第3話 最愛
朝食の後片付けを手伝い、歯を磨き直し、離れの掃除機かけを済ませれば、幸斗が来るまでにやるべきことがなくなってしまった。
だから、そわそわと落ち着かない気持ちを持て余したまま、スマートフォンで動物の可愛らしい動画を視聴しながら居間で待機していたら、不意にインターホンが鳴る音が耳に届く。
スマートフォンを片手にぱたぱたと玄関の上り口に駆けつけると、引き戸の
「どうぞー」
上がり口で膝をつきながらそう声をかけた直後、軽やかな音を立てて引き戸が開かれた。そして、幸斗の姿を目の当たりにした途端、ぽかんと口を開けてしまった。
――今日の幸斗は、黒いスーツをきっちりと着こなしていたのだ。しかも、その手が持っているのは赤い薔薇の花束だ。
(あ、あれ……? わたし、昨日ゆきくんにプロポーズされなかったっけ……?)
何故、今日またプロポーズでもするのかと言わんばかりの出で立ちなのか。
呆気に取られるみことを余所に、幸斗は平然とした面持ちで敷居を跨ぐと、すぐ目の前までやって来た。それから、みことに十一本の赤い薔薇で構成されている花束をそっと差し出す。
「おはようございます、みこと。プロポーズはサプライズにしたかったので、あからさまな花束は用意しなかったんです。だから今日、改めてプレゼントさせてください」
流れるような動作で差し出されたため、まごつきつつもみことが花束を受け取れば、幸斗はふわりと微笑んだ。
その微笑みを目にした直後、みことの顔からすっと表情が抜け落ちていった。そして、慎重に薔薇の花束を上がり口に置くや否や、勢いよく立ち上がって幸斗に飛びついた。
「……ゆきくん、最っ高! ありがとう、本当にありがとう!」
まだ大学生である幸斗の、滅多にお目にかかれないスーツ姿。「最愛」という意味を持つ本数の赤い薔薇の花束。あまり感情を表に出さない幸斗の、柔らかい微笑み。
朝からみことの心にこんなにも感動を炸裂させるなんて、一体どうしようというのか。
その上、いきなり抱きついたにも関わらず、幸斗は難なくみことの抱擁を受け止めてくれた。幸斗は着痩せして見えるが、意外と鍛えているから、実は結構逞しいのだ。
本当に、みことの婚約者となったばかりの青年は最高だ。
幸斗の肩に顔を突っ伏したい衝動に駆られたものの、そんなことをしたらせっかくのスーツに化粧がついてしまいそうだ。そうしたら、必然的にみことの化粧も崩れてしまう。
そんなことを悶々と考え込んでいたら、みことを抱き上げていた幸斗がゆるりと頬擦りしてきた。ちらりと横目に見遣れば、幸斗は幸福そうに表情を緩め、目を閉じていた。
普段ならば、喜んで受け入れるところだが、今日は化粧を施しているから、崩れてしまわないかという不安の方が勝る。
「あ、あのね、ゆきくん」
「はい?」
「今日はね、わたし、ちょっとだけだけど、お化粧頑張ったんだ」
そう告げれば、幸斗はぱちっと目を開き、みことの顔を覗き込んできた。
「……ああ、確かに目の周りがキラキラしてますし、唇もいつもよりぷるぷるしてますね」
至近距離に迫る幸斗に向かって、ぎこちなく頷く。
「うん。だからね、その、あんまりすりすりされると、お化粧がよれちゃいそうで心配だから、やめて欲しいなあって……」
「なるほど。みことが嫌なら、やめておきます」
素直に納得してくれた幸斗にほっと安堵の吐息を漏らすと、上がり口のところにゆっくりと下ろしてくれた。それから、幸斗も黒い革靴を脱いで上がり口に上がる。
「そういえば、みこと。珍しく寝不足ですか?」
「な、なんで分かったの?」
目薬と化粧で誤魔化したはずなのにと内心慌てていると、靴をきっちりと揃えた幸斗が姿勢を正しながらこちらへと振り返った。
「目が充血気味でしたので」
時間の経過と共に目薬の効果が切れていたのかと気を落としつつも、下手に誤魔化しても仕方がないからと、正直に首を縦に振る。
「うん……昨夜、ちょっとおかしなテンションになっちゃって、なかなか寝付けなかったの……」
「もしかして、俺のプロポーズのせいですか」
「そうなる、かな……」
もごもごとそう答えれば、突然幸斗がみことの左手を掬い上げた。みことの左手の薬指には、掃除を終えた後に嵌めたアメジストの指輪が綺麗に輝いている。
「みことって、自分からは遠慮なく好き好き攻撃してくるのに、いざ俺が攻めると途端に慌てふためく癖、まだ直ってないんですね」
「うっ……」
幸斗は口数が少ないのに、いざ口を開くとなると、かなりストレートな言葉を選ぶ。しかも、こちらの痛いところを的確に突いてくるから、性質が悪い。
二の句を継げずに黙り込むみことを見下ろしながら、幸斗は薄く形の良い唇を意地の悪い笑みの形に歪めた。
「それなら、みことが少しでも早く慣れるように、俺も頑張りますね」
「うう……今日のゆきくん、朝からぐいぐい攻めてくる……」
幸斗の宣戦布告にたじろいでいたら、ひどく楽しそうな紫の眼差しが、不意にみことから逸れた。
何事かと思いつつも幸斗の視線を辿っていけば、廊下の角から顔を覗かせている琴子と瑠璃の姿があった。琴子は好奇心に目をきらきらと輝かせ、瑠璃は丁寧にアイロンをかけたハンカチをそっと目元に押し当てている。
「ふ、二人とも、いつからそこに……」
一体どこから見られていたのかと青ざめるみことを意に介さず、琴子が機敏な動きでこちらへと駆け寄ってきた。本当に、その歳でどうしてそんなにも動けるのか。
「ゆきくん、お久しぶりねぇ」
「お久しぶりです、琴子さん」
みこととは対照的に、一切動じた様子のない幸斗は折り目正しく頭を下げた。
「あらぁ、ゆきくん。すっかり立派になっちゃって……背が高くてスタイルの良いイケメンさんは、何を着ても似合うわねぇ」
「もったいないお言葉です。ですが、もしそうだとしたら、たくさんお世話になった琴子さんのおかげですよ」
謙遜してみせながらも、決して卑下も否定もしない。それでいて、嫌味なく相手の手柄にしてみせた幸斗に、内心舌を巻く。
「ゆきくんったら、お上手ねぇ」
琴子に至っては、謙遜も卑下も否定もしない。照れたようにはにかみ、スタイルに恵まれた長身の美形相手にすっかり舞い上がってしまっている。
(琴子さん、ゆきくんはイケメンじゃなくて、美形だよ)
美人と可愛いが似て非なるものであるように、イケメンと美形も違う。
そう思いつつも大人しく口を噤んでいたら、ふと琴子がみことの左手に目を留めた。そして、流れるように玄関の上り口に置きっぱなしになっていた薔薇の花束へと視線を移す。
こちらに視線を戻した琴子は、みことと幸斗の顔を見比べた後、真剣な面持ちで口を開いた。
「……ゆきくん。今日お赤飯炊いたんだけど、タッパーに詰めて帰りに持っていく?」
「はい。一人暮らしなので、いただけると助かります」
「そう、そうよねぇ。一人暮らしだと、何かと大変でしょ。おかずも一緒に詰めておきましょうか?」
「それじゃあ、お願いします」
幸斗は手先が器用だからなのか、料理上手だ。だから、食事面でそれほど苦労していないどころか、余程課題や実習、それからバイトで忙しい時でもなければ、自炊して凝ったおしゃれな料理を普段から食べていることを、幸斗が借りているアパートの一室に何度か遊びにいったことがあるみことは知っている。
だが、それでも先刻同様、沈黙を貫いていると、ハンカチを握りしめた瑠璃がようやくこちらに走り寄ってきた。いつもならば涼しげな目元が、今は涙でマスカラが滲んでしまっている。
「みこと様……っ! 瑠璃は、瑠璃は……お祝いの言葉をお伝えしたいのに、感極まってこの場に相応しい言葉が出てきません……!」
「る、瑠璃ちゃん、落ち着いて。おめでとうって言ってくれれば、わたしはそれで充分嬉しいよ」
「そうよぉ、瑠璃ちゃん。こういう時は妙に飾った言葉よりも、真心が感じられる素朴な言葉が喜ばれるものなのよ。それにしても、今日お赤飯炊いておいて、よかったわぁ。こういうの、虫の知らせっていうのかしら」
みことを援護するように助言しながら、琴子は風のごとく台所へと走っていった。相変わらず、年齢を感じさせない動きだ。
些細な弾みで転んで怪我しないかと琴子の後ろ姿を目で追っていたら、急に瑠璃に強い力で手を握り締められた。
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