第2話 籠の鳥

 ――初めて鬼柳幸斗と顔を合わせた時、みことよりも年上で王子様みたいな見た目なのに、迷子みたいな目をした男の子だと思った。


 年上とはいえ、みことと幸斗は二つしか歳が違わない。でも、幼い頃の二歳差は大きい。


 それでも、父親を追い縋って雪の中、外に出たみことの迎えにきてくれた幸斗の宝石みたいな双眸は、不安そうに揺れていた。


 だから、みことは幸斗をぎゅっと抱きしめながら、心に誓ったのだ。

 義務でも何でもなく、みこと自身の意志でこの男の子の家族になろう、と。



 ***



 ――耳元で、スマートフォンに設定しておいたアラーム音がけたたましく鳴っている。


 今の今まで意識が眠りの底に沈んでいたみことは、呻きつつも薄目を開け、スマートフォンの液晶画面に指先を勢いよく叩きつける。


 すると、先程まで脳を揺さぶるかのように鳴り響いていたアラーム音がぴたりと止まり、みことの私室が静寂に包まれる。


 しばらく掛け布団を頭からかぶり、また寝ようとしたのだが、一度呼び覚まされた意識は次第に覚醒していくばかりだ。

 再度呻き声を上げ、のろのろと上体を起こす。


 寝ぼけ眼でぐっと伸びをした直後、枕元に置いておいたスマートフォンが通知音を告げた。

 誰からだろうと思いつつもスマートフォンを手に取って画面を確認すると、幸斗の名前が視界に入ってきた。


 幸斗はみことに早寝早起きの習慣があることをよく知っているから、朝早い時間帯にも関わらず、連絡を寄越したに違いない。


 何だろうと思いながら通知をタップすれば、ラインの画面にすぐに移り、『今日の午前中に、そちらにお伺いしてもよろしいでしょうか』というひどく几帳面な文面が液晶画面に浮かび上がった。


 別に、今日は何の予定も入っていない日だから、特に深く考えずに『いいよ! ゆきくんが来るの、楽しみに待ってます!』と返す。それから、暖かなベッドから意志の力で抜け出し、畳の上をぺたぺたと歩く。


 ベッドの脇に今日着る服は昨夜のうちに出しておいたのだが、出かける予定がなかったから、部屋着だ。


 だから、改めて着るものを選び直そうと、室内灯を点けてから洋服箪笥とクローゼットへと向かおうとしたところで、光るものが視界の隅に映る。


 そちらへと目を向ければ、机の上にちょこんと置かれているアメジストのプラチナリングが、室内灯の光を受けて淡く煌めいていた。


「……やっぱり、夢じゃなかったんだ」


 幸斗からプロポーズを受けた後、しばらくは感動の余韻に浸り、喜びを噛みしめていた。


 どうせ結婚しなければならないのなら、互いに愛し合える相手がいい。互いに幸せにしたいと想い合える相手がいい。


 ずっとそう願ってきたが、必ずしも叶うとは限らないから、本当に幸斗からのプロポーズが嬉しかったのだ。


 だからこそ、自宅のアパートに帰っていく幸斗の背を見送り、屋敷の中に入り、就寝する支度を整え、いざ寝ようと目を閉じたところで、徐々にあれはみことにとって都合の良い幻想だったのではないかと思えてきたのだ。


 そして、不安に駆られては指輪の存在を確認し、ベッドに戻っては興奮で目が冴え、そうこうしているとまた不安に襲われという、情緒不安定なサイクルに陥ってしまったのだ。

 おかげで、多少は眠れたとはいえ、健康優良児であるみことにあるまじき寝不足の状態だ。


 指輪を小さな箱の中に戻してから、今度こそ今日の服装選びを始める。

 幸斗は、自分の好きな格好をするのが一番だというが、みことが清楚で上品な服を身に纏っている姿を好んでいることくらい、長年の付き合いで知っている。


 だから、アイボリーのリブタートルネックのニットとボルドーのハイウエストのロングスカート、それから黒いタイツの組み合わせに決めた。あとは、ニットが非常にシンプルなデザインで、胸元が少し寂しい気がするため、十七歳の誕生日プレゼントにと幸斗から贈られた、ピンクゴールドのハートのネックレスを合わせる。


 自室を出てすぐのところにある洗面所に入り、歯を磨いてから顔を洗い、フェイスタオルで拭きつつ、洗面台の鏡に映る自分の姿を確認する。


 亡き母と瓜二つの、美人というよりは人形のように愛らしいと評されることが多い顔は、寝不足のせいか普段に比べて血色が良くない気がする。そして何より、白目の部分が充血しているのがいただけない。


 化粧水で肌に潤いを与えてから、目薬をさす。それから、洗面所を引き上げて自室へと戻ると、母の形見であるドレッサーの前に腰を下ろす。ドレッサーの上に必要な化粧品を並べたら、軽く化粧を施していく。


 上瞼にブラウン系のアイシャドウを、頬に桜色のチークを、唇にローズピンクのグロスを乗せていけば、顔全体が明るい印象になっていき、上手く顔色を誤魔化せているように見えた。


 ドレッサーの上に広げていた化粧品を片付けると、今度は髪をヘアコームで梳き、ヘアブラシをかけていく。


 髪が長いからか、それとも父の髪質を受け継いだからか、みことの髪は滅多に寝癖がつかない。おかげで、朝の髪の手入れが随分と楽だ。


 髪を丁寧に梳かし終えたら、ヘアゴムで手早くハーフアップにし、結び目にパールのシンプルなヘアカフを差し込む。


 顔全体に薄く塗った下地クリームの塗り残しはないか、アイライナーで引いた線が曲がっていないか、最後の確認をしていると、自然と黄金色の双眸が鏡越しにこちらをじっと見つめ返してきた。


 父や幸斗には綺麗な色だと昔から褒められるが、もしみことが軽い垂れ目でなければ、黒髪も相まって獣めいた印象になっていただろう。


(よし、こんなものかな)


 一つ頷き、ヘアコームやヘアブラシも片付け、自室を後にする。


 みことの私室があるのは、冬城の屋敷の離れだ。浴室や洗面所、それからトイレなどもあるから、食事さえ運んでもらえれば、離れから出なくても生活を送る上で困らない。


(本当に、鳥籠みたい)


 実際、歴代の桃娘の中には男鬼の元へと嫁ぐまで、軟禁状態で育てられた者もいるのだという。万が一にも、結婚するまで清い身を保つため、自分の役目を投げ出したりしないための、予防措置だったそうだ。


「……気持ち悪い」


 過去の桃娘に想いを馳せていたら、自然とそう呟いていた。


 頭を振って気分を入れ替え、離れと母屋もやを繋ぐ渡り廊下を進んでいく。窓ガラスとミルキーホワイトのレースのカーテン越しに射し込む朝日が、寝不足の目には眩しく感じられる。


 昔は、この渡り廊下は風が吹きさらしの状態だったらしいが、時代が進んでいくと共に、屋敷を改築していく際に、しっかりと壁と窓を作って雨風から防いでくれる造りにしたのだ。


 とはいえ、廊下というものは煙突と同じような役割を果たすため、風通しが良くてこの時期はまだまだ寒い。

 かといって、夏は夏で暑いのだから、廊下というものは憎たらしい存在だ。


(昔は、夏は涼しかったみたいだけど)


 近年の夏の暑さには、多少風通しが良いところで、太刀打ちできないみたいだ。


 そんなことを考えながら、母屋の台所へと向かうと、木蓮が描かれた千草色の着物を上品に着こなし、ロマンスグレーの髪をまとめた老婦人が、既に朝食を作っていた。


「おはようございます、琴子ことこさん。朝ごはん、わたしが作ったのに」


「あら、おはようございます。みことさん。年寄りは朝が早いから、このくらい気にしなくていいのよぅ。むしろ、こうやってお料理してた方が頭にも身体にも良いのよ」


 朗らかに微笑みつつも朝食を作る手は一切止まらないこの老婦人は、冬城琴子という名で、鬼と共に桃娘を創り上げた医者の末裔だ。そして、代々産まれてくる桃娘を引き取り、鬼の花嫁として相応しい娘へと育て上げるのが、今の冬城一族の使命なのだ。


 そのため、みことも母であるひかりも、この女性に育てられた。


「じゃあ、今日はお言葉に甘えて。ありがとうございます、琴子さん。今、作ってるのはお味噌汁?」


「今朝は、けんちん汁にしたのよ。ちょうど今、出来上がったところ。たらの西京漬けもさっき焼けたところだし、お赤飯も炊けたから、みことさんは何もしなくて大丈夫よ」


 ちらりと作業台を見遣れば、小鉢に盛り付けられた酢の物も用意されていた。本当に、みことが手を出す余地はないらしい。


 それにしても、琴子は今年で八十五歳になるというのに、手際よく台所を動き回るその姿には感動してしまう。


「それじゃあ、わたしはお赤飯をよそっちゃうね。今朝は、わたしと琴子さんと……お父さんはまだ寝てるかなぁ」


 昨日は、みことが通っていた学校の卒業式だったため、式に参加した後、そのまま父はこの屋敷の客間に泊まったのだ。


 泊まったとはいえ、みことの実父である鬼頭刀眞きとうとうまは一年の半分くらいはこの屋敷に入り浸っているため、その客間は父の私室同然だ。


「刀眞さん、朝に弱いものねぇ。起きてきてから、よそいましょうか。そうそう、瑠璃るりちゃんはお庭の掃除が終わったら上がってくるって言ってたから、そろそろ来ると思うわよ」


「なら、三人分よそっておくね」


 既に出ていた茶碗に、これまた炊き上がってからもうほぐされていた赤飯を見栄えよく盛り付けていく。


「それにしても、昨日は私の卒業式だったから、お赤飯炊いたのも分かるけど、まさか今日もお赤飯炊いてくれたとは思わなかったよ」


小豆あずきが微妙に余っちゃってねぇ。残り物を処分しちゃいたかったのよ。もうちょっと小豆が残ってたら、ぜんざいかお汁粉しるこを作ってもよかったんだけど……」


「琴子さんが作るぜんざいもお汁粉も、おいしいよねぇ……」


「あらあら、それじゃあ今度、どっちか作りましょうか」


「お願いします!」


 二人で喋っているうちに、みことは赤飯を、琴子はけんちん汁をよそい終えた。琴子がそのままたらを皿に盛り付け始めたから、みことが食卓に箸を並べ、茶碗と汁椀、それから小鉢を運んでいたら、廊下から足音が近づいてきた。


 そして、ダイニング兼リビングに黒いパンツスーツ姿の女性が顔を出した。


「琴子さん、お庭の掃き掃除、終わりました。――あら、みこと様。おはようございます。早かったですね」


「おはよう、瑠璃ちゃん。今までだってわたし、休みの日でも早起きだったでしょ」


 鬼頭瑠璃は、みことの世話係兼護衛を務める女鬼だ。だから、みことにとっては姉のようであり、母のようでもある存在だ。

 ちなみに、刀眞と同じ苗字だが、父曰く親戚ではないのだという。


「それもそうでしたね。朝ごはんの支度は、もう終わったのですか?」


「うん。あとは、琴子さんが焼いてくれたお魚を持ってきたら、食べるだけだよ」


 ちょうどそう言ったところで、琴子が三人分の焼き魚を運んできてくれた。

 それぞれの席に最後の一品を並べ終えると、三人揃って手を合わせてから食事を始めた。


「みことさん。おしゃれしてるけど、今日はどこかお出かけするの?」


 みことは普段、外出しない日は部屋着でくつろいでいるから、どこかに出かけるのではないかと思われたのは自然なことなのかもしれない。

 けんちん汁を一口飲んでから、首を横に振る。


「もしかしたら、出かけるかもしれないけど……その、今日はゆきくんがうちに遊びにくるから」


 だから部屋着ではないのだと言外に告げれば、二人に温かい目を向けられてしまった。


「あらあら、まあまあ」


「みこと様、お化粧もばっちり決まってますよ。どこからどう見ても、お可愛らしいです」


 みことと幸斗が付き合っていることは、周知の事実だ。だからこその反応だ。

 だが、こうして冷やかされると、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。


 その上、瑠璃が自信満々に親指をぐっと立ててきたものだから、その後は気恥ずかしさから黙々と食べることに没頭した。

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