第5話 ルクスの河

 

 本を読み終え、僕は大きく息を付いた。

 記号にしか見えていなかった公式というものが、その意図するものが、見えてきた気がした。

 この公式を考えた人がどういう考えでそこに至ったのか、垣間見えた気がした。

 余計なものをはぎ取り、現象を数字で表す。読み書き計算でこの本を用意してくれたボルグ先師の考えも分かった。


 本を閉じると、もう一度息を付いた。

 一つ世界が広がったようで、感動すら覚えてしまう。

 ベッドに座り直した。聖符の模写は後からしよう。


 目を閉じて心を見る。

 心はお喋りだ。何も考えていないと思っていても、泡沫のように様々なことが浮かんでは消えていく。

 ザインは心と距離を置けと言っていた。

 意識を潜らそうと思えば、思ったことが考えてとなって浮かんでくる。それをただ外から眺めるようにする。

 意識を切り離して、そのお喋りを眺める。


 どのくらいそうしていたか、すっと意識が沈みだした。

 浮かんでは消えていく考えは、徐々に間隔が空き静かになってくる。

 世界は静寂に包まれた。

 わずかに遅れて、意識が広がっていく。


 石組みの暗い牢が見え、ベッドに座る僕自身を見下ろした。

 意識はさらに広がる。幾つもの同じく小さな牢と広いボルグ先師の牢、牢の間を縫うように走る狭い廊下と階段。

 ボルグ先師は机に座り、ザインとダイムはそれぞれの牢で横になっている。他の牢にいるのは、数えるほどだ。


 同じ造りの牢は四層に重なり、牢獄自体を俯瞰で見下ろした。

 断崖に築かれた牢獄。

 荒い海が押し寄せる断崖に立つ、高い壁を持った砦のような牢獄。

 意識は上昇していき、森と街も見えだした。

 広がる意識はあらゆる束縛を解き放ち、自由になる。解放された喜びに震えてくるほどだ。

 世界は、こんなにも綺麗だった。


 時間の感覚もない中、それを見ていた。

 至福に満たされた。

 しかし、それが闇に呑み込まれたのは突然だった。不意に何かに引っ張られるように意識が沈む。

 再び訪れた闇の中を沈んでいくと、幾つもの小さな光が見えた。

 光は徐々に大きくなって来る。光の中にあるのは、お父様とお母様の笑う姿。住んでいた屋敷、通っていた学院。強く記憶に残っている風景だ。それを距離を置いて見る。

 楽しい思い出であったが、不思議と感情は何も湧かない。


 やがて、光は消え去り再び闇に包まれる。

 違う。今度は闇の中に友達の姿、泣いている友人たち。すぐにそれが何かが理解できた。

 僕の言葉に傷つき、泣くしかなかった友人の姿のだと。

 今なら、今だからこそ分かる。僕が妬みや、嫉妬から発した言葉は、お父様の威を借りて、彼らを馬鹿にし、罵倒をしたのと同じなのだ。


 言い返そうにも、内務大司長の息子に言い返せるわけがないのだ。

 そう、僕は僕よりも勉強が出来る者、ルクスが強い者を妬んでいた。自分がどれだけ矮小なのかを知らなかった。

 自分の愚かさを見せ続けられ、恥ずかしさと情けなさ、そして悔しさに苦しくなる。

 目を閉じたい、目を逸らしたい、それでも意識に直接入って来るのだ。直視するしかなかった。

 使用人に対しても同じだ。孫や子供のような歳の僕に頭を下げさせ、無茶な指示をしては当たり散らす。

 使用人は、お父様に給金で雇われただけの同じ人だ。それを自分の従僕のように思っていた。その人の尊厳を踏みにじることを当然と考えていた。

 意識が砕け散りそうになるほどの後悔に包まれる。


 恥ずかしい。

 情けない。

 消えてしまいたい。

 見えていたそれも消えていく。

 もう、落ちている感覚はない。

 ただそこにいるというだけだ。

 心と向き合うというのは、このことなのだろうか。

 自分の愚かさ、小ささ、情けなさと向き合うことなのだろうか。


 思った瞬間に気が付いた。考えても心のお喋りは聞こえない。ただ、何もない空間を漂う剥き出しの自分しかいない。

 だったら、もっと自分の本質があるのか、あるのならば見てみたい。沈め。

 願ったと同時に、再び引き込まれるような落ちる感覚。

 底のない闇の中をただ落ちていく。

 永遠に落ちていくと思えた中で、金色の線が見えた。

 あれは。

 闇の中に一本の線。それは金色に輝きながら流れていく。

 綺麗だ。

 その美しさに心を奪われ、惹き込まれる。

 ゆっくりと大きくなるそれは、やがて視界の大半を覆うようになった。


 光の河だ。金色に光る小さな粒子が無数に集まり、大きな河となって流れている。

 同時に、本能が叫んだ。あれは危ないと。

 止まれ。強く思った。

 それでも減速はゆっくりとだ。

 だめだ、あの河は危ない。止まれ。

 光の河の目の前でようやく止まった。


 河から弾ける光の粒子が僕の意識を叩く。火の粉のようだ。意識がその度に焼かれていくように感じた。

 上がれ。

 願いを込めるが、引き寄せられたようにわずかにしか上がっていかない。

 それでも浴びる火の粉は少なくなり、焼ける痛みも減っていく。

 光の粒子が届かなくなったその瞬間、意識は一気に引き上げられた。


 荒い息を付いて目を開ける。

 夢を見たわけではない、あれは何だったのだろうか。周囲を見渡した。

 いつの間に来たのか、小窓の下には食器が置かれている。思ったよりも長い時間かかっていたようだ。

 立ちあがると、その身体が流れた。手をついて身体を支える。

 身体が重い、ばらならになりそうだ。

 でも、これ以上遅れるわけにはいかない。牢を出るとふらつく身体を支えながらボルグの部屋に入った。

 どれくらい遅れたのか、ザインはずっと待っていてくれたようだ。棒を持ったまま壁に背を預けていた。

 傍らでタイムも立っている。


「申し訳ありません。遅れました」


 頭を下げた僕に、

「おまえ……」

ザインが手にした棒を落とした。


「アムル」


 遅れてボルグ先師が走り寄って来た。

 何、どうしたの。


「おまえ……光の河を見たのか」


 ボルグ先師の声が上ずっている。


「金色の河ですか」

「辿り着いたのか」


 ボルグ先師が膝を付いた。


「はい、河は金の粒で出来ていました。でも、その金の粒は僕に当たると焼けるように痛くて、すぐに離れましたが」

「そうか、辿り着いたのか」

「それで、遅れてしまいました」

「気にすることはねえ。しかし、本当にそこまで、ルクスの河まで行っちまうとはな」


 傍らで腰を落としたのはダイムだ。


「ルクスの河……でも、ルクスは地を流れているはずでは」

「地を流れるルクスは人に入り、普遍的無意識を流れるという。これは、全ての人の集合意識のことじゃ」

「集合意識、全ての人の意識に繋がっているのですか」

「理解できているな。そうじゃ、創聖皇の心が入った人はその心の繋がりで意識も繋がっておる。本来はルクスが安定をしていても、たどり着けない領域だ。そして、大半の者はその手前で心が壊れて、正気を失っちまうものじゃ」


 その手前、あの自分の愚かさを見せられた時だ。


「それが、まだ十三のおまえが辿り着いたのだ。ボルグ先師が驚かれるのも無理はねぇ」

「予定を変えねばならんな」


 ボルグ先師が重い声で言いながら、僕の頭に手を置いた。


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