【第1部完結】桃娘と愛を乞う鬼

小鈴莉子

第1部 鬼と桃娘の求婚

第1話 愛を、乞う

 ――三月に入ったとはいえ、夜になれば、まだまだ肌寒い。

 だが、多幸感で気持ちが浮足立っていたし、胸の片隅にほんの少しだけ緊張感が居座っているからか、寒さなどほとんど気にならない。


「あー、おいしかった! ゆきくん、今日はご馳走してくれて、ありがとう」


冬城とうじょう」という表札が出ている屋敷の前で立ち止まり、くるりと振り返る。すると、ハーフアップにしていた長い濡れ羽色の髪と、濃紺のレースに縁取られたワインレッドのワンピースの裾がふわりと揺れた。


 振り返った先では、恋人である鬼柳幸斗きりゅうゆきとが切れ長の紫の瞳を細め、淡く微笑んでいた。一目で異国の血が流れていると分かる、エキゾチックな雰囲気を漂わせる綺麗な顔が柔らかい表情を浮かべると、自然と鼓動が跳ね上がってしまう。


 しかも、別に示し合わせたわけでもないのに、幸斗が着ているタートルネックのニットもワインレッドだから、ペアルックになってしまって何だか照れ臭い。


「どういたしまして。みことに喜んでもらえたなら、よかった」


「そりゃあ、喜ぶよ! ゆきくんと一緒なら、大体何でもおいしく食べられるけど、今日入ったイタリアンのお店、本当においしかったもの。それに、お店の雰囲気もすっごくよかったし……」


 だからこそ、料理の値段もそれなりに高かった。その上、自分の分は自分で払おうと考えていたら、みことの心の中を読み取ったかのようなタイミングで、今夜の食事代は自分が持つと、幸斗に先手を打たれてしまったのだ。


 メニュー表を眺めながらどうしたものかと迷っていたのだが、今日はみことが無事高校を卒業した日なのだから、幸斗の厚意に甘えさせてもらおうと、結局メインディッシュやサイドメニューの他にデザートまで堪能してしまった。


「今日は、特別な日ですから。こういう日くらい、少しくらい彼氏としての甲斐性をアピールさせてください」


「なら、今度はわたしが彼女としての甲斐性を見せなきゃね」


 何をすれば、恋人としての甲斐性を証明できるのか、ちっとも思いつかなかったものの、相手に甘えてばかりは性に合わない。とりあえず、次回のデートの時まで考えておくとしよう。


「楽しみにしておきます」


「うん、期待して待ってて。……あのね、ゆきくん」


「はい」


「ここまで送ってくれて、ありがとう。それでね……もう少しだけ、付き合ってくれる? 一緒に庭の方まで来て欲しいの」


「ええ、いいですよ」


 幸斗はやや怪訝そうな眼差しを向けてきたものの、みことの誘いに応じてくれた。


 屋敷の敷地に足を踏み入れ、みことが先導して目的地へと歩いていく。


 冬城家の庭では今、雪割草や福寿草、スノードロップなどが控えめながらも美しく咲き誇っている。もう少ししたら、チューリップも開花するだろう。


 一旦立ち止まると、スノードロップの花を一輪摘み、茎の部分に付着していた土を軽く払ってから、歩みを再開する。


 みことが向かった先には、半月に近づきつつある月の光を浴びている、桃の木がある。


 桃の花は、三月の下旬頃に咲き始めるのだが、今年は暖かいからか、平年よりも早く蕾が膨らみ、ぽつぽつと開花してきている。


 桃の木の下で足を止めると、もう一度後ろを振り返った。それから、再び紫眼を捉える。


「ゆきくん、わたしは桃娘だから……高校を卒業した以上、男鬼と結婚しなきゃいけない」


 ――桃娘とうじょう

 奴隷や精霊としての逸話を残すが、鬼社会においては、より濃い鬼の子孫を残すために人工的に生み出された、黄金の瞳を持つ娘をそう呼ぶ。そして、次代の桃娘を産むことも使命だ。


 現代社会において、鬼だの桃娘だの、伝説上の生き物としか認識されていない。


 しかし、確かに存在するのだ。

 現に、みことは桃娘であり、目の前にいる青年は鬼だ。


「でも、わたしは子供を産んだら……次の桃娘を産んだら、そう遠くないうちに死ぬ」


 それもまた、桃娘に課せられた宿命だ。

 みことの母も、次代の桃娘をこの世に産み落とした二年後に、衰弱した果てに息を引き取った。


「だから、できれば結婚相手には選びたくない相手だろうけど……わたしは、結婚しなきゃいけないなら、その相手はゆきくんが良い。……ゆきくんじゃなきゃ、やだ」


 我ながら、随分と重たい告白だと思う。

 でも桃娘にとって、結婚相手の選定はそれだけ重要なのだ。


 鬼の血を絶やさぬよう、桃娘はただでさえ子を産むための道具として扱われやすい。だから、桃娘は目の前にいる相手が、自分のことを意思ある存在として認めてくれているかどうか、常に見極め見定めなければならない。


 その点、鬼柳幸斗という青年は信頼できる男鬼だ。


 十二年以上、この屋敷で一緒に暮らしてきた。幸斗が大学進学を機に屋敷を出てからの二年間は、恋人として付き合ってきた。

 その上で、みことは幸斗を自身の伴侶にと望んだ。


「だから、ゆきくん。――どうか、わたしをゆきくんのお嫁さんにしてください」


 そう求めつつ、幸斗に向かってスノードロップの花を差し出す。その美しい紫の双眸を見据えたまま、どうかこの花を受け取って欲しいと切に願う。


 ――わたし、大きくなったら、ゆきくんのお嫁さんになるね。だから、それまで待っててね。


 幼い頃、幸斗に自らの手で摘んできたスノードロップの花を差し出しながら、プロポーズをした。子供じみた真似かもしれないが、幸斗にプロポーズをするのならば、可能な限り、あの時と同じ状況を再現したかったのだ。


 その時、ふと風が吹きつけてきて、みことの腰まで届く長い髪がふわりと舞い上がった。桃の木の枝もしなり、その名の通り淡い桃色の花びらが視界の端にちらちらと映る。幸斗のプラチナブロンドの前髪も、さらりと流れる。


 紫の瞳が僅かに伏せられたかと思えば、みことの手に納まっていた一輪の花をそっと抜き取った。それから、黒いジャケットの胸ポケットにスノードロップの花を入れると、何故か幸斗が苦笑いを浮かべた。


「……また、みことに先を越されてしまいましたね」


 その言葉の意味が理解できなくて首を傾げたら、黒いスラックスが汚れるのも厭わず、幸斗が何の前触れもなく地に片膝をついた。いつもみことが見上げる側だから、幸斗に見上げられている状況にひどく違和感を覚える。


「……ゆきくん?」


 唐突な行動についていけないみことに構わず、幸斗はジャケットの内側に片手を突っ込み、小さくて真っ白な箱を取り出した。

 その様をぼんやりと眺めていたら、幸斗は箱から光るものを抜き取った。


「本当は、俺の方から申し出るつもりだったのですが――こちらこそ、お願いします。俺と……結婚してください」


 幸斗が小さな箱から取り出したのは、流麗なラインを描くプラチナリングだった。爪の部分には、幸斗の瞳の色合いとそっくりのアメジストが留められている。


(え……わたし、ゆきくんからプロポーズ受けて、る?)


 ――幸斗を己の伴侶にと望んだその日から、高校を卒業した日に絶対に自分からプロポーズをしようと心に決めていた。どんな結果になろうとも構わないと、覚悟も決めていた。


 だが、幸斗からプロポーズを受けるかもしれないという可能性は、どうしてか頭から抜け落ちていたのだ。


 だから、すぐには反応できなかった。ただ、呆然と美しく輝く婚約指輪と幸斗を交互に見比べるばかりだった。


 しかし、紫水晶の双眸と指輪を眺めているうちに、幸斗に求められているのだという実感がゆっくりと湧き上がってきた。そうしたら、胸が歓喜に震えるのと同時に、目頭と喉の奥が自然と熱くなっていく。


「――はい」


 咄嗟に出てきた言葉は、それだけだった。しかも、唇から零れ落ちた声は分かりやすく震えてしまった。


 せめて笑顔だけでも作ろうと、きゅっと口角を持ち上げる。そして、幸斗に向かって今度は何も持っていない左手を差し出す。

 すると、幸斗は恭しくみことの手を取り、左手の薬指に美しい婚約指輪を嵌めてくれた。


「みこと」


 低く穏やかな声に名を呼ばれたのとほぼ同時に、みことの左手に落とされていた、幸斗の視線が持ち上がる。眩しそうに目を細め、みことに柔らかく微笑みかけてくれる幸斗の顔だけが視界に映る。


「俺を選んでくれて……ありがとう」


 ――春の初めの夜、冬城みことと鬼柳幸斗は、咲き初めの桃の木の下でこれからの人生を共に歩むという誓いを交わした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る