第4話 学び

 

 その日から、僕の生活は一変した。

 起きるとランタンの明かりをつけて本を読む。

 この数学理論とかいう本は、まったく意味が分からなかった。前後の文脈で考えるが、それでも全く分からない。

 ただ、分からないまま毎日三十ページは読み進めた。

 一緒に渡された板には木の棒が付いており、その木の棒で板に知らない単語を書くことが出来た。どうなっているのか、書かれた文字はこすれば消える。


 小窓から入れられた食事を挟んで進め、読み終えると聖符の紙を広げる。

 正確に記すことが出来れば、同時にルクスが発動すると言われたが、未だに光球は浮き出てこない。

 何度も何度も書き直し、手が痺れるまで書いていく。

 棒を持てなくなるまで書くと、ベッドに座り直した。


 自分に意識を向ける。これが一番難しい。何も考えないということが出来ないのだ。

  浮かんでは消える雑念が整理が出来ず、流されていくようだ。

 二回目に小窓が開かれ、食事が来ると僕はボルグ先師の元へ向かう。

 でも、そこでボルグ先師が教えてくれることはない。

 待っているのは、ザインだ。


 木の棒を持って身体が動かなくなるまでザインと撃ち合い、その後でダイムの話を聞く。

 頭も身体も疲れ切り、自分の牢に戻るとそのまま倒れるように眠りこんだ。

 だけど、何も考える暇が無くなったのは良かった。あの日の夢を見ることもなくなり、不安と恐怖を感じる余裕もないのだから。


 壁に刻んだ線は広がっていき、壁一面を埋めてしまったが、それを数えることもしなくなった。

 文字と数字の羅列に過ぎなかった分厚い本の内容がおぼろげながら分かりだしたのは、六十回を過ぎたその頃からだった。

 分からない言葉はまだたくさんあるが、数式が理解出来るようになるとその意味も感覚として分りだす。

 頭が順応を始めたのだろうか。


 しかし、それ以外は駄目だ。

 聖符は発動せず、心と向き合うこともままならない。

 僕は、ボルグ先師の部屋に入ると、木の棒を取った。

 すでにザインが棒を持って立っている。


 目が合うと同時に、僕は床を蹴った。濡れた足元は滑りやすいが、ルクスを込めれば大丈夫だ。

 撃ち合う棒はルクスを瞬かせ、身体ごと弾かれる。これにも慣れた。足元から降りると同時に身体を捻って横薙ぎに払う。

 迫っていた影が上に跳ぶ。

 交錯するように下を潜り、棒を跳ね上げた。

 いや、抑えられた。ルクスを散らして撃たれた棒に、腕が痺れる。

 次の瞬間、肚に鋭い衝撃が走り、頬を冷たい石畳が打った。


「なかなか、いい動きになって来たな」


 声が落ちてくる、


「跳ね上げずに、距離を取った方が良かったですか」


 身体を起こした。


「いや、あれは良かったぞ。ただ、抑えられた後でおまえは集中を切らしただろう」


 手が差し出され、僕は引き起こされた。


「あそこは距離を詰めて、そのまま体術に持ち込むべきだったな。俺は体勢を崩しながらの一振りだ」


 いや、たとえそうでもそのまま組み伏せられるのは、目に見えている。


「さあ、構え直せ」


 そのまま連続で十本の撃ち込みをしたが、やはり完敗だった。

 ザインの身体に触れることも出来ない。


「ところで、心との向き合いはどうだ」


 打撲したところに簡易の聖符を当ててくれながらザインが尋ねた。


「心に向き合うですか。難しいです。いろいろな雑念が浮かんでしまいます」

「それは当たり前だ」


 当然のように言う。

 しかし、何も考えないようにしないと向き合えないのではないのだろうか。


「違うぞ。心はお喋りだ。黙ることはない」

「では、どうすればいいのですか」

「その雑念を聞きながら、意識を潜らせて行け。心と距離を置いて沈んでいくんだ」


 ザインが目の前に座った。

 エルグの民は、穢れた血を持つ恐ろしい存在と教えられていたが、実際は違った。

 ボルグ先師の言われた傲慢な知識というのは、このことだったのだろう。


「ありがとうございます」


 頭を下げる僕の横に、

「しかし、剣の使い方は上手くなったものだ。横から見ていても分かるぞ」

 ダイムが腰を下ろした。


「そうでしょうか」

「そうだな、上達している」


 ザインが笑う。引き込まれそうな笑顔だ。


「どんな本でも、教えて貰ったことでも、それが真実でないことが分ったか」


 ダイムの言葉に頷く。その言葉がザインを現していることが理解できたのだ。


「全てのことに表裏がある。どんな話でもそれを真っ直ぐには受け取るんじゃねえぞ。状況を見る、そして人を見ることが大事だ。全てを疑え」


 ダイムに教えられるのは、物の見方と考え方だった。

 世の中には搾取する者と搾取される者、騙す者と騙される者しかいない。雲の上の王宮がそうなのだから、それは仕方がないことらしい。


 水は高き所から低き所に落ちる。これが真理だそうだ。

 その話を聞きながらも思考を回す。

 それは真実なのか。


「でも、搾取をされない人というのは、数えるほどしかいないのじゃないですか」


 僕の問いに、ダイムが手を伸ばして頭に手を置いて来た。


「そうだ。ほぼ全ての者が搾取される。富は低き所から高き所へ吸い上げられるものだ。それは、その内にボルグ先師が教えてれる」


 その言葉に、奥の机に座るボルグ先師を見た。

 大きな机に幾つもの本を広げ、何かを執筆しているようだ。


「でも、この部屋は本当に広いですね」

「元々、ここは政治犯収容の牢獄ではなかった。この部屋は食堂だったのだろう。ボルグ先師を収監するのに、さすがにセラン内務大司長も気が引けたんだろな。この部屋と本に紙にペン。研究に必要なものは全て用意したらしい」


 お父様がこの部屋と本や紙まで、本当に無実の人を捕らえたのだろうか。


「わしらはおまえと同じ狭い牢だった」

「それは、今もですか」

「そうだ。ここに入れられた直後から脱走の為に石を削り、他の仲間と連絡を取っていた。その時に、この先師の部屋にも繋がったのさ」

「先師を巻き込んでしまったんだ。謝ってどうなるもんでもねえが、謝るしかねぇ」


 ザインが呟く。


「先師はバカ者と一喝しただけで、許してくれた。やっちまったものはしょうがないとな。俺も盗賊の頭をしていたが、その言葉には震えたさ。殺されても仕方ねえのに、それだけで許されちまった。とてもこのお方には敵わねえとな。その上で、懇願するわしら六人を修士の末席に加えてくれたのさ」


 ボルグ先師、話を聞けば聞くほど立派な人に思えてくる。


「六人、他の人たちは」

「死んじまった。そのうちの一人のパウムってやつが、今のおまえの牢だった」


 そうか、それで初めからあの石組は動くようになっていたんだ。


「でも、どうして僕も仲間に入れてくれたのですか」

「それも、そのうち分るさ」


 言葉を濁すように言うと、

「さて、他に聞きたいことはあるか」

 笑顔を向けてくる。


「はい、以前にダイムさんが頭に直接話しかけてくれました。あれは、どうするのですか」

「浸透話か、あれは声の波動をルクスに乗せて相手にぶつけるものだ。目の届く距離ならば声が届けられる」

「それは、どうするのですか」

「こいつはな、元々はアセットが使っていた術だ。しかし、今ではそれを使っているのは俺ら生粋の盗賊だけ。その意味が分かるか」

「いえ」

「これはな、ルクスを汚しちまうのさ。創聖皇の御意思に反する使い方になるからな。こんなものは知らない方がいい」

「いや」


 ダイムに応えたのはボルグ先師だ。


「どの使い方がルクスを穢すか、知っておくのもいい。やり方だけは教えてやれ」

「先師もきついことを。まあ、そう言うなら教えますがね」


 ダイムが座り直した。


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