2話

 今日は仕事の日でもないのに、誠は病院にいた。一昨日、幸にお菓子配りを手伝うようにと頼まれたからだ。最近入院患者が増えたらしく、幸一人の手には負えきれなくなっているということだった。せっかくの休日をよりによって病院なんぞで過ごさなくてはならないことは苦痛であったが、それよりも幸のことを知りたいという気持ちが勝った。そんな訳で、誠は今幸とともに病棟をまわっているのである。既に大部屋五つを訪問したが、どの患者も幸が入ってくるなり破顔した。みんな幸のことを待っていたようであった。病気で苦しみ、不安で一杯であるはずの人々にこんなにも元気を与えることができる。それが、今誠の目の前に立つ小さな少女が持つ特別な力なのだ、と誠は思う。

「失礼します」

 三〇九号室の扉をノックし、中に入る。誠と幸を出迎えたのは、白髪の老婦人だった。ここは今までにまわった部屋とは違い、窓の大きな一人部屋だった。老婦人は読んでいた本から目を離すと、誠たちに椅子を勧めた。

「お久しぶりです、小田さん」

 幸は老婦人の手を握り、瞳を覗き込むようにして話しかけた。

「まあ、幸ちゃんじゃないの。ずいぶんと大きくなって。四年ぶりかしら」

「はい。ずっと小田さんが元気でいてくださればと願っておりました」

「残念ながら、また入院生活だわ。幸ちゃんにこうして会えるのは嬉しいけれど、私もあなたが退院していることを願っていたのよ」

 誠は、老婦人の言葉が理解できなかった。幸が退院することを祈っていた?まるで幸が病人で、入院しているかのような言い方。仮にそうだとして、幸はいつからこの病院にいる?四年前?そんな……。

 困惑している誠をよそに、幸は老婦人と話を弾ませている。全ての音が誠から遠ざかっていくように感じた。頭の中を疑問符が渦巻く。心ここに在らず、だ。そんな状態のまま老婦人に別れを告げ、残りの病室をまわった。

「どうしたんですか。なんだかぼうっとしていますけど」

 別れ際、とうとう幸にそんなことを言われ、誠は慌てて思考を現実に引き戻した。

「少し考え事をしていただけだ。それより、今日は俺を誘ってくれてありがとう」

 誠は自分で自分にびっくりした。『ありがとう』なんて言葉を口にするなんて、いつぶりだろう。

「私のほうこそ、手伝ってくださってありがとうございました。一緒に来てくださって、嬉しかったです」

 幸はぺこりと頭を下げると、誠に背を向けて歩き出した。 そこで誠は気づいてしまったのである。幸が向かっている先にあるのは、エントランスではなく、病室であるということに。小さな背中が曲がり角の影に消えたとき、ちょうど一人の看護師が誠のそばを通りかかった。

「あの、すみません」

 看護師が振り返る。

「幸……恵藤幸さんの事なのですが」

「あなた、白石誠さんね。売店で働いている。幸ちゃんからよく話しに聞いているわ。私は、ずっと幸ちゃんのいる棟を担当している三原のどかよ」

 運よく、幸と深いかかわりのある人と出会えたようだ。

「幸は、ずっとこの病院に入院しているんですか。あんなに元気そうなのに」

 のどかは聡明さのうかがえる顔を一瞬、曇らせた。

「幸ちゃんが病室訪問を誰かに手伝ってもらったのは、白石君が初めてなの。それだけあなたに心を許しているということだと、私は思う。……あなたには、きちんと話しておいたほうが良いのかもしれない」

 真剣な眼差しが誠を突き刺す。その表情が無言のうちに幸について知ることへの覚悟を問うている。無論、誠に迷いは無かった。

「教えてください」

「もちろん、個人情報に関わることだから、病気についての詳しいことは言えないけれど。……彼女は生まれてから一度も、この病院から出たことが無いの」

「・・・・・・一度も?」

 手足が冷たい。ぴりぴりとしびれ、末端の感覚が無くなっていく。それでいて、心臓は大きな音を立てている。

「彼女は生まれながらにして、重い病気を抱えている。彼女が知っている世界は、この病院と窓から見えるミニチュアのような町並みだけ。彼女にとってビルとは、見上げるものでは無くて、見下ろすもの。それでも、彼女は自分の生まれてきた意味を探し続けている」

 のどかに即されるがまま、誠は待合室のソファーに腰掛けようとした。そこで人生で初めて、膝を曲げるという行為の仕方がわからなくなった。結局方法を思い出せぬまま、崩れるようなかたちで、座った。

「幸ちゃんは、とても強い子よ。いつでも挫けたり諦めたりはしない」

 誠の脳裏に、つい先刻までそばに居た、たくさんの患者が求める少女の姿が浮かんだ。

「だからこそ、入院している人たちを元気づけられるんですね」

 のどかは無言でうなずくと、窓にそっと触れた。

「雲」

「え?」

 のどかのつぶやきに、思わず聞き返してしまう。

「幸ちゃんの相談相手……なのかな。時々こうやって窓に手を当てて、雲を眺めているの。彼女が唯一弱音を吐いてもいいと思える相手なのかもしれない」

 よいしょっと、いすから立ち上がったのどかは最後に言った。

「幸ちゃんはあなたや私が思っているほど強くないの。肉体的にも、精神的にも。それだけは、覚えておいて」

 その日病院から見た夕焼けは、いつもより紅いように感じた。

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