第8話 親不孝者


 ――その後、英泉の鶴の一声で寿司までご馳走してもらい、夕食を済ませてから帰宅した。

 明日は雛祭りでちらし寿司を食べるのだから、今日生寿司にしなくてもいいのではないかという声も上がったのだが、英泉曰く「めでたいことがあった時は寿司」だそうだ。


(本家のお雛様、可愛かったな……)


 鬼頭本家では英泉、恭矢と二世代に渡って男鬼が一人しか産まれなかったため、待望の女鬼である結珠が誕生した際、古い雛人形や雛壇は処分し、新しく購入したのだ。


 その時、香夜の意向により、出したりしまったりするのが楽である上、汚れにくいからという理由で、ガラスケースに入った、ころんとした丸いフォルムの小さくて可愛らしい雛人形が、本家の居間に飾られていたのだ。


(うちのお雛様、七段飾りだから、飾るのも片付けるのも手間がかかるんだよね……)


 みことの祖母の代に買ったらしい雛壇は場所を取るし、雛人形の小道具が非常に細かいため、飾るだけでも一苦労なのだ。そして、明日――雛祭り当日に、琴子や瑠璃と一緒に片付けなければならないのかと思うと、気が滅入る。


(小さい頃は楽しかったし、琴子さんは今でも楽しそうだけど……)


 十八歳となった今、もう雛祭りではしゃぐ歳ではない。


 溜息を吐きつつもドライヤーのスイッチを切り、ヘアコームとヘアブラシで乾いた髪を整え、脱衣所兼洗面所から出る。


 そこで、母の仏壇に結婚の報告をまだしていなかったことを思い出し、一旦自室に戻ってカナリーイエローのパジャマの上にベビーピンクのパーカーを羽織り、急ぎ足で母屋へと向かう。

 仏壇の部屋の襖をそっと開けると、そこには先客がいた。襖の隙間から、線香の匂いが漂ってくる。


「――ひかり、あの小さかったみことが結婚することになったぞ」


 亡き妻に語りかける父の声はあまりにも柔らかく、優しい響きを帯びていた。

 みことと同じく、風呂上がりなのだろう。黒いスウェットを着た父は、日本酒が注がれたガラス製の御猪口おちょこを片手に、仏壇に飾られている写真を眺めていたかと思えば、唐突にこちらへと振り返った。


「おう、みこと。ひかりに線香をあげにきたのか?」


「うん。でも、お父さんがお線香あげたばっかりみたいだから、手だけ合わせるよ」


 父が仏壇の前から退くと、今度はみことが座布団の上に腰を下ろし、手を合わせる。


「お母さん、わたし、もうすぐ結婚するよ。まだ式の日取りとか決まってないし、これから忙しくなるのは確実だけど……わたし今、幸せだよ」


 父に倣い、仏壇に飾られている母の遺影に向かって、ぽつり、ぽつりと語りかける。

 遺影に写っている母は、みことと瓜二つの顔をしている。もし、母の濡れ羽色の髪がさざ波を描いていなければ、この写真に写っている人物をみことだと間違えられても、仕方がないと思う。


(あと、お母さんの方がわたしよりおっとりした雰囲気だな……)


 娘の贔屓目ひいきめも多分にあるに違いないが、みことの母は本当に可愛らしい女性だ。


 そこで、母の遺影の傍に、父が持っていた御猪口とお揃いの色違いのものが置かれていたことに、ふと気づく。薄紅色の桜が描かれている御猪口にも、日本酒が注がれている。


 ゆっくりと腰を上げて後ろを振り返れば、どっかりと胡坐あぐらをかき、灰色のヒヨドリが描かれている御猪口に口をつけている父と目が合った。


「お父さん、わたしが誕生日にあげた御猪口、使ってくれてるんだ」


 父は昔から日本酒が好きだから、今年の誕生日にプレゼントしたのだ。

 ただ、みことが一目で気に入ったデザインの御猪口は、バラ売りではなく二つセットのものしかなかったため、セットで購入したのだが、父は片方を仏壇に飾ったのだ。


「おうよ。これ、ありがとうな」


「どういたしまして。お母さんもお酒、好きだったの?」


 父の隣に座り直しながら問うと、苦い笑みを零された。


「ひかり、酒が飲める頃には、妊娠してることが分かってたからな。その後も、授乳だなんだで、結局酒を飲んだことは一回もねぇよ」


「そう……だったんだ」


 ちょうど、みことが乳離れした頃から母は体調を崩しがちになったらしいから、結局飲酒する機会は訪れなかったのだろう。

 もし、母がもう少し長生きしてくれれば、父と一緒に日本酒を嗜むこともあったのだろうか。


「でもひかりの奴、みことと同じで子供舌だったからなぁ。酒飲めるようになったところで、好きにはならなかったかもな」


「そっかぁ……」


 抱えた膝の上に顎を乗せ、しばしぼんやりと母の遺影を眺める。


 母の遺影の他にも、仏壇には写真立てが置かれている。そちらには、両親と赤ん坊だった頃のみことの三人が写っている、家族写真だ。


 おそらく、みことが一歳半の時期の写真に違いない。生後半年とは到底思えないほど、みことの身体は大きくなっているし、表情も豊かだ。


 満開の桜の下で皆、幸せそうに笑っている。この半年後には母が静かに息を引き取るなど、誰も想像していなかったのだろう。


「――お父さん」


 父に視線を戻して名を呼ぶと、灰色の眼差しがこちらへと向けられた。


「……昼間、言ったよね。いつかわたしとゆきくんの間に子供が産まれて、わたしたちにもしものことがあった時には、きょう兄さまと香夜ちゃんに子供のことをお願いしたって」


「ああ、言ったな」


「二人にお願いしてあるけど……図々しいって自分でも分かってるけど、それでもわたしはお父さんにもわたしたちの子を見守って欲しいです」


 膝を抱えるのをやめ、父に向かって正座する。それから、静かに息を吐き出すのと同時に、畳に両手をついて頭を下げる。


「桃娘は、最長で五十年しか生きられない。もし、わたしが五十歳まで生きられたとしても……お父さんはその時七十四、五だから……あと十年くらいは生きると思う」


 長生きする傾向にある鬼の性質や現代の平均寿命を考えれば、みことは十中八九父よりも先にこの世を去ることになるに違いない。そして、幸斗もきっと父を置いて逝く。


「だから、お父さん……その時は、どうかお願いします」


 父は、妻にも娘にも先立たれるのかと思うと、胸が苦しくなる。

 頭を下げたままぎゅっと目を瞑った直後、そっと大きなぬくもりがみことの後頭部に触れてきた。


「心配すんな。俺は、身体の頑丈さだけが取り柄だからな。なんなら、曾孫ひまごの顔まで見てやるよ」


 父の言葉に、思わず息を呑む。

 確かに、みことが子を産む年齢次第では、父は曾孫と顔を合わせることができるのかもしれない。


「だから、自分がいなくなった後の心配をする必要はねぇが……それでも、なるべく長く生きろよ」


 父の武骨ぶこつで大きな手のひらが、みことの頭をゆっくりと撫でていく。


「うん……健康には気をつける」


「俺も、健康には気をつけねぇとな。まあ、俺ろくに風邪も引いたことねぇから、多分大丈夫だと思うけどな」


「……お父さん」


「ん?」


「親不孝者で……ごめんね」


 泣きたくなかったのに、目尻から涙が溢れ出していく。顔を伏せたまま父へと這い寄り、その膝に縋りつく。

 父の前で涙を見せるなんて、いつぶりだろう。少なくとも、中学生になってからはなかったと思う。


「……みことはほんっとうに、泣き虫だなぁ」


 そう言いつつも、父はみことの頭を撫で続けてくれる。確かに年を取っているはずなのに、父の手は昔とそう変わらない気がした。


「もう……こんな、風には……泣かない、もの。こんな……泣き方、するの、は、今日で、終わりに……する、から」


 途切れ途切れに言葉を紡いだら、父に髪をくしゃくしゃに搔き乱されてしまった。


「いい、いい。泣きたい時は、好きなだけ泣け。まあ、ゆきの奴がみことを泣かせた時は、あいつのこと半殺しにするけどよ」


「それ……絶対に、やめてよね」


 父ならばやりかねないから、念のため釘を刺しておく。


「……お父さん」


「どうした」


「一回しか言わないから、よく聞いてね」


 父の膝に突っ伏していた顔を上げ、右手で乱暴に涙を拭う。それから、無理矢理にでもにっと笑ってみせた。


「――お父さんは、世界で一番強くて優しくて格好いい、自慢のお父さんだよ」


 幼い頃、みことは父によく謝られた。

 料理に失敗したとか些細なことから、一緒に住めなくなったことまで、父は本当に申し訳なさそうにしていた。


 今にして思えば、母が衰弱してからは、妻の介護と娘の育児、それから家事を父が一手に引き受けることになり、ひどく苦労したと思う。その間、仕事は休んでいたみたいだが、それでも一人で全部引き受けるには無理があったはずなのに、父はやってのけてみせたのだ。


 母が亡くなり、親一人、子一人の生活が始まってからは仕事にも復帰したため、妻を亡くした傷を癒す暇もなかったのではないか。


 しかも、親と子、互いの失敗を許し合いながら生活していたというのに、とんだ横槍を入れられ、一緒に暮らせなくなってしまったのだから、父の人生は災難続きだ。


 それでも、父は時間を見つけては、みことに会いにきてくれたのだ。みことと幸斗、二人の学校行事には参加してくれたし、長期休暇中には遊びにも連れていってくれた。


 そんな父を、世界で一番強くて優しくて格好いい自慢の父親だと、幼い頃のみことは心の底から思った。


 だから、父が謝罪することなんて何一つないのだと主張したかった幼いみことが、何度も口にしてきた言葉を、今この場で改めて声に出して伝える。

 すると、父は嬉しそうにくしゃりと相好を崩した。


「なんだよ、みこと。そういうことは、ゆきに言ってやれよ」


「大丈夫だよ。ゆきくんは世界で一番強くて優しくて格好いい、自慢の旦那様だから。わたしの中では、二人がツートップなの」


「旦那って、まだ婚姻届は受理されてねぇだろ」


「お父さん、悪足掻きはもうやめなよ。往生際が悪いよ」


「うるせぇ。みことこそ、また苗字変わるんだから、間違えねぇように気をつけろよ」


「もう。そのくらい、言われなくても気をつけるよ」


 みことは冬城家の屋敷に預けられるまでは、父方の姓である鬼頭を名乗っていた。それ以降は、「鬼頭のものでも鬼柳のものでもない」ことの証明のため、結婚前の桃娘が代々使ってきた冬城の姓を名乗ることになった。


 だが、幼い頃のみことは、なかなか新しい苗字に馴染めなかったのだ。そもそも、どうして苗字を変えなければならないのかも、理解できなかったし納得もできなかった。だから、わざと鬼頭の姓を名乗っては、琴子たちから度々注意を受けた。


 むっと頬を膨らませると、父は盛大な溜息を零した。


「あーあ……こーんなに小さかったみことが、結婚かぁ……」


 まだ言うのかと思うのと同時に、父が右手の人差し指と親指で示した大きさについ眉間に皺を寄せる。


「お父さん。わたしがそのサイズの時は、まだお母さんのお腹にいた頃だよ」


「そうかぁ? みこと、ちっちゃいイメージしかねぇからな」


「……お父さんからすれば、大抵の人が小柄に見えるでしょ」


 一応、みことは日本人女性の平均身長よりも少しだけ高い。だから、父が言うほど小柄ではないはずだ。


「それに、お父さんもゆきくんも、鬼頭のみんなも背が高い人ばっかりだから、わたしが小さく見えるだけだよ」


「鬼は基本、大柄な奴が多いからなぁ。まあ、そう拗ねるな、拗ねるな」


 一度引っ込められていた父の手が再度伸びてきて、みことの頭をくしゃくしゃと掻き回す。


「もう、お父さん! 髪の毛ぐしゃぐしゃになっちゃったから、もうやめて」


 父の手を払い落とし、勢いよく立ち上がる。そして、襖に手をかけたところで、ぼそりと言葉を零す。


「……お父さん、ありがとうね。おやすみなさい」


「おう、おやすみ」


 一度だけちらりと後ろを振り返れば、父はもう一度仏壇の前に陣取り、酒瓶から御猪口へと日本酒を注いでいた。

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