3話
のどかに幸の話を聞いて以来、誠は幸のお菓子配りに付き合うようになっていた。それは幸の体を心配したわけでもなければ、ましてや幸に同情したからでもなかった。自分の生きている意味探し。こんな難題に真正面から向き合おうとしている幸のそばにいたい。ただそれだけの思いが全て。
――― 本当にそれだけか?
「おいしい。この紅茶、誠がいれたの?」
いつの間にかため口で話すほどになった幸が、目を輝かせながら問う。
「本日の紅茶は、ダージリンでございます」
うやうやしく礼をしてみる。喜んでもらえたなら、休憩の合間に腕を揮ったかいがあるというものだ。
「すごいなぁ。私もこんな風に紅茶がいれられるようになりたい」
「それなら、俺が特訓してやるよ。もし俺と同じくらいおいしいやつがいれられるようになったら、一緒に病院内に店だそう」
するりと口から言葉が滑り落ちた、そんな感覚だった。
幸が目を見開く。誠も、自分が大嫌いであったはずの病院にいつまでも居続けることを選ぼうとしていることに少しだけ驚いた。同時に、幸といるためには病院に居続けなくてはいけないという現実も思い出した。
今、やっと気づいた。本当の自分の気持ち。……でも、それを口にする勇気は無くて。
「店、幸も一緒に働かないか」
もう一度、聞いた。
「うん!よろしくお願いします。……実は私、この病院から出られないの。だからお仕事するなんて諦めかけていて。今まで黙っていて、ごめんなさい」
「謝るのは俺のほうだよ。実は、幸がここから出られないこと、知っていたんだ」
誠は、のどかに聞いたことを話した。
「ありがとう。全部知っているのに、こんな私を誘ってくれて」
二人は、声をあげずに笑った。
それから、幸の特訓が始まったのだ。
* * *
のどかは、数日前から病状が悪化した幸の点滴を換えるため、五〇二号室訪れた。コンコンと軽くノックをするも、返事は無い。
「幸ちゃん、入るわよ」
そっとドアを開くと、窓辺に立ち空を見上げる幸の姿があった。幸はここではない、別の世界のものを見ているかのような、どこか虚ろな目をしている。わすか六メートルほどしか離れていないのに、なぜか幸の周りだけ異空間のように感じた。と、突然幸がドアのほうを振り返った。その顔には満面の笑みが湛えられている。
「どうしたの。そんなに嬉しそうにして」
手早く点滴を取替え、モニターの数値を確認しながら問う。
「やっと、勝てるものが見つかったから」
「勝てるって、誰に」
顔を上げたのどかに、幸は天を指差して答える。
「雲だよ」
「雲にどうやって勝つの」
幸はくすくすと笑い、のどかの質問には答えず、モニターをチェックした。幸は闘病生活が長いため、ある程度の医療知識は備わっている。
「私、だいぶ悪化しているんだね」
のどかは言葉につまり、閉口した。
「いいの。私がまだ生きていること自体、奇跡なのだから」
* * *
幸との紅茶特訓もすっかり日常となった。まだ誠と同等とは決して言えないが、友達に出すくらいなら恥ずかしくない程度まで腕は上がった。今日は久しぶりに、幸の体調が優れないためにしばらく中止にしていたお菓子配りをすることになった。
「大丈夫なのか。今日もまだ顔色が悪いけど」
「平気だよ。みんな私たちが来るのを待っていてくれてるらしいし、心配かけられないよ」
いつも通り病室をまわっていく。今回は久々の訪問とあって、いつも以上に喜ばれた。
「きっちゃん、咳は止まった?」
幸が小学二年生くらいの小柄な男の子の背中をさする。幸のすごいところのひとつは、入院患者ひとりひとりの顔と名前、病気の様子を記憶していることだ。きっちゃんと呼ばれたその子も、幸が自分を覚えていてくれたことに感激しているようだ。
「僕ね、来週退院して良いってね、先生にね、言われたんだよ」
小さい子特有のたどたどしいしゃべり方をするきっちゃん。
「おめでとう。じゃあ、退院祝いに大きいお菓子あげるね」
周りの子供たちから一斉に「いいなぁ」という声が上がる。それに優しく答えながら、幸はお菓子の入った袋をごそごそとあさる。その手が僅かに震えているのが見えた。
「幸・・・・・・?」
心配になった誠が幸の肩をつかもうとした矢先。幸の細い体が前に傾いだ。
「幸!」
「幸ちゃん!」
誠と子供たちが同時に叫ぶ。誠がとっさに伸ばした腕に、想像以上に軽い体が倒れこむ。幸は真っ青な顔で瞳を閉ざしていた。
「きっちゃん、ブザー押してくれ」
誠は空いていたベッドに幸を横たえ、たった一つの指示を出すことしかできなかった。
幸が倒れた。
それはあまりに突然なことだった。すぐに駆けつけた医師の診断により、緊急オペが行われることになった。緊急というくせに医師も看護師も冷静で、まるでずっと前からこうなることがわかっていたかのようだった。・・・いや。こうなることを現実のものとして予想できていなかったのは、誠だけだったのかもしれない。幸の命を今にも奪い去らんとする魔の手に対して、誠のなんと無力なことか。今の誠にできるのは、オペの成功をただただ祈るのみである。〝手術中〟の赤いランプが灯ってから既に五時間以上が経過している。それでもなお、誠は手術室の前から離れようとは思わなかった。時間ばかりがいたずらに過ぎていく。そのとき、音も無く手術室の扉が二つに割れた。中から一人の医師が出てくる。
「幸は、幸はどうなったんですか」
思わず詰め寄るようになってしまう。
「打てる手は全て打ちましたが、きわめて危険な状態です。後は、幸さんの気力次第です。どうか中に入って、呼びかけてあげてください」
誠は返事もせず、足をもつれさせながら中に転がり込んだ。中に入るとすぐに幸の姿が目に入った。逆に言えば、幸以外何も見えていなかった。手術台に乗せられた幸は、たくさんのパイプや酸素マスクなどに囲まれ、やまるで別人のように病人面をしていた。
「おい幸、聞こえてるか」
誠の問いに、もはや答えは返ってこない。そこにあるのは、幸の命をつなぎとめている機械たちの音だけ。
「目覚ませよ。菓子、まだ配り終えてねぇぞ。なぁ、何とか言えよ」
無機質な音が、幸の僅かな鼓動を伝える。まだ生きてる。ここにいる。体はあるんだ。あとは精神を取り返す。こいつはまだ、やってないことがたくさんあるんだ。
「幸、俺と店出すって言ったよな。約束、破るのかよ。まだアップルティーすら飲んだこと無いくせに、紅茶のことわかったつもりになってるんじゃねぇよ」
ピピピ・・・・・・今までより一段高い音が手術室に響く。周りに立っていた医師たちが、動き始めた。こんなに早く、この世とさよならしていいのか。未練はないのかよ。
「俺は幸がいなくなったら、未練だらけだ」
誠のつぶやきは、医師の指示を出す声にかき消された。まだ口にできていない言葉がある。まだ伝えていない想いがある。
幸の小さな手を両手で包み込むようにして握る。届け。
「紅茶のことも、この病院の外の世界も、まだ幸の知らないことが山積みなんだ。ずっとずっと、俺のそばにいろ。幸の知らないこと、教えてやるから。俺、幸が・・・・・・好きだから!」
そのとき、握っていた幸の手がぴくりと動いた。
「幸!」
ゆっくりと幸の目が開いていき、瞳が誠をとらえた。
「……誠」
そばに居た医師が、幸を診る。医療に関する知識の無い誠には、何をしているのかさっぱりわからなかった。ただひとつ誠にも理解できたことは、幸の精神が戻ってきたということだった。幸の手が弱弱しくも、誠の手を握り返した。
「誠。私もだいすき、だよ」
酸素マスクに覆われた口から、幸の声が、想いが、誠に届いた。
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