:第13話 「夜半:2」

 アランは、ハッ、と息を飲むと、小銃の標尺板のメモリを千メートル、最大距離に合わせて起こし、かまえる。

 ———影が動いたように見えたのは、先にヴァレンティ中尉から射撃目標として指示さえた防風林の辺りだった。

 実際の距離は一千二百メートルあるが、旧小銃の標尺版は一千メートルだから、撃つとしたら勘で合わせるしかない。


 自分は今、緊張状態にある。

 そういう自覚があったために錯覚か勘違いかもしれないと思い、(幻であってくれ)と願いつつじっと照準越しに目を凝らしていたのだが、残念ながらその影には実体があるように思えた。


 人型をしている。

 サイズは、おぼろげに見える防風林と比較すると人間の大きさだ。

 月明かりだけなのでそのシルエットが辛うじて認識でき、歩いて来ている、というのは分かるのだが、敵か味方かは判別がつかなかった。


(変だな……)


 攻撃にしては妙だな、と思ったアランは、銃のかまえを解き、怪訝けげんそうな顔をする。


 あらわれた人影は、どんどん、その数を増やしていた。

 防風林の影からぞろぞろと、まばらに連なってこちらに向かってきている。

 だが、横に広がってはいなかった。

 縦に、道沿いに人並が続いている。


 攻撃のために軍隊が展開しているのだとしたら普通、横に広がって散開し、戦闘隊形を取っているはずだったし、道に沿って進軍してきているのだとしても、あまりにも隊列が乱れすぎている。

 それに、手にはなにも持っていないように思える者が多かった。

 中には小銃らしきものを担いでいたり、手にしていたりする者もいたが、手ぶらで、しかも背中になにも背負っていないような人の方が圧倒的な多数だ。


 歩き方も、なんだかおかしい。

 どこかふらふらとしていて、おぼつかなく、見ているだけで不気味になって来るほどだ。


「あれじゃまるで、幽霊の行進じゃないか……」


 アランは思わずそんなことを呟いていた。

 そう、幽霊。

 亡霊の群れがこちらに向かって来ている。


 そう思わされるような、不気味な光景だった。

 だが、間違いなく実体がある。


 この奇妙な状況で、自分はいったい、どうすればいいのだろうか。

 こういう時、軍隊というのはとにかく、上官の指示を仰ぐものだ。

 そう思い出したアランは隣のタコ壺にいるはずのルッカ伍長へ視線を向けると、そこには大きく身を乗り出した姿があって、こちらの視線に気づくと彼女は唇の上に人差し指を立てて「静かに! 」というジェスチャーを送って来る。


 暗がりの中でなんとなくだがそう見えたので、アランは指示された通り、成り行きを見守ることにした。


「おい、みんな! アレは味方だ、撃ったらいかんぞ」


 ほどなくして、ヴァレンティ中尉からの無線連絡を受けたらしいベイル軍曹がやって来て、そう教えてくれた。


「あの、軍曹! どうして、味方がこっちに向かって来ているんです? 」

「さぁて、な。それは、まだわからん」


 敵が来たわけではないと確定して安心できたものの、不思議でならなかったアランは思い切ってたずねてみたのだが、軍曹にもどういうことなのか分からないらしい。

 ここから西側にいる味方といえば、国境地帯を守っていたはずの部隊だ。

 連邦軍と今、まさに交戦中であるはずなのに、こんな風に、武器も持たずに、疲れ切った足でふらふらと歩いてきているなど。


 ———まるで、敗残兵ではないか。


 そんな言葉がのどまで出かかったが、無理矢理に飲み込んだ。

 あまりにも嫌な想像であったからだ。


 国境地帯を守っていた王立陸軍の三個師団。

 それが敗北し、大勢が死傷して、生き残った者たちが武器も捨てて逃れてきている。


 それは王国の防衛線が崩壊したということとイコールであり、敵が迫りつつあるということの証明でもある。

 そんなことはあってはならない、あって欲しくないと、そう心の底から思いはするものの、目の前にある光景は王立軍が敗北したのだとしか考えられない。


 その印象は、正しかった。

 幽鬼たちの一団が斜面を右から左に横切るように登って来る道に沿って近くまでやってきて、暗い中でもその姿をはっきりと判別できるようになると、事実が歴然となってしまう。


 酷い、そう、酷い有様であった。

 兵士たちはみな王立陸軍の野戦服や制服を身に着けていたが、その衣服は泥と汗にまみれているだけではなく、煤けていたり、焦げていたり、破れていたり。

 負傷しているのか、血が染みた包帯を巻いている者も少なくなかった。


 その表情は一様に暗く、悲痛なものだ。

 疲労の色が濃いというのはもちろん、よほど恐ろしい光景を目の当たりにして来たのか、顔色は青ざめ、どこか生気が失われていると感じられる。


 その光景から、目が離せない。

 つい今朝までは自分たちと同じように顔色もよく、元気だった人々が、こんなにもなってしまう。


 戦闘とは、どれほど恐ろしいものなのか。

 未体験の、そしておそらくはもうすぐ体験せざるを得ない事態を想像してしまう。


「み……、水……! 水を、くれ……! 」


 呆然自失としてふらふらと進んでいく兵士たちの姿を眺めていたアランだったが、唐突に近くで絞り出すような声が聞こえ、ぎょっとして振り返る。

 そこには、片腕を負傷しているのか軍服の上から包帯を巻いた上等兵が、タコ壺の側にうずくまっていた。


「あ、あの! どうぞ、コレを! 」


 慌てて自分の装備を手探りし、水筒を取り出してフタをあけて渡してやると、その兵士は礼を言う余裕もないのかひったくるようにして水筒を奪い取り、喉を鳴らしながら勢いよく水を体の中に流し込んでいく。

 あまりにも慌てたせいで途中で激しく咳き込んでしまったが、軽く背中をさすってやってどうにか収まると、ようやくその兵士はアランのことを認識して「ありがとう……」と感謝の言葉を述べてくれた。


 その様子を目にしていたのだろう。

 気づいたら、周囲には他にもたくさんの兵士が集まって来て、水をくれ、水をくれ、という大合唱が始まってしまった。


「水なら、この斜面を下って行った先に湧水が出ているぞ! 小川だってある! さぁ、みんな、頑張って歩くんだ! たっぷり飲めるぞ! 」


 ベイル軍曹がそう言ってくれなかったら、ゾンビ映画よろしく、アランは無数の兵士たちに群がられてしまっていたことだろう。


 よろめき、半ば転げ落ちるようにしながら水を求めて斜面を下っていく兵士たちの姿を、自分が今どんな感情を抱いているのかさえ判然としないまま見送る。


「あの……、どうしてみなさん、こんな姿で……? 」


 それからアランは、先に自身の水筒の水を与えた負傷兵の方を振り返り、おそるおそるそうたずねてみる。

 喉の渇きが癒えたことと、少ないとは言っても友軍と合流できたことで安心して緊張が抜け、今までの疲労がどっと押し寄せてもう一歩も動けなくなってしまったらしいその兵士は、虚ろな視線のままこちら緩慢な動きで振り向いて微笑んで見せると、言葉少なに教えてくれた。


「簡単なことさ。我々は、負けた。……いや、蹴散らされたのさ」

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