第10話 凶弾

 みことがバッグの中からスマートフォンを取り出し、画面を確認すると、父の名前が表示されていた。

 一体何の用かと思いつつも液晶画面をタップし、すぐさま耳に当てる。


「はい、もしもし」


『みことか? 今、どこだ』


 スマートフォンを通して聞こえてきた父の声は、どこか切羽詰まっているように感じられた。


「どこって……昨日、ゆきくんとデートに行くって言ったでしょ。ほら、昔お父さんに連れてってもらったところ。今、ゆきくんのお父さんとお母さんのお墓参りを済ませて、そこに向かってる途中だよ」


『なら、今すぐ引き返してこい! そんで、とりあえず英泉とこ行け!』


「……お父さん?」


 何やら緊急事態が発生しているみたいだ。

 ちらりと隣を一瞥してから、無断で幸斗のスマートフォンを操作し、今まで流れていた曲を止める。それから、父との通話を幸斗にも聞こえるように、スピーカーに切り替えた。


「分かった。お父さんの言う通り、これからゆきくんに英泉おじ様たちのお屋敷に行くようにお願いする。だから、どうしてわたしたちが今すぐ英泉おじ様のところに避難しなきゃいけなくなったのか、状況を説明して」


 また幸斗を見遣れば、無言で頷いてくれた。そして、まっすぐ進む予定だった車を急遽車線変更し、左折する。


『鬼柳の馬鹿どもが動き出した』


 その一言で、即座に大体の事情を察することができた。


「……わたしとゆきくんの結婚に納得してない鬼が、わたしのことを攫おうって?」


『その可能性大だ』


 父の返答に、思わず舌打ちを零す。

 鬼柳本家の若き当主であり、幸斗の異父兄でもある暁斗との婚姻を鬼柳一族に望まれていたことは、知っていた。


 しかし、刀眞の娘に婚約者を宛がうつもりはないという強固な意志に加え、幸斗たちの親世代に結婚に纏わる事件が尾を引いていたため、あまり強く出られなかったのだろう。結局、みことの結婚相手として積極的に自分を売り込もうとする男鬼は、今日に至るまでほとんど現れなかった。


「でも、あきくんはわたしたちの結婚の保証人になってくれたくらいなんだから、本人は納得済みでしょ。今さら、何なの?」


『別の鬼が相手なら、向こうも諦めたんだろうけど、ゆきに渡すくらいなら、最後の悪あがきをしてやろうっていう腹積もりなんだろ』


「桃娘と結婚した鬼には、箔がつくからね。ゆきくんの立場が変わるかもしれないことを恐れてるのか、あきくんの立場を盤石のものにしたいのか……でも、どっちにせよ今さらだよ」


「……ふざけやがって」


 地を這うようなドスの利いた低い声が、耳朶を打つ。

 弾かれたように隣へと振り向くと、車の運転を続ける幸斗が前方を睨み据えていた。ハンドルを握る手には、先程までとは比較にならないほど、ぐっと力が込められている。


『いいか、とにかく今は英泉のとこに駆け込むことだけ考えろ。鬼頭の当主に匿ってもらえりゃ、あとはどうとでもなる』


「分かった」


『お前らを守るために、鬼頭の鬼どももそっちに向かわせてる。俺も、すぐにそっちに行くから、それまで持ちこたえろ』


「うん、お父さんたちも気をつけて」


 みことがそう声をかけたのを最後に、通話が切れた。

 先刻までの和やかな雰囲気はすっかり霧散し、痛いほどに沈黙が張り詰めている。


 さっとバックミラーに視線を走らせてみたものの、今のところ異常は見受けられない。

 でも、幸斗がアクセルを強く踏み込み、車がさらにスピードを上げていくと、自然と胸騒ぎを覚える。


 再度、バックミラーに目を向ける。すると、先程まではバックミラーに映っていなかったはずの、異様なほどのスピードでこちらへと迫ってくる車が数台見えた。


 今は、平日の午前中だ。交通量がそれほど多くないからよかったものの、目障りな車があったら無理矢理にでも追い越し、必要とあれば追突事故くらい起こしていたのではないかと思うほど、みことたちが乗る車を追いかけてきた車の運転は乱暴だ。


「……みこと、あの馬鹿どもを振り切ります。だから、舌を噛まないように口を閉じててください」


 そう静かに告げるや否や、幸斗は一際強くアクセルを踏み込んだ。

 運転免許証を取得していないみことはもちろんのこと、幸斗もカーチェイスなんて経験したことがないはずだ。


 そのはずなのに、幸斗は明らかに法定速度を上回ったスピードを出しているにも関わらず、車体をどこにもぶつけることなく、器用に次々と車を追い越していく。


 時折、クラクションを鳴らされたものの、さらに後方で悲鳴のごとく響き渡るブレーキ音やクラクション、衝突したと思しき音に比べれば、可愛いものだ。


(人間に迷惑をかけるのはご法度だって、鬼なら誰だって知ってるでしょうが……!)


 鬼という生き物は、昔から血の気が多い。だから、鬼とは無関係の人間に危害を加えた場合、厳罰に処されるという掟がある。場合によっては、拷問を受けることだってある。

 そんなリスクを冒してでも、桃娘であるみことの身柄が欲しいのか。


(確かに、桃娘は唯一無二の存在だけど……)


 いつの時代も、桃娘はたった一人しか存在しない上、たった一人の男鬼だけを愛し抜き、その命を散らせていく。


 過去、桃娘の量産を試みたこともあったが、ことごとく失敗に終わった。

 ならばと、桃娘に複数の男鬼を宛がえば、鬼の子を産み落とすことなく、次代の桃娘だけを産み、速やかに衰弱死していったという。


 そういった希少価値や、自分は選ばれた存在であるという優越感を男鬼に与えるため、桃娘との婚姻は栄誉なことだという風潮が鬼社会にはある。


(だからって……わたしは、戦利品なんかじゃない)


 ぐっと奥歯を噛み締めた途端、突如として背筋を悪寒が撫で上げていき、全身の肌が粟立った。


「ゆきくん、伏せて!」


 考えるよりも先に言葉が口から飛び出し、右腕で思い切り幸斗の背を押し倒した。また、みこと自身の頭も低く伏せる。


 その直後、運転席側と助手席側の窓ガラスが割れる甲高い音が耳をつんざいた。それから、ガラスの破片が背に当たる感触がした。


 どこからともなく、悲鳴じみたクラクションやブレーキ音が鳴り響く。いや、実際に誰かが悲鳴を上げたのかもしれない。


 幸斗の背中を押さえつけていた手を素早く離したものの、態勢を整える間もなく、勢いよく車が何かに激突した。だが、その衝撃でエアバッグが展開されたおかげで、怪我をしなくて済んだ。


(兄さまの車がエアバッグ搭載のもので、助かった……)


 あとは、単純に運が良かったに違いない。

 エアバッグに押しつけていた頭を離して隣を確認すれば、運転席のエアバッグも無事機能したみたいだ。幸斗が呻き声を上げつつも、上体を起こし、衣服に張り付いていたガラス片を払い落としていく。


「ゆきくん、大丈夫!?」


「ええ。幸い、俺は怪我一つしてません。みことは?」


「わたしも、平気だよ」


 ガラスが割れて破片が飛び散ったのに、二人とも外傷を負わなかったのは、本当に奇跡だ。

 みことの無事を確かめるなり、幸斗は装着していたシートベルトを素早く外した。


「すみません。さっき手元が狂ったせいで、思いっきりガードレールに突っ込んでしまいました。他の車を巻き込まなかったのが、不幸中の幸いですが……この車は使い物になりません。すぐに降りましょう」


「ご、ごめんね。背中を押し倒したりして……」


「謝ることはありません。みことがすぐに動いてくれなければ、俺の頭には今頃穴が開いてたでしょうから」


「え」


 幸斗に釣られて視線を動かすと、運転席側と助手席側の窓ガラスには丸い穴が開き、そこを中心にひび割れていた。


「……あいつら、まさか街中で発砲したの?」


 鬼の一族はどこの家も皆、日本刀といった古くからある業物の他に、銃火器などの最新兵器もいくつか所持している。

 しかし、大体が先祖代々受け継いできたものであり、家で管理しているだけの代物が多い。


 仕事道具として使うことは特例として認められているが、こんな使い方は本来、鬼社会の掟に反する。


(お父さんが、馬鹿どもって言ってたのは、こういうことか……)


 もう一度舌打ちをしながら、みこともシートベルトを外す。


「運転席側のドアは変形して開かないので、申し訳ありませんが、みことの方から俺も出ます」


「うん」


 急いでドアを開け、荷物は置き去りにして、二人して車外へと転がり出る。すると、こちらへと迫りくる車が何台も視界に飛び込んできた。


「……みこと、失礼します」


「え」


 みことが返事をしないうちに、唐突に幸斗に身体を抱え上げられた。

 そして、しっかりと横抱きにされたと思ったのも束の間、幸斗は何の躊躇いもなく、ガードレールの向こう側へと飛び越えたのだ。


「え、え、ええええええええええええええええ!?」


 ――ガードレールの向こう側には、何もなかった。


 いや、何もないという表現は正しくない。でも、そこは芝生に覆われているとはいえ、陸橋りっきょうの斜面が広がっているだけだ。


 背後から怒号が聞こえてきたが、正直みことはそれどころではない。幸斗の首にきつくしがみつくのに、精一杯だ。


 みことを抱えたまま斜面を滑り降りていくと、幸斗は無事下の道路に着地した。ちょうど通りがかった車にクラクションを鳴らされてしまったが、こちらは一応命がかかっているのだ。

 幸斗はタイミングを見計らって車道を横切り、再びガードレールを軽々と飛び越えていく。


「ゆ、ゆきくん。わたし、自分で走れるから、そろそろ下ろして」


 歩道を駆け抜けていく間もみことを放そうとしない幸斗の肩を叩けば、一瞬心配そうな眼差しを向けられたものの、ようやく下ろしてくれた。

 両足が地面に着くや否や、幸斗と並走する。


「ここから、鬼頭のお屋敷を目指せばいいんだよね」


「ええ。車を使えなくなったのは痛手ですが……かといって、タクシーを拾って一般人を巻き込むわけにはいきませんから」


 確かに、みことたちを追走している鬼柳の鬼にまともな判断力が残されているとは、欠片も思えない。

 先程、車道で迷わず狙撃してきたのだ。タクシーなんかに乗ったら、最悪運転手の命まで狙われかねない。


 そんなことを考えていた直後、再度あの全身の産毛が逆立つような悪寒に襲われた。それから、本能に突き動かれるがまま、幸斗に覆いかぶさるように突き飛ばす。


 二人がもつれ合うようにして歩道に倒れ込む寸前、乾いた音が空気を引き裂いていった。そして、みことが幸斗を押し倒すのと同時に、すぐ傍のコンクリートに弾丸が当たった。


 射角から考えるに、あのまま走っていたら、幸斗の頭が撃ち抜かれていただろう。そう考えると、ぞっと寒気がした。

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