこちなく微笑む。


「今、逃げたくない」


 すぐに幸斗から目を逸らし、瑠璃を拘束する男鬼の元へと駆けていく。

 幸斗が、瑠璃が、何か叫んだ気がしたが、どうしてかその内容が脳に浸透してこない。


 頭の奥で何かが弾けた感覚に襲われたかと思えば、全身に張り巡らされた神経が研ぎ澄まされていき、血液が勢いよく循環していく。


 ――今ならば、何でもできる気がする。


 みことが全能感に支配される中、男鬼も瑠璃も何故か表情を凍りつかせた。


 そんな二人に構わず、みことは走り出した勢いを殺さぬまま、銃口の向きに気をつけつつも、男鬼が手に持っている黒光りする拳銃を叩き落した流れで、その鼻面に膝を叩き込む。その直後、ぽきりと木の枝が折れるような音と、くぐもった悲鳴が聞こえてきた。


 しかし、今はそんなものはどうでもいい。

 衝動のままに男鬼の髪を鷲掴みにし、無理矢理目線を合わせると、心の底からの怒号が口から飛び出してきた。


「――誰の女に手ぇ出してんだ!」


 先刻膝を叩き込んだ拍子に、やはり鼻の骨が折れてしまったみたいだ。男鬼の鼻は曲がり、穴から血がだらだらと垂れ流されていく。


 恐怖に目を見開いた男鬼の髪から手を放し、今度は先程まで拳銃を持っていた手首の骨をへし折った。それから、容赦なく男鬼を蹴り飛ばし、瑠璃から引き剥がす。


 目を白黒させている瑠璃に微笑みかけると、その痩躯そうくを抱き上げ、幸斗の元へと駆け戻っていく。


「ゆきくん、瑠璃ちゃんのことをお願い」


 何が起きているのか、幸斗も状況を理解できていないらしい。珍しく呆気に取られ、みことに言われるがまま、瑠璃の身柄を預かってくれた。

 幸斗の腕の中に納まった瑠璃に一つ頷き、くるりと身体の向きを変える。


 元より、ここでみことを捕まえる気だったのか、空き地には乗り捨てられた車が何台もあり、鬼柳一族と思しき鬼たちもそれなりに数を揃えている。その上、凶器を手に持つ鬼も数名いる。

 でも、そんなものが何になるというのか。


「ねぇ……瑠璃ちゃんを人質に取ってまで、わたしのことを捕まえようとしたんだよね?」


 一歩、また一歩と男鬼たちに自ら近づいていく。


 どうして、先刻までこんな男鬼相手に逃げ回っていたのだろう。先程までの自分たちの行動が、今では不思議で仕方がない。

 もう一度、にいっと唇が笑みの形に歪む。


「いいよ……捕まえられるものなら、捕まえてみせてよ」


 そうしたら――一人残らず、叩き潰してやる。

 そう心の中で呟くと、男鬼たち目掛けて走り出した。

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