3話
冷房を適度に効かせた車で周辺をドライブしつつ、気が向いたところで降りて散策する。そんなことを繰り返しているだけだったが、二人にとってはとても新鮮で、十分楽しかった。
「誠、何だろうあそこ」
指差すほうに視線を向けると、一面に黄色い何かが広がる場所があった。
「行ってみるか」
左折してしばらく進み近づくにつれて、それが巨大なひまわり畑であることがわかった。
車を止めて出てみる。近くに人の気配は全く無く、立て札なども無い。管理されている場所ではなさそうだった。
「向日葵ってこんな風に咲く花だったんだね」
幸にとって花は、お見舞いに来る人が持ってくるものでしかなかった。それらはいつも花瓶に生けられているため、自らの力で立っている姿を見るのはこれが初めてなのだった。病人に根のある花を渡してはいけないなんて、一体誰が決めたのだろう。病院に根付いてしまうから。早く退院できないから。そんな迷信のために、幸は自力で生きる花を見られなかった。
「もっと近くに行こうか」
「うん」
車に鍵をかけ、ひまわり畑に入る。大きく育った向日葵たちは、幸の身長よりも大きなものまであった。
「ねぇ、かくれんぼしない?」
「かくれんぼ……?」
突然提案された遊びは、とても二十五歳の大人が――ましてや二十八歳の男がするものではなかった。
「私、一度もやったことないの。昔きっちゃんが、とっても楽しい遊びだって言うから院内でやろうとしたのだけど、先生に見つかって怒られちゃって」
普通なら経験できるはずの多くのことを、幸は制限されてきたのだ。
「いいよ、やろう」
そう答えると、幸はとても嬉しそうに微笑んだ。
ざぁぁっという音と共に、黄色い波が誠たちを飲み込む。
「もーいーかい」
どこかで幸の声がした。
「もういいよ」
声を張り上げたのなんて何年ぶりだろう。
偶然見つけたひまわり畑。人っ子一人いない田舎町で、神々しく咲き誇る夏の華。
こんなに綺麗なのに。
こんなに力強く己の存在を主張しているのに。
もしも今日ここに誠たちが来なかったら、その煌めきを誰に認められることもなく、静かに散っていったかもしれない。
風が運ぶ、濃い夏の匂い。
土と向日葵の匂い。
病院の匂い。
「みーつけたっ」
ぽん、と背中を叩かれる。
立ち上がって振り向くと、にこにこと笑う、愛する人の姿があった。
「次は誠が鬼だよ。目瞑って三十数えてね」
頷くと、幸はまた離れていった。
「見ちゃダメだよー」
大きな声でそう言いながら手を振る。誠も手を振り返して、指示通り目を瞑って数え始めた。
「もういいかい」
「もういーよ」
一面の向日葵。揺らめく度に、葉の擦れる音が全方向から響く。己の存在を訴えるように。
ここにいるよ。
生きているよ。
向日葵を掻き分けて進む。進んでも進んでも、同じ景色。
欠けた景色。
大事な人が、いない景色。
「幸、どこだ」
―――返事が、ない。
「幸!」
何度呼んでも、ただ向日葵の葉擦れの音がするだけ。
「返事をしろ。幸!」
嫌な汗が、体中からどっと噴出す。
考えるな、考えるな。そんな事、想像するな。
「幸!」
呼べば答えてくれるはずの声は、まだ聞こえない。
早く。早く見つけないと。
「さち!」
震える声はのどに痞え、向日葵が行く手を阻む。
足を動かす。手を動かす。目を動かす。全ては一人の人を見つけるために。
大嫌いな病院にある売店で働くことになって、最初に来た客が幸だった。大量の菓子を買い込む彼女が重い病を患っているなんて知らなくて。入院している子供たちにお菓子を配る彼女は、それをただの自己満足だといって笑っていた。そんな彼女に惹かれた。病気のことを知っても、同情はしなかった。ただ“自分の生まれた意味”を探す彼女のそばにいたいと思った。
それからずっとそばにいた。
幸は病院から出られないから、デートもしたことがなかったけれど、それでも幸せだった。
ただ幸が隣にいる。それだけで。
「………幸!」
地面に倒れている身体は、胸が微かに上下し、まだ呼吸があることを知らせていた。衝撃を与えないよう注意を払って抱き起こすと、地についていた左半身からぱらぱらと土が落ちた。
「幸、聞こえるか」
呼びかけながら、リュックから小型の酸素ボンベを出して口に当てる。
「幸」
細く開いた瞼。その瞳が誠を捉えた。
「わかるか、幸」
務めて落ち着いた声を出す。幸を不安にさせてはいけない。
「……ま、こと」
「そう、誠だよ」
応答したことに少しほっとし、ケータイを取り出して電話をかけた。
「もしもし、白石誠です。……はい。………倒れました。意識はしっかりしていますが呼吸が荒くて、今酸素を…………はい。………わかりました。お願いします。…………ありがとうございます。……はい。では」
幸が目で窺ってきた。
「院長先生に電話した。近くの病院に連絡入れてくれるそうだ。救急車も来る。大丈夫だから、な」
頭を撫でてやると、小さく笑って頷いた。
ひまわり畑の中に埋もれていては、救急車が来ても見つけてもらえない。誠の二の前だ。
「車まで行こうか。これ、自分で持てるか」
酸素ボンベを渡すと、幸はそれを力の入らない手で何とか支えて口元に当てた。
「偉い偉い」
リュックを背負いなおすと、幸の膝裏に手を入れてそのまま持ち上げた。幸の身体はやっぱり軽かった。
「………こと」
「ん、どうした?」
向日葵の中をお姫様抱っこのまま進む。
「わ、たしね、」
「うん」
「たく、さんのひ、とに、しあわせになって、って、」
―――たくさんの人に幸せになってもらうため
それは、余命宣告を受けた幸が考え続けて出した“生まれてきた意味”の答え。
「もちろん、いまでも、そう………でも、」
呼吸が荒くなっている。
「無理するな。もう喋らなくていいから」
すると幸は首を横に振った。どうしても、伝えたいことがあるらしい。
「うまれた、いみって、そんなにおおきな、こと、じゃなくて、いいのか、も、なって」
ヒューヒューと抜けるような呼吸音。
「わたし、は、」
酸素ボンベが、転がり落ちた。空いた幸の手は、そっと、誠の頬に添えられていた。
「まことに、ね、あう、ために、うまれてきたんだよ」
つぅ、と流れ落ちる雫。
それは幸のものか。誠のものか。
二人とものものか。
「かっこいいこたえじゃ、ないけど」
幸の細い指が、誠の涙を拭う。
「ほんとうのこたえは、きっと」
しゃがみ込んで強く抱きしめると、応えるように幸が誠の頭を撫でた。
「大好きだよ」
「わたしも、だよ」
この温もりを、この愛おしい人を、あと何回抱きしめられるだろう。
あと何回、言葉を交わせるだろう。
「幸の生まれてきた意味が俺と出会うためなら、俺が生まれてきた意味は、幸と出会うため。幸を愛するため」
幸は、真っ直ぐに誠を見つめた。
「わたし、せかいでいちばん、しあわせだよ」
ずっと病院から出られなかったけれど。
ずっと生活を制限されていたけれど。
ずっと病気と闘わなくてはいけなかったけれど。
―――ずっと愛する人がそばにいたから。愛されたから。
「しあわせだよ」
「俺もだよ」
落ちていた酸素ボンベを拾い、幸に持たせる。立ち上がり、再び歩き出す。
幸はもう、何も言わなかった。でも、言わなくても伝わってきた。――幸の想いが。
そして、伝わっているはずだ。――誠の想いが。
向日葵が風に揺らめく。
腕の中から、幸の匂いがする。大好きな匂いがする。
遠くで救急車の音が聞こえてきた。少し歩調を速めて、やっとひまわり畑を抜けると、ちょうど救急車が到着したところだった。
✻ ✻ ✻
夏が終われば、向日葵たちは散るだろう。このひまわり畑も、今日のことが夢であったかのように、消え去ってしまうだろう。
でも。
来年の今頃には、また花開く。彼らの残した種が、新たな命を芽吹く。
幸も、もうすぐその儚い生を終える。誠の心に記憶という種を残して、散ってゆく。
一年では咲かせられないかもしれない。何年もかかるかもしれない。それでも、いつか。
幸のことを笑顔で思い出せる日が、いつかきっと来る。
俺の愛した人は、とても素敵な人だったと、優しい思い出として語れる日が。
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