エピソード4 傘
若かった頃の出来事。
仕事からの帰り道、急に雨が降ってきた。
持ち歩いていた傘をパッとさし、急いで家路に向かう。
駅から徒歩15分、決して近くはない家まで急ぎ足で歩く。
人通りのあまりない裏通りを歩いていると、同じ方向に歩いている人がいた。
その人は傘もなく、半ば濡れる事を諦めているかのように歩いていた。
通り過ぎようかと思ったが、なんだか自分だけ傘を差している事に少し申し訳なさを感じてしまった。
「あの、良かったら。」
私は相手の顔を見る事もなく、真っすぐ前を向きながら傘の中にその人を入れた。勿論嫌がられるかもしれないが、その時は何も考えてはいなかった。
「あ、」
少しだけ驚いた様子で、
「有難うございます。」
と返事が返ってきた。
それからの時間は、無言でお互いに知らない人と同じ傘の下で前だけ向いて歩いていた。何とも言えない不思議な時間が二人を包んでいた。
お互いに何も語る事なく、ただただ歩き続けた。
ただ聞こえるのは、足元と傘に叩きつける雨音と、ぬかるんだ地面を靴が踏みつける音だけだった。
そして、自分の家が近付いた時、私は思わず傘から手を離し相手に渡していた。
「あの、私の家はすぐそこなので使って下さい。」
それだけ言うと、走って家まで向かった。
背後からは、
「あ、有難うございます。」
という言葉が微かに聞こえてきた。
結局ずぶ濡れになったが、その数分間の素性も知らない相手との一つの傘の想い出は、何故か時が経っても忘れないままだ。
人との出会いって、言葉が何もない中でもあるんだと思った日だった。
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