第8話 さより様が居る

 気が付けば木鈴は、繁華街から少し逸れた裏路地とも言える細い道に立っていた。辺りには黒い煤を被った室外機や、腐った水の溜まるバケツか何かやらが放置されている。そして頭上にはアパートの、塗装の剥がれたベランダ柵が飛び出していた。

路地の向こうでは大勢の人が賑わっているのか、怒声混じりで騒々しい声と、火で肉を炙ったかのような煙が充満していた。飲み屋街でもあるのかと木鈴は思ったが、こんな所に飲み屋街がある事に疑問を持ち始まると同時に、先程までの出来事をようやく思い出した。

 穴があったら入りたい位の恥ずかしい出来事があって、木鈴はそれから逃げて、あっさりとトラックに轢かれてしまったのである。木鈴は頭を抱えて路地の壁にもたれ掛かった。

「流石に、死んだか?」

「いえ、まだ死んでいませんよ。」

 その時、木鈴に語り掛ける声が降ってきた。降ってきた、と木鈴が思ったのは、その時点で声の主が周りに居らず、脳に直接響くかのような声であったからだ。だが木鈴が驚いて周囲を見渡すと、丁度あの女がアパートの窓から普通に顔を出した所であった。そして女はベランダ柵に足を掛けると、それを颯爽と飛び越えて木鈴の前に降り立った。

 あの女とは勿論あの黒三角巾の女である。木鈴を呼んでいた、あのお姉さんである。

木鈴が呆気に取られていると、女は無遠慮に木鈴の腕を掴んで、路地の奥へとずるずる引っ張って行った。飲み屋街の喧噪が遠ざかっていく。

「待ってくれ、君は何者なんだ。」

「後で説明します。それより今は、この場所を離れましょう。」

 女は随分と焦っている様でもあった。今の女は巨大でもなく、神の様な尊大さもない。ただ一人の、至って普通な三角巾女であった。三角巾が普通であるとは言えないかもしれないが、女の変わり様を見ればそれは些細な点であった。

 木鈴は展開についていけず、まごついた足で女に引っ張られていた。この女に対する不信感も拭いきらないままであった上に、この空間に対する疑問が止まらないのである。木鈴はしきりに辺りを見渡しながら道を進んでおり、その速度は競歩よりも遅かった。

 女はのろまな木鈴の歩みに、若干苛立っている様であった。女は半ば爪を立てた状態で木鈴の腕を掴んでいた。だがしかし木鈴はそんな些細な痛みには鈍かった。

「早くして下さい。後で全部説明しますから!」

「ここは、あの世か何かなのか?」

「いいから!」

 するとその時、飲み屋街の方から躍り出る三つの影があった。それは人の影に近かったが、全体的に輪郭はぼんやりとしており、大きな砂の塊にも似たものであった。しかしそれら三体の物体は伸びる腕の先に、鋭利に光る刃物を持ち合わせていた。

「おい、何か来るぞ。」

「しまった!ちょっと、どいて下さい!」

 女は木鈴を押しのけて、三体の影の前に立ち塞がった。木鈴はこれから何か不味いことが起こりそうだという事は理解していたが、素人が迂闊に手を出さない方がよいという判断をして、素直に後ろに下がった。正直言うと、女の実力を見られるかもしれないという期待もあった。

「みつる君から聞いたが、君は何でも出来るんだって?見せて貰おうじゃないか。」

「何でもは出来ませんよ。下手には手を出せないですし。」

 すると、三体の影達が女に向って襲いかかってきた。手に握った刃物を構えて、今にもそれを振り下ろさんとしている。女はその直前になって、どこから取り出してきたのか分からない拳銃を構えて出鱈目に発砲した。裏路地に激しい破裂音が鳴り響く。魔法か何かで戦うとばかりに考えていた木鈴は、口をあんぐりと開けて腰を抜かしかけた。

 発砲された弾は、三体のうち二体の影に当たった。弾をくらった影はたちまち蹲って地面に伏している。だが惜しくも弾に当たらなかった残りの一体は、女に向って容赦なく刃物を突き立てた。

 女は、刃物を左腕で受け止めていた。女の腕には刃物が貫通していて、白い服の袖にはじわじわと赤いシミが広がりつつあった。だが女は悲鳴を上げるまでも無く、いつの間にか右手に握っていた包丁で、構えの崩れている影の脇腹を突き刺したのであった。刺された影は呻き声の様なものを上げ、ふらふらと女から離れていった。

 それらは、一瞬の出来事であった。木鈴は、サスペンス映画を見に映画館に行ったら本物の殺人現場に出くわしてしまった時みたいな、そういった気まずさを抱えていた。

「ほら、逃げますよ。」

 女は顔を歪めて腕から刃物を抜き取ると、血濡れてテカったそれを路地の端っこに放り投げた。傷口からは大量の血が流れていて、白い服がどんどん赤く染まっていた。

「おい、それ、大丈夫なのか?」

「大丈夫です。今の私達に本当の肉体があるわけでは無いので。」

 色々と聞きたいことのある木鈴であったが、血濡れた手で再び腕を引かれてしまえば、それらを飲み込んで逃げに徹する他なかった。女は重症である筈なのだが、それを感じさせないほど軽やかに走り出していた。

 木鈴が最後に気になって後ろを振り返ると、そこでは先程の影達が起き上がり始めている所であった。そして更にその奥では、また別の影達がわらわらと湧き出ていた。それらを見た木鈴は途端にぞっとして、ようやく走る速度を上げた。

 木鈴の足が速まったのを感じ取ったのか、女は更にスピードを出して木鈴を誘導し始めた。その速さはやがて木鈴を突き放しかける程まで上がっていき、木鈴は半ば引きずられる形で路地を駆ける格好になった。路地は、迷路のように入り組んでいる。だが先導する女は迷わず道を進んでいき、木鈴を何処かへと連れて行くのであった。木鈴はこの女が一体何者であるのか、検討も付かなかった。

「あともう少しで路地を出ます!振りしぼって下さい!」

 その時もう既に影は、木鈴のすぐ後ろまで迫り来ていた。それらは狭い路地に互いの身体を押し詰めていて、まるで一つの塊のようになってしまっていた。だがそれら一体一体は日本語のような怒声を上げており、木鈴に向って無数の腕を伸しているのは間違いなかった。

「出ます!構えて下さい!」

 女がそう言った後に角を曲がると、その先に酷く明るい出口が現れた。裏路地の終わりである。木鈴はこれでようやく普通に飲み屋街の反対側にでも出られるのかと思った。だが、細い路地から飛び出したその先は、真っ昼間のオフィス街であった。オフィス街であることがおかしい訳ではない。ただ先程まで薄暗い夜の中に居たはずであったのに、目が眩むほどの太陽光が木鈴に降りかかっているのであった。木鈴は呆気に取られてその場に立ち尽くしてしまった。

「なんだ、これは。」

 木鈴が立ち尽くしていられたのは、路地を出ると同時に女が腕を放していたからである。その時女は、目の前にある大通りに飛び出して、半ば強引にタクシーを止めていた。

「木鈴さん!早く乗って下さい!」

 女はもう既にタクシーに乗っていて、開かれたドアから木鈴を手招きしていた。その動きは激しく、緊迫した様子であった。だが木鈴はすぐには動けなかった。左右見渡せる限りまでビルが建ち並んでいるが、これには見覚えがあって、明らかに近所の都市中心部そのものなのである。そして恐る恐る後ろを振り返ると、先程まで迫り来ていた筈の影の集合体は無くなっていた。そこには何の変哲も無いただの薄汚い路地が、短く一本の直線として存在しているのみであった。

「一体何がどうなっているんだ、この空間は!」

 結局木鈴は、タクシーの中の女に詰め寄る他なかった。女は、客席の頭部に肘をついて木鈴をじっと見上げている。木鈴は急いでフェンスを跨いで車道に躍り出ると、その女の待つタクシーに乗り込んだ。タクシーの中は冷房が強く効いており、寒々しい空間であった。

 ドアが閉まると同時に、タクシーは走り出した。木鈴はまだ行き先を知らない。今すぐにでも尋ねようかと木鈴は思ったが、それよりも先に聞きたいことが多すぎて、結局自ら話し出す事が出来なかった。最初に口を開いたのは女であった。

「みつる君に会いましたか?」

「あぁ、ちゃんと要件は聞いてあるぞ。僕に死んで欲しかったんだって?」

 木鈴はそう言ってしまってから、嫌な言い方だったかと思ったが、こんな事になっている以上わざわざ訂正してやる事も無いだろうと考え直してそのまま返事を待った。

「いえ、本当に死んでしまっては困るんです。戻れなくなってしまいますから。」

「じゃあ、ここは本当にあの世ってやつなんだな。」

「そうかもしれませんね。多分、世間一般的に考えられているのとは少し違いますけど。」

「一番の疑問はそこだ。ここは一体、どういう世界なんだ?」

 タクシーは、至って普通に道路を走っている。車窓からの風景も特にこれと言って不思議な点は無く、実は先程までのプチ冒険は全て嘘であったと言われる方がおかしくない位であった。

「人間って、死んでも肉体は残るじゃないですか、」

「だからつまり、我々の身体は精神を作る装置に過ぎないと?」

「そうです。よく分かりましたね。」

「最近ずっとこの考えに呪われているんだ。」

「まぁ、事実ですからね。」

 木鈴は車窓を眺めながら言った。車の外ではスーツ姿の人達がまばらに歩いていて、皆あの世の住人とは思えない程この世の人間にそっくりである。そもそもあの世というものに初めてやって来た木鈴ではあるが、あの世は天国だとか地獄だとか、浮世離れした空間であると刷り込まれていたのだ。

「で、それがあの世、いや、今はここにいるからこの世って言った方が良いのか?」

「死後世界と現実世界にします?」

「そうだな。で、その考え方は死後世界とどう関係しているんだ?」

 女は、三つ編みを弄りながら言った。

「そもそもここは、物理的に存在している訳じゃ無いんです。肉体によって生み出され続けていた精神の残りみたいな感じなので。ほら、手で扇ぐと、風が生まれるでしょう。その空気の流れってしばらく残るじゃないですか。」

「精神って、本当にそういうものなんだな。」

「です。ここは死んだ後にちょっとだけ残された、精神そのものなんです。」

 いまいち実感の湧かない木鈴であったが、何となく分かったフリをしておいた。一先ずは己を納得させておかないと、何一つ理解出来ないままになってしまいそうであったのだ。根幹を納得させておかないと後々面倒な事になるのは予想されているが、こればっかりは常識離れしすぎて仕方が無いというものである。

「でも、なんで僕達は今ここに居るんだい?要するにここは誰かの精神の中なんじゃ無いか。」

「実は私、ちょっと特殊なんです。」

 木鈴は女を見やって、そりゃそうだろう、という気になっていた。だがわざわざ口には出さなかった。

「私は特殊な訓練を受けているんです。」

「うん?で、その特殊な訓練って言うのは一体なんだい?」

「それは言えません!」

 木鈴はその後も「特殊な訓練」について問いかけたが、女は頑なにそれを話そうとはしなかった。木鈴は、熱帯雨林地域に住む少数民族のシャーマンに、薬草に関する秘伝の知識を分けてもらおうと土下座しに行った日々のことを思い返していた。あの時は結局、民族を脅かしかねない学者に漏らせる知識など無いと断られ、土下座はそもそも意味が通じていなかった。

「じゃあ、僕は今どうしてここに居るんだい。僕は訓練など受けていないぞ。」

「まぁ、木鈴さんはまだ生きていますからね。身体から飛び出している精神を私が釣り上げた感じですね。」

「どうやって?」

「ですから、それは言えないんですって。」

 木鈴は無意識にも頭を掻き毟って天井を仰いでいた。精神だけであるというのに、木鈴はちゃんと頭皮を掻く刺激を感じたし、爪の先にはフケが付着していた。木鈴は訳が分からなかった。そんな中、女は唸る木鈴を無視して話を強引に押し進めた。

「あともう一つ、私には出来ることがあります。」

 女は、木鈴に左腕を勢いよく差し出した。少し位置がズレていれば、木鈴の脇腹を殴る動作であった。

木鈴は一瞬、女が何をしているのか分からなかった。だが、すぐにあの時の出来事を思い出して驚愕した。

「君、そう言えば怪我はどうしたんだい。」

「私は、他人や自分の精神を改変させる事が出来るんです。禁忌なんですけどね。」

 血に染まっていた筈の服の袖は、褐色のシミすらない真っ白な状態に戻っている。木鈴は無遠慮に女の腕を掴んで袖を捲ったが、その腕には傷跡一つ残されていなかった。そして木鈴は女の裏拳を顔面に受けると、渋々その腕を放した。

「だったら、あんな傷を受ける前に敵を消し去ってしまえばよかったじゃないか。」

「駄目ですよ。あれは精神を構成する大切な要因でしたし、あんまり常識外れな事しちゃうと精神が壊れてしまうんですよ。」

 そのメカニズムは気になるところであったが、木鈴は一先ずその問題は置いておくことにした。まず先に、もっと気になる事があったのだ。

「君は、一体何者なんだい?」

 下がった眼鏡を直しながら、木鈴はようやく女に尋ねた。ずっと、ずっと気がかりであった事だ。

「あぁ、そう言えば自己紹介をしていませんでしたね。」

 女は言った。

「私はさより、と言います。ずっとここに居ます。どうぞよろしくお願いいたしますね。」

 それだけだった。

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