第7話 死ぬほど恥ずかしい

 時刻はもう午後六時を過ぎている。みつる君と別れてからその足で受付を済ませた木鈴は、医者と何か話をするでもなくそのまま大学に帰ってしまおうとしていた。本当はいけないのだが、もう今回くらいは見過ごして貰えるんじゃないかという楽観的憶測に基づく行動であった。

 病院から大学へは、徒歩で十分ほどの距離である。今回は特別にタクシーで帰りたい気持ちもあったが、木鈴は今スマホも財布も無い状態であったので強制的に歩く羽目になっていた。しかしながら木鈴は何だかとっても上機嫌であったので、特にこれと言った問題は無かった。

 病院の目の前には車通りの多い大きな道路があって、信号は長い間隔を保って点在しているのみだ。病院の周囲には目立った店も無く、辺りは閑散としている。一応コンビニは病院の敷地内にあるのでこれと行って不便な事は無いのだが、時間を潰すことが難しいといった事が病院のレビューに書かれていたりする。

 木鈴はその道路の歩道を歩きながら、もうすっかり暗くなっている空を見上げた。冬であるので、日が落ちるのが早い。木鈴はコートも無かったので身を切るような寒さの風に晒されていたのだが、むしろそれは籠もった熱を流してくれる素敵なものであった。

車道ではトラックや乗用車が絶えず通り過ぎている。反対側はしばらく病院である。巨大な白の総合病院は、塀のようにして長くそびえ立っていた。駐車場も広いので、かなり遠くの方まで病院の敷地の縁を歩く事になる。木鈴はその長い道のりを、鼻歌を歌いながら歩いた。

少し時間が掛かって、木鈴はようやく十字路に辿り着いた。病院の敷地の角にもあたる場所だ。そこには線の薄れた横断歩道が四本あって、古びた信号機も側に立っていた。

しかし、木鈴の目を引いたのはそれらでは無かった。信号機のすぐ側に、一人の女性が佇んでいたのだ。誰も居ない道路を長いこと歩いた木鈴にとっては、その女性の存在が少し新鮮に思えた。

その女性は、例の三角巾の彼女とは全く似ていなかった。ショートの髪型で、だぼっとしたニットを着ているのだ。しかしながら奇妙なことに、その女性は目の前の信号が青であるのにも関わらず、ずっと足を踏み出さずにいた。そして側にある電柱には、枯れた花束が置かれていた。

その花束を見つけて木鈴は、もしかして、と思った。だがまだ確証は無かった。すぐ側まで近づいても、全く見分けが付かないのである。生きているのかどうか判断する術を、木鈴知らなかった。

遂には、木鈴はショートヘアーの女性と並ぶ形となった。信号は赤である。その間、木鈴はしきりに横目でその人を見やった。しかしながら、その人はピクリとも動かなければ何か話す様子も無かったので、木鈴はお手上げ状態であった。

 信号が青に変わった。しかしながら、木鈴もまだ動かなかった。木鈴は言った。

「すいません。貴方、幽霊ですか?」

 木鈴は、顔を正面の信号機に向けたまま声を掛けた。正直言って、あまり、勇気が無かったのである。本当に幽霊であったとしても知り合いでない以上は何をされるか分からないのだ。例のお姉さんが何やら凄い力を持っているという情報がある以上、幽霊によっては特殊な力がある事は確かである。呪いやら何やら掛けられてしまったら、今の科学ではどうしようも無い。お祓いが本当に効いているのかも、よく分からないのである。だが、それらを加味した上でも、木鈴は声を掛けずには居られなかった。ここで彼女を無視してしまえば、後で大きな後悔が待っていることを知っていたのである。

 彼女はゆっくり木鈴の方を向いて言った。

「え、違いますけど。」

「え?」

「ああ、すいません。私、大学の授業課題レポートのネタにしようと思って、トラックの交通量をカウントしていたんです。」

 木鈴が驚いて彼女の方を見やれば、確かに彼女は手にカウンターを握っていた。カウンターの数字は三桁を超えている。木鈴は途端に気まずくなって、彼女に顔を覚えられないように急いで視線を信号機に戻した。

 しかしながら、現実は非情であった。

「あの、木鈴先生ですよね?」

 彼女は木鈴の大学の生徒だったのである。木鈴の大学の生徒は、もれなく木鈴の事を知っているのだ。ここで、知名度が仇となってしまった。

 木鈴は途端にいたたまれなくなって、まぁそうかもしれないしそうじゃないかもしれない、といった意味不明な返答をしてしまった。彼女の方からは明らかに困惑の声が上がっている。そして遂に木鈴は堪えきれなくなって、では夜は危ないから程々にしなさいとだけ言って、その場を立ち去ろうとした。

 その時、信号は赤であった。

 彼女は、反射的にカウンターを一つ押していた。その後、少し冷静になってから、震える手で一一九番を押した。

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