第29話 遠い春の日の出来事

 話しかけることもないまま一年が過ぎ、三学期が終ろうとしていたある日のこと。

 彼女の平穏を乱す出来事が起こった。

 その日、授業が午前中で終わって、僕が図書館に向かうと、いつもは静かな自習席が騒がしいのに気が付いた。中間試験や期末試験が近づくと混みあう図書館だが、学年末試験が終わって返却期間の今は、普段以上に空いているはずなのだ。それなのに、自習席の隅の方の一ヵ所に生徒が固まっているのが見えた。それはいつも彼女が使ういわば「特等席」の場所だった。

「おい、見せたっていいだろ」

「……嫌です。やめてくださいっ!」

「ノリ悪いなあ。そんなんだとモテねーぞ。ただでさえお前デブでブスなのに」

 男子生徒の大きな声の後に続いて数人の笑い声が起きる。続いて、誰か泣いているのか、ズズズッと鼻をすする音が聞こえた。

 その瞬間、僕は確信した。これはいじめの現場だと。いじめられているのは、あの子だ。

 僕は生徒が集まっている場所に駆け寄ると、こう叫んだ。

「やめろ‼」

 大声を出し慣れていないので声が震えた。けれども、連中の動きを一瞬止めさせるだけの効果はあったらしい。連中に席を取り囲まれる形で、あの子が震えている。なにかを必死で守るかのように机に伏せていた。彼女が守っているのはおそらく、彼女自身が描いた絵だ。連中は絵を取り上げようとしていたらしい。

 いじめっ子は男子生徒が三人。学ランの襟に「Ⅱ」の学年章が付いている辺り、中二か高二か。多分中二だと思う。けれどもそんなことはこの際どうでもよかった。三人とも僕よりはるかに大きくて、大人に見えた。けれども、男子三人で寄ってたかって一人の女子をいじめてる時点で、中身はガキだ。

「おい、なんだよ。お前、文句でもあんのか?」

 いじめっ子のうちの一人、ゴリラみたいな男が睨みつけてきた。

「君、中一でしょ。こっちは先輩なんだから、敬語使うべきじゃん。立場わかってる?」

 その隣の髪の毛を真ん中分けした男がニヤニヤしながら続ける。

「子供が口を挟むなよ。ケガをしたくないなら、さっさと帰るんだな」

 もう一人、ニキビ面の男は、手で「しっしっ」と追い払うような真似をした。

「先輩だろうが、か、関係ない。嫌がってるだろ!」

「んっだと、ゴルァ‼」

 僕が言い返すとゴリラが顔を真っ赤にしてキレた。今にも殴りかかろうとするのを、真ん中分けが「まあまあ」と抑える。

「君ねえ、俺らはそいつと同じクラスなの。それで、そいつが全然教室に来ないから、なんとかしてくれって担任に頼まれて来たわけさ。別にいじめをしているわけじゃないんだよ。僕、わかる?」

 真ん中分けはニヤニヤとした表情のまま、小さい子供にでも言い聞かせるかのように、僕に言い訳を聞かせてきた。

「こっちが中一だからってバカにしないでもらえますか? さすがにいじめかそうじゃないかの違いくらい、中一どころか、小学生にだってわかりますよ。その人、嫌がってるじゃないですか!」

「屁理屈こねんじゃねえぞ、クソガキ! 俺らは、そこのブスが授業サボって図書館でお絵描きしてたから、マトモな道に戻れるようにしてやってるだけなんだよ!」

 ニキビが唾を飛ばしながら大声で反論してきた。

「屁理屈はどっちなんですか。単に好きなことができている人のことが妬ましくて攻撃したいだけですよね。そもそも、その人が教室にいたくないのって、あなたたちみたいな人がいるからなんじゃないですか?」

 すかさず言ってやると、真ん中分けに宥められて大人しくしていたゴリラがまたキレた。

「黙って聞いてれば好き勝手言いやがってよお! おい、ツカ! マジでこのガキしばいていいか?」

「後で面倒になるといけないから、ここで手を出すのはやめておこう。チクられるとだるいし」

「いいか、クソガキ。もしそこのブスが俺らと一緒の教室にいたくないとしても、それで授業をサボってたら、勉強にも付いていけなくなって、社会からドロップアウトしちゃうわけ。それに、社会に出たらもっと理不尽なことだってたくさんあるんだから、これくらい乗り越えれなきゃ生きていけないよ(笑)」

「正論っぽく語ってるけど、普通に詭弁ですよね、それ。もしその人がドロップアウトしそうだから、教室に戻す必要があるとしても、お前らになんの権利があって絵を取り上げようとするんだ?」

 いつの間にか敬語が抜けてしまっているがまあいい。それにしても、この3つの生命体と不毛な言い争いをするのにもいい加減疲れてきた。かと言って、暴力を行使されると絶対勝ち目はないわけなんだが。僕はスマホを取り出すと、友人の石部航基にメッセージを送った。いじめを手っ取り早く終わらせるために上位存在を召喚しよう。

「おい、てめえ、なにスマホ見てんだよ。俺らのことは無視かよ」

「舐め腐りやがって」

「ちょっと業務連絡がありましたんで」

「君ねえ、いくらなんでも失礼じゃない?」

「人をいじめる方がよっぽど失礼だと思いますよ」

「それで、なにを業務連絡したんだい?」

「友人に、生活指導の先生を図書館に連れてきてもらうよう頼みました」

「チクりやがって!」

「んなっ、卑怯だろお前!」

「反撃してこない相手をいじめる方がよっぽど卑怯だと思いますよ?」

「お前、マジで覚えてろよ」

「お礼参りに来るつもりなら、こっちは警察と弁護士用意して待ってますから。前科付けたくないですよね、セ・ン・パ・イ?」

「チクショウ! 次会ったらマジでぶっ殺す!」

 いじめっ子たちは捨て台詞を残すと尻尾を巻いて逃げていった。

「もう大丈夫だよ」

 震えていた少女に優しく声をかける。彼女が顔を上げると泣きはらした目が眼鏡越しに見えた。目尻のほくろに気が付く。

 彼女の顔を近くで見るのも直接会話をするのもその時が初めてだった。

「あ、あの、ありがとうございます! 私なんかのためにここまで戦ってもらって」

「いいんだよ、僕が見てられなくてやっただけだから」

 感謝の気持ちを真っすぐ伝えられる、それもあまり親しくない女子から、ということで、僕はちょっと照れ臭かった。

「事情も知らない僕なんかが、軽々しく言えることじゃないと思うけどさ、あんなやつらの言うこと気にするなよ」

「でも、私って根暗だし、デブだしブスだから」

 ずっと心ない言葉をぶつけられてきたのだろう、彼女は自己肯定感が低いようだった。

 そんな彼女を勇気づけるために僕は思っていることをそのまま伝える。

「そんなことはない、僕は君をかわいいと思うよ。それにそれだけの絵を描けるなんて天才だ。あんなやつらにバカにされたからと言って、描くのを諦めないでほしいんだ」

 僕がそう言うと、彼女は涙をポロポロとこぼしながら微笑んだ。自分の「好き」に向き合えている人間の、とてもきれいな顔だった。その顔を見て、僕は惚れたんだと思う。

 気恥ずかしくなって、名前も聞かずに別れた。

 翌日、先生に呼び出されて図書館での出来事について軽く事情を聞かれたものの、その件に関してはそれっきりだった。


 名前も聞かずに別れた彼女とは再会することがなかった。

 春休みが終って、二年生に進級した僕が再び図書館に行った時にはもう彼女はいなかったのだ。毎日来ても同じだった。

 ひょっとすると、いじめを苦にして転校してしまったのかもしれない。だとしたら、あまりにもひどいことだ。いなくなるべきは、いじめっ子の方なのに。でも、転校によって彼女がいじめっ子たちから離れられたのなら、それはそれで歓迎すべきことなのかもしれない。

 一番いいのは、クラス替えでいじめっ子と離れた彼女が教室に行けるようになったというパターンだ。それが一番望ましいし、それなら彼女とは校内でまた出会えるかもしれない。名前くらい、聞いとくべきだったかもな。

 だが、結局僕は彼女とは再会しなかった。だから、確証はないけど彼女は転校してしまったのだろう。

 もし、僕が早めに救いの手を差し伸べていたら、転校せずに済んだのかもな。

 中学二年生になった僕は少しそんなことを考えながら図書館に通っていた。

 彼女の居ない図書館は以前よりも色褪せて見えた。

 たとえ言葉を交わすことがなくても、好きなことに熱心に取り組んでいる彼女の姿を毎日見ることで、僕は毎日勇気をもらっていたのかもしれない。


 だが、僕の喪失感はやがて、もう一人の少女との出会いによって癒されることになる。

 もう一人の少女は初恋の人とほとんど入れ違いに現れた。

 ところどころ癖のついたボブカットの彼女とは、本棚の前でよく遭遇した。

 取ろうとした本が偶々同じで手が重なり合うなんてラブコメみたいな出来事はさすがに起こらなかったものの、顔を合わせるたびに彼女は僕に微笑みかけてくる。

 よく会うので顔なじみみたいになったわけだが、それ以上の関係に進展することは残念ながらなかった。

 本当は彼女が手に取ったラノベや小説の話とか色々してみたかったのだが、またしても話しかける勇気を持てなかったのだ。

 その彼女の名前が「笠置つゆり」だと僕が知るのは、出会いから二年も後のことになる。

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