第9話 脱獄


 自分の牢に戻るとベッドに腰を下ろした。

 ここでの最後の食事をとる。

 まだ、かすかに暖かい。この食事が運ばれてから、それぼど時間は過ぎていないようだ。

 これから二回の食事だったら、生死の確認に来るのは、約一日後になる。

 死んでいると思われて、投げ出されるのに数時間だろうか。それに合わせて意識が戻ることを願うしかない。


 僕は横になった。

 ここでの様々なことが思い返される。

 そして、ここで目を覚ますことはもうない。

 辛いことしかなかったが、この空虚さは何だろうか。確かなのは、死への恐怖ではないことだ。

 意識を沈めていく。

 すぐに第三門まで下りた。金色の河が迫ってくる。

 毎日意識を潜らせてきているが、美しさに心を奪われるのは同じだ。そして、今は暖かさも感じる。


 金色の粒子を散らす河が近づいてきた。

 いつもはここまでだ。ここで、魂を焼かれ、浄化されていたのだ。

 そして、ここから先は未知の世界になる。しかし、不思議とそこに恐れも不安もなかった。

 弾ける粒子の暖かさを感じながら、沈んでいく。

 光の河に入った。


 次の瞬間、意識がかき回された。違う、無数の意識が心に入ってくる。

 剥き出しの思いと感情、それらが積み重なった人の意識が何百、何千、何万と流れ込み自分自身が押され沈んでいく。

 心という小さな器に、大量の水が注ぎこまれるようなものだ。抗えば、心が砕けてしまう。

 これが、全ての人の集合意識……自分を見失ってしまう。呑み込まれてしまう。


「ほう、ここに飛び込むバカがいたのか」


 声は突然響いて来た。

 荒れ狂う意識の奔流の中に、小さな光が浮かぶ。

 なんなのだろうか。浮かぶ疑問もすぐに呑み込まれた。


「なるほど、狙いは脱獄か」


 僕の意識も剥き出しなのだろう。全てを曝け出した思いを読まれているようだ。


「この意識の奔流に呑み込まれ、自我を失い、そのまま死ぬことを恐れるよりも、僅かな可能性に掛けたのか」


 その言葉と同時に、突然意識の奔流が消えた。

 周囲は闇に閉ざされ、小さな明かりが灯る。


「これは、とんだイレギュラーだな。名はアムル・カイラムか」

「……はい」

「アムル、一つ教えてやろう。この集合意識に飛び込めば、万に一つも出られることはない。たちまちおまえの心は砕かれ、おまえ自身の意識もこの奔流の一つとなる」

「でも、ここを抜けられる可能性があると」

「聞いたようだな。しかし、それは間違いだな。魂を浄化すれば、ここに入っても即座に焼かれることはない。ただ、それだけだ」

「僕は……このまま死ぬのですか」

「本来ならばな。しかし、このイレギュラーは殺すに惜しい」


 イレギュラー、どういう事だろうか。


「予定されていない駒のことだ。世界を大きく動かす駒は決められておる。しかし、おまえは選ばれていないにもかかわらず、駒と同じ力を持っておる」

「僕は、駒ですか」

「おまえだけではない。全てが駒だ。そして、おまえは捨て置くには惜しい駒だ。手助けはせんが、観察はしてやる」


 観察。


「おまえの全てのルクスを使って、意識をこれから戻してやる。見事生き抜いてみせろ」


 意識を戻す。あなたは何者なのですか。


「おまえが世界を変える駒になれるならば、会えるさ」


 その言葉が聞こえた途端、海水が喉を焼いた。

 息が出来ない。海に落とされたのだ。

 身体を締め付けるようなざらついた布の中で、手探りで自分の両手を探る。

 あの歪なナイフはすぐに分かった。

 腕に巻きつけられたそれを取ると、押し付けられる麻袋に突き立てる。布を破り足を引っ張る縄に押し当てた。


 周囲が真っ暗なのは、夜なのか意識が飛びそうなのかは分からない。ただ苦しい。

 縄を切るともがくように袋から顔を出す。顔の表面をなぞる肺から絞り出された小さな気泡。これが向かう先が上だ。

 僕は残った力を振り絞って水をかいた。

 苦しさが限界を越える。そう思った時、大きく咳き込んだ。

 海面から顔が出たのだ。激しく荒れる波間から月に浮かぶ断崖が見える。意識を潜らせて数分だと思っていたが、二十四時間以上過ぎたことになるのか。


 海水を飲みながら空気を吸い込む。

 生きている。僕は生きている。

 身体と心が震え出すほどの喜びを噛みしめ、断崖から離れるように身体を動かした。

 波に揉まれ、流され、どのくらいもがきながら水をかいたか、足に鋭い痛みが走った。

 岩にぶつけたのだ。

 海岸に辿り着いた。


 麻袋を身体に巻き付けたまま、僕は岩場を這い上がり灌木の中に潜り込んだ。

 木の枝が身体を傷つけるが、動くことが出来ない。息が荒く、身体に力が入らない。海水を飲み過ぎたのか、喉が焼けるようだ。

 だけど、ゆっくりもしていられない。岩場に打たれ、枝に傷つくということは、それだけルクスがないということだ。意識を引き上げるために、本当にルクスを根こそぎ使ったようだ。

 ここにいれば、血の匂いに獣が集まってくる。


 悲鳴を上げる身体を起こし、闇の中に足を引きずった。

 どこか安全な場所でルクスの回復をしなければならない。

 灌木を抜けると、あぜ道に出る。

 その道の先に明かりが見えたが、麻袋を腰に巻いただけのこの姿では、向かうわけにもいかない。

 道を横切り、しばらく進むと木々は高くなり、坂になってくる。遠くに山犬の遠吠えも聞こえた。


 さらに進んでいくと、坂は急峻な山に変わる。

 下草に足が切られ、素足は痛く、身体は重い。ただ少しでも遠くに行きたかった。この場所から離れたかった。

 もう動けない、意思が挫けそうになった時、大きな木が月に浮かんで見えた。

 ここだ。


 僕はその幹にしがみつくと最後の力を振り絞って登る。太い枝に腕を掛けて身体を引き上げた。

 幹に背中を預け、やっと息が付ける。周囲を見渡すと藍色に変わった空は、山の稜線を昏く浮かび上がらせていた。

 ここに石組みの壁はない。吹き抜ける風が頬を打つ。

 本当に無事に逃げ切れたのだろうか追手はこないのだろうか

 落ち着いてくると自由への高揚が消え、不安になってきた。風に揺れる葉の音さえも緊張し、身体を休めることが出来ない。

 これでは駄目だ。

 もう一度深く息をつくと、僕は意識を潜らせた。


 不安、焦燥、喜びに感情が乱れ、心のお喋りは騒がしい。それでもかなりの時間をかけて第一門にたどり着けた。

 途端に意識が広がっていく。

 緑にあふれた木々と山、流れる川に海、そして砦のような牢獄が見えてくる。

 その牢獄に意識の翼を伸ばす。四層に重なる牢獄の最下層、ボルグ先師達の姿が見えた。

 ボルグ先師を中心にダイムとザインが机に座り、何かを話し込んでいる。騒ぎにはなっていない。

 そういえば、ダイムの姿を見て思い出す。脱獄ができたら見ろと言われたものがあった。  

 意識を浮かび上がらせる。


 いつの間に太陽は上がったのか。あまりの眩しさに、開けた目はすぐに閉じた。

 もう五年も見ていない太陽の光だ。こんなにも世界は明るく輝いていたのだ。

 それでも右足に括り付けられているものにはすぐに気が付いた。

 光に目を慣らしながら括り付けられた小さな箱を取る。


 箱を包む蝋をはぎ取り、開けた中に入っているのは三枚の地図だった。

 一番上の地図はこの近辺のようだ。カザムの言っていた隠れ家なのだろう。場所は――大きなレッドアッシュの木を目印に東に少し行った先。崖下の岩場を示している。目印になっているのは、僕が休んでいるこの木のようだ。

 身体を起こすと枝から降りる。

 だったら話は早い。ここで体力の回復を待つよりも、無理をしてでもその隠れ家に行った方が安全だ。

 意志を奮い立たせ、重い身体を引きずって森の中を進んだ。

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