第14話 フレア
胸まで泥沼に沈んでいる。
フレアがもがけばもがくほど、沈み込んでいくようだ。
駄目、ここから抜けられない。このまま沈むしかない。嫌だ、誰か助けて。
空を見上げる。ただ青い空が無慈悲に広がっているだけ。
助けて。
思い込めた先、空の一点に黒い影が見えた。あれは――、翼龍。
翼竜は大きく空を舞うとゆっくりと舞い降りて来た。
手を伸ばす。
翼竜のかぎ爪が肩を掴み、伸ばした手でその足を強く握った。次の瞬間、身体が一気に引き上げられる。
身体を締め付け、抑えつけていた泥沼から抜けて空に引き上げられた。
解放された、助かった。
思った瞬間、重い鐘の音が響いた。
起床を知らせる鐘の音、夢を見ていたのだ。
部屋にびっしりと並ぶベッドから一斉に皆が起きだす中、フレアもベッドから出ると急いで作業着に着替えて部屋を出た。
風に軋む窓の外は灰色の空が広がっている。真っ直ぐに伸びる深紅の三本の雲が、その灰色の雲を貫いていた。
警鐘雲、創聖皇から王に対する警告だ。
この雲に四本目はない、次に何かあれば天の鐘が鳴り、王は廃位される。王が変われば、この国も変わるかもしれない。
早く天の鐘が鳴ればいいのに。
雲の下には、高台に建つ公領主館のある城塞都市が、暗く沈んで見える。威圧的で、抑圧を形にしたような不気味な姿だ。
これも潰れればいいのに。
窓から目を離し、煉瓦の洗い場と水桶の並ぶ廊下に出た。
手桶で冷たい水を取り、口と顔を洗う。その間に、すぐに後ろに列が出来た。
手桶を別の手桶の水で洗い、すぐに離れて食堂に入る。
ここもすでに列が出来ていた。
豆と小魚の煮込み、黒パン。いつもの食事が乗ったトレーを受け取り、空いているテーブルを探す。
「フレア」
手を上げて呼んだのは、アリスアだ。隣の席がまだ空いている。
駆け寄り、その席に腰を下ろした。
「おはよ」
「うん、おはよ」
「今日は遅いわね」
「変な夢を見た。泥沼でもがく吾を翼竜が引き上げてくれた夢」
「願望ね。でも、吉兆夢かもしれないわよ」
「だったら、いいけど」
「そうね。ところで、個別商品は出来た」
アリスアが顔を向ける。ニつ歳が上の女性だが、それよりも大人びて見える。
「外套を作っているけど、もう少し時間が掛かるわ」
「そう、外套なら売れるかもしれないね」
碧の髪をかき上げ、同じエルグの民だがエルミの血が入っていることを教えていた。
「でも、これで三ルピアが給金から引かれるわね」
「吾は、まだ服が売れ残ってるわ」
「まだいいわ、こっちは三着よ」
アリスアの溜息が深い。
この守護領地では、農夫の娘は十七歳になれば縫製工場に勤めることになる。男性と違って畑も家も与えられないのだ。
ここでの給金は月に銀貨二枚の二ルピア、寮費に食費、雑費に税金を引かれて渡されるのは五十ぺリル、大銅貨一枚だけだ。
その中で年に一着、工場納品以外で自分で服が作ることが出来、それを自由に販売しても良いことになっていた。
しかし、これが厄介だった。
材料費、販売費で三ルピアを工場に取られる。それは給金から天引きされ、六か月間無給になる。
商業ギルドの露店が一ルピア程度で販売するものを三ルピア以上で売れるわけもない。
作らなくても、材料キャンセル費として同じく三ルピアは取られてしまう。
洗剤など日用品を買えば、借金は増えるばかりだった。
借金にならずに売れる唯一の機会は、大陸から来るカモに三ルピア以上で売りつけることだ。
しかし、その船もここしばらくは見てもいない。
荒れる海に回遊する海棲妖獣、服を大陸に送る定期船すら欠航する有様だ。
ここを出る方法は一つしかない。
工場側から斡旋してくる相手と誰でもいいから婚姻する。そうすれば借金はそのままだが抜け出せることは出来た。
婚姻適齢期と言われる十七歳から二十歳までに婚姻をしないと、斡旋される相手はほとんどなくなってしまう。
アリスアに目を向けた。
俯いたその目元には、哀しさが見える。すっきりとした顔立ちに、同じエルグ族の刻印である頬にある痣も花を思わせる。女の吾ですら見惚れる美しい女性だ。
しかし、年齢は二十一歳になる。その美しさから適齢期を逃したのだ。
美し過ぎるが故に。
食事を終えると、急いで席を立った。
寄宿舎を出た隣が縫製工場になる。何列もの長いテーブルが並び、布の並んだそこに、間隔を空けて座った女性たちが布を縫っている。
部屋を囲むように立つ何人もの男たちは、監察官と言われる監視係だ。公貴と呼ばれる貴族の馬鹿共で、威張り散らすしか能のない輩だ。
フレアは彼らに目を合わせないようにしてテーブルに進むと、女性たちの間に座る。乗っている布は、昨日の作業途中のものだ。
たちまちテーブルは一杯になる。
針を取った。
それを待っていたように鐘がなり、作業をしていた女性たちは立ち上がった。
一日二交代制の交代時間だ。
フレアは作業の続きであるドレスを縫い始める。
十二時間、ただひたすらに続く縫製作業だ。他の部署には型紙係、裁断係がある。テーブルの下に置かれた箱に入れてあるのは、新たに準備された裁断済みの布だ。
どのくらい縫い進めたか、布を抱えた女性たちが入って来た。
全員に緊張が走るのが分る。
足元の箱に持って来られた布が入れられ、すぐに怒声が響いた。
手前で作業をしている女性の箱が一杯になったのだ。
「何やってんだ、仕事が遅すぎる」
監察官が手にした棒を力一杯に振り下ろした。ルクスが輝き、女性の身体を護るが、それでも椅子から落ちる。
その身体を二人の監察官が掴み、引きずった。
それが合図のように、部屋の数か所で同じ音が響く。
針を持つ手が止まった。
まだ縫製に回ったばかりの少女たちだ。この仕事量に追いつけるわけもない。監察官もそれは分かっている。
あのケダモノたちは棒で殴りつけてルクスを削り取り、痛めつけることだけが目的ではない。
月に数回こういうことは起こる。
こぶしを固めて、湧き上がってくる怒りを鎮める。ここで怒りに身を任せれば、迷惑をかけてしまう。アリスアがまた酷い目に合うかもしれない。
心の奥で頭をもたげるものを抑え付けた。
その瞬間、
「いい加減にして下さい」
立ち上がったのはアリスアだ。
すかさず監察官が駆け寄る。あのケダモノたちが待ち望んだ反応だ。
次に起こることは分かっている。アリスアを引きずり出し、殴りつけてルクスを削り取るのだ。
吹き抜けにある監視室で、アリスアは慰み者されてしまう。
監察官のムラヌがアリスアを気に入り、その為に婚姻斡旋の書類も回さなかった。適齢期を過ぎた女性たちは、監察官の慰み者になるしかないからだ。
アリスアの俯いた顔が浮かんだ。彼女はそうなることも分かった上で、少女たちを守っている。
彼女が声を上げない限り、少女たちは打ち据えられて泣き叫ぶしかない。
これ以上の我慢は出来ない。
フレアは叫びながら飛び出した。
こぶしにルクスを込めてムラヌを殴りつける。ルクスの光が散り、ムラヌの頬を一撃で捉えた。
どうだ吾のルクスは。お前たちごときの薄っぺらいルクスなんざ、すぐに弾き飛ばしてやる。
何が公貴はルクスが強いだ。ルクスの大きさは、その者の器の大きさを表すだと。ルクスの強い者が弱い者を従えるだと。
倒れたムラヌを踏みつけた。吹き出す血がテーブルに散る。
さらに蹴ろうと足を振り上げた時、左右から衝撃が走った。警棒で殴りつけられたのだ。
しかし、それもルクスに阻まれ、警棒が身体に触れることもない。
ルクスの強い者が偉いのならば、吾がここで一番偉い。
「フレア、いい加減にしやがれ」
イデルが横から警棒を撃つ。一際大きなルクスが輝いた。互いのルクスが削られたのだ。
舐めやがって。いい加減にしろとはこっちの台詞だ。四十手前の田舎公貴が、いつもいやらしい目を向けてきやがって。
振られる警棒めがけてこぶしを打ち込んだ。
再びルクスが輝き、腕に重い衝撃。イデルのルクスを破ったが、こちらのルクスも破られた。
次の瞬間、腰に鋭い痛みが走る。破られたルクスを抜けて他の監視官の警棒が叩いた。肩、背中、腰、何人もの監視官に打たれ膝が落ちる。
それでも心の奥で燃え上がった怒りは消えない。
おまえら殺してやる。
不意に背中を柔らかいもの包み、打たれる痛みは止まった。
「もういいの、もういいから。フレアは自分のことだけを考えて」
耳元でアリスアの声が聞こえ、鈍く肉を打つ音が重なる。
「どいて、アリスア。もう許さない」
「駄目よ、フレアのルクスは強すぎる。みんなはフレアの妖が暴走するのを恐れて抑えているけれど、本当は公貴を傷つけても大罪なの。このままなら、あなたは殺してしまうわ」
アリスアは吾が暴走しないように、先に立ち上がったの。
なぜ、そこまで人を庇える。なぜ、そこまで自分の身を犠牲に出来る。なぜ、そこまで――。
フレアはそのまま床に崩れ落ちた。
再び背中を打ち続ける痛みに歯を食いしばる。
その目に引きずられていくアリスアの足が見えた。
ここは、クソみたいな掃きだめだ。掃きだめの泥沼だ。抜け出そうと足掻けば沈み、じっとしていても沈む。呑み込まれるしかない泥沼だ。
泥沼ならば、いっそ皆を殺してしまいたい。
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