第16話 心に棲む獣
「みんな、船が来たよ」
部屋に響く声に跳ね起きた。
眠ったばかりだというのに、一瞬で目が覚める。本当に船が来たのだ。
「今日は縫製以外は出荷準備だから、工場は休みだよ」
「分かった」
寝ていた皆が起き上がり、服を着替えだす。スカートにブラウスにベスト、作業着と部屋着以外で持っている唯一の外出着だ。
フレアも慌てて服を着替えると、ベッドの下から二着の服を出した。一着は深紅のドレス、もう一着は作ったばかりの外套だ。
それを脇に抱え、宿舎を出る。
船が来た時には、陽が傾く夕刻までにここに帰ればいいことになっている。それまでは自由になれる。
高い壁に囲まれた敷地を出ると港が見下ろせた。
荒波にしぶきを上げて入ってくる船が見える。いたるところが破れた帆が、その海路の荒れ具合を教えていた。
それでも、ここに辿り着いたのだ。
港に向かう道を皆が駆け下りていく。より早くカモに服を売りつける為に先を争う。
フレアもぬかるんだ道を駆けた。
港へと続く通りは石畳に変わる。露店が組まれ、商品が並びだしていた。
彼らは商業ギルドに属する露天商たちだ。彼らが港に近い場所を占有し、工場を通してギルドから承認受けた吾たちは、離れた場所で肩を寄せ合わなければいけない。
港からは離れた通りの端に身体を押し込み、商品を持つ。
しばらくすると港から客引きの声が幾重にも響きだした。喧騒は妖獣の唸りのように聞こえる。
下船した客が出てきたのだ。ここで何とか売りつけなければ、借金が増えるばかりだ。
服を握る手に力が入る。
どのくらいしたか、下船した客たちが歩いてくる。誰もがげんなりと憔悴した顔だ。
妖獣の出る荒れる海を渡り、やっと港に着いた途端に物を売りつけられるのだ。
足早に立ち去りたいのは分かる。でも、そうですかと客を逃がすわけにはいかない。
「ドレスと外套だよ。どうだい、奥様にドレスは」
手にした服を掲げ広げて見せる。
先頭を行く男はあからさまに目を逸らした。
そうだろうとも。おまえごときがこのドレスの価値を分かるわけがない。この後からも客は続くんだ。
「他に外套もあるよ。丈夫な外套だ、一生ものだよ」
張り上げた声に一人の足が止まった。
身なりからして商人だ。それも商業ギルドの正規商人。禿頭の背の低い男だが、金だけは持っているはずだ。
「目が高いね。これはいいドレスだよ」
掛けた言葉に、男は値踏みするような眼を向ける。服ではなく、こちらの顔を。
その視線が下がり、胸と腰にまとわりついてきやがった。
「どうする。買うのかい」
今度は怒鳴った。
「幾らだ」
「五ルピアだ」
「高いな、五十ペリルだろ」
「冗談じゃない。冷やかしなら行ってくれ」
「着付け込みなら、三ルピア払うぞ」
男の口元が歪む。
ふざけやがって、着付けというのは身体を売るの隠語だ。吾の身体を服と一緒に売れと言っているのだ。
「そんなものはなしで、五ルピアだ」
睨みつける。
その男に、茶髪の大柄な女が「着付け込みなら、六ルピアでいいわよ」耳元で囁いた。
この禿親父と同じエルナの血を引くサドルだ。
ったく節操のない女め。吾は他の客にあたるさ。その目の隅に黒い影が映った。
漆黒のローブを纏ったエルミの少年。
エルグ種ではない純血のエルミの民だ。なぜか他の売り子は声も掛けていない。
その顔を見る。緑の髪にはウエーブがかかり、透き通るような白い肌に緑の瞳。赤い痣なんか見えやしない。
思わず声を掛けるのを忘れ、目の前を過ぎるその横顔に見惚れた。
だめだ、吾の外套が似合うのはこの人しかいない。咄嗟にその肩を掴んだ。
弾けたようにその肩が動き、こちらのルクスが打ったことを教える。
そう、吾のルクスは強すぎるのだ。
「ごめん」
思わず声に出た。
少年の足が止まる。
「ど、どうだい。この外套は安くしておく。いい品だよ」
少年の目が外套に移った。これは売れるかもしれない。
「五ルピア、いや四ルピアでいい」
その金額に少年の目が離れる。
「三ルピアでどうだ」
声を張り上げた。
その足が進む。待って、行かないで。
声を張り上げようとした時、
「アリスア。こっちに来い」
ムラヌの怒声が喧騒を破った。
押し返す波のような喧騒が再び周囲を呑み込む。しかし、ただ事ではない。
フレアは服を脇に抱えると、少年を追い越して人混みの中を足を進めた。
しばらく先で四人の少女たちが壁を背に座り込んでいる。アリスアを慕う少女たちだ。
「どうしたの」
「アリスア姉ちゃんが」
震える声で言う。フレアは膝を付いて目線を落とした。少女たちの目を見る。
「どうしたの、アリスアはどこ」
落ち着かせるように、優しく聞く。
「商人のお客さんがアリスア姉ちゃんの服を買うと言ったけれど、断ったの」
「断った、どういうこと」
「売るのは服だけだって。それを聞いていたムラヌさんが怒って」
そのまま立ち上がった。何が起きたかは分かった。
着付け込みで服を買うと言われたのを断ったのだ。それを聞いていたムラヌが怒って、引きずり出した。
ここでの売り上げは仕入れ値の三ルピアとは別に、売り上げの何割かが担当監督官に流れる。
その小銭欲しさに、断ったアリスアを客に渡すために引っ張ったのだ。
路地裏でアリスアを殴りつけてルクスを削る気なのだろう。
どこまで腐ってやがる、通りから路地に入った。
この先に少し広い場所がある。殴りつけるならばそこだろう。
狭い路地を曲がり広場に出た。
その足が止まる。
顔を腫らしたアリスアが、ぶつかるようにムラヌに飛び込むのが見えた。
青い光が瞬き、互いのルクスが散る。アリスアの手にしたナイフが、ムラヌの腹に突き刺さった。
わずかに遅れて商人の手にした剣がアリスアの首を薙ぐ。
半ばまで断たれた首から噴き上がる血が周囲を紅に染め、アリスアが崩れ落ちた。急所の一撃に、身動き一つしない。
何をしやがる、大の男が二人掛かりで。なぜ、アリスアが殺されないといけない。
頭が湧き上がる怒りに焼かれた。
こぶしに衝撃が走る。殴り飛ばした商人が壁に叩きけられ、血を散らした。
それでも手にした剣を振り上げる。
それを腕ごと蹴りつけた。
腕は肘の上からありえない角度に曲がり、剣が石畳を打つ。
「フレア、でめえ」
ムラヌの顔が上がった。その腹に刺さったナイフは、アリスアの最後の抵抗だったのだ。苦しさと哀しさしかない人生への最後の抵抗。
この泥沼からの足搔き。
「うるさい」
そのナイフを思いっきり踏みつけた。血を噴き上げて、ナイフの柄まで突き刺さる。
ムラヌが白目をむいて首を落とした。気を失うなんて、甘すぎる。
アリスアがどれほど苦しんだのか。
足を振り上げる。お前だけは許さない、殺してやる。
その瞬間、後ろから身体を抑えられた。
何しやがる。大きく腕を振った。その手が止められる。
誰だ、邪魔をするのは誰。振り向いた先に、深緑の髪の少年。何でここに。
それでも意識を焼く炎が消えない。声にならない声を上げて、少年に掴みかかった。
少年の手が胸にあてられる。見えた瞬間、膝が落ちた。
何がどうなっているのか分からない。
当てられた手から迸った衝撃が、身体中を走っている
少年は背を向けると二人が気を失っているのを確認する。
商人のポケットに手を突っ込んだ。出したのは青い旅札だ。
それを取り、少年は吾を抱え上げた。
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