第6話 悪趣味にも程がある

 木鈴はもう何度もこの病院に世話になっているが為に、勝手に病床を抜け出すと面倒な事になると重々承知していた。木鈴はベッドに横たわったまま、いつの間にか欠片の一つも無くなったリンゴの感覚を思い出し、べたつく手を握ったり開いたりしていた。


 やる気が出るまではそうしていようと、そうしていなければならないと、木鈴の全身が訴えかけていた。木鈴の精神はそれに逆らおうとせず、ぼんやりしたまま天井を仰ぎ見ていた。


 だが、いつまでも何もしない訳にはいかない。木鈴は大人であったし、子供であったとしてもいずれ大人になる時が来るというものである。木鈴はそんな事を思いながら、今はそう言う事ではないとも反論したかったが、では具体的に何が違うのだと自分自身に言い返され、よく分からないままに三十分の時を過ごした。そしてもうすっかり橙色に染まっていた空を見やって、これ程無駄な時間は無かっただろうと後悔しながら、ようやく起き上がった。


 やるべき事は沢山ある。木鈴はまず看護師か受付か、とにかく誰かしら病院のスタッフに気さくに声を掛けないといけないし、大学の教務課だとかに連絡を入れないといけないし、この段階までに最低三人には小言を言われなければならないのである。

それからこれが一番重要なことであったが、この不祥事を三竹には知られないようにしなければならないのである。もしも三竹にこの事がバレてしまえば、平均三週間はこのネタで嫌味を言われてしまうのだ。たった三週間程度のことではあるのだが、木鈴にはこれがたまらなく不快なのであった。話の通じない学園長に呼び出されるのと、同じくらい嫌なのであった。


 木鈴はジャケットとジレとネクタイを装着して、潰れたトマトを踵にくっつけたままの靴を履いた。このトマトはおそらく生徒Aが食べていたピザのものであろう。そして木鈴は鉛の詰まったかのような重い足で、病室を出て行った。


 病院の廊下は相変わらず殺風景である。清潔に保たれていて、壁の端っこにも埃一つ残されていない。ここでカーリングがしたいと思いながら、木鈴は一先ずナースステーションに向った。このとき別の脳内では何度も挨拶の練習をしていたが、いまいちどれも人を怒らせそうであって、木鈴はお手上げ状態であった。誰でもいいから適切なコミュニケーション方法を教えてくれる人が欲しい状況であった。


 第一声をなかなか思いつかない木鈴であったが、足はちゃんと動いているので、刻々とナースステーションは近づいていく。木鈴は無意識にも一つ溜息をついて、腕を元気よく上げる為の肩慣らしを始めた。どんな挨拶を使うにせよ、これは重要な事なのである。


 だが、あと数歩でナースステーションの看護師達の視界に入るであろう段階で、木鈴はふと足を止めてしまった。ナースステーションがある所の向こう先に、一人の男の子が立っているのである。木鈴はその男の子に見覚えがあった。


「みつる君か。」


 全くもって有り得ない話だが、廊下の一番奥に佇んでいるその男の子は、木鈴が昔この病院で死ぬところを見た男の子であった。木鈴が訳あって冬のプールで感電して重傷を負った際に、たまたま病院の中庭で仲良くなった男の子であった。


「君、まさか幽霊だと言うんじゃ無いだろうな。もう間に合っているぞ。」


 木鈴はその男の子に、大きな声で呼び掛けた。すると、その声を聞いた看護師数人がナースステーションから顔を出し、木鈴を非難がましい目で見やった。だが看護師は皆、みつる君の方には無反応であった。


 看護師が何やら小言を言うのを無視して、木鈴はその男の子だけに焦点を当てていた。男の子は俗に表現される幽霊の様に半透明ではない上に、時間が経ってもなかなか消える気配がない。確かに一人の人間として、堂々と存在している様に見えるのであった。


 だが、やはりこの男の子は、看護師達には見えていない様であった。


「アンタ、気味の悪い独り言は止めなさいよ。ここ病院よ。そんな冗談笑えないわ。」


 その時、男の子が動いた。木鈴から逃げるように、走って廊下の角を曲がって行ってしまったのである。木鈴は男の子の履いているスリッパが廊下を蹴ってパタパタと鳴るのを確かに聞いた。


「ほら、今聞こえたでしょう。あの子が走って行ったんです。」


 思わず木鈴がナースステーションに首を突っ込んでそう言うと、看護師達は一斉に口を開いた。神妙な空気を一蹴りして、辺りがわっと騒がしくなった。


「いい加減にしなさいな木鈴先生。確かに音は聞こえましたけどね。誰一人そこには居なかったじゃありませんか。」

「あら、幽霊の話かしら。今更珍しくもないわよ。」

「この書類にサインお願いします。」

「触らぬ幽霊に祟り無しですよ。まあ、俺は居ないと思いますけど。」

「でも案外出るって噂よ、どこの病院もそういうもんだけど。」

「携帯電話の番号も書いて下さい。」

「おやおや、木鈴先生、数ヶ月ぶりじゃないですか。今回は取り分け変な挨拶でしたから気が付きませんでしたよ。二度と来ないで下さい。」


 木鈴は押されるがままになってペンを握らされ、気が付けば病床利用に関するフォームにサイン等を書かされていた。だが心の中ではずっとみつる君の事が気になっていた為か、携帯番号を書く欄には研究室の電話番号を書いていた。看護師はこれに気が付かなかったが、これによる弊害は特に無かった。


「この病院には幽霊が出るんですか?」


 木鈴はペンを置きながら、幽霊の存在に対し肯定的な見解を持つ看護師にそう尋ねた。だが答えたのは別の看護師達であった。


「噂ですよ。ただの噂。」

「というか、病院に幽霊の噂があるのって、当たり前じゃないですか。」

「皆一度は考えますもんね。」

「幽霊が居るのは確認できるかもしれないですけど、幽霊が居ないっていうのは証明できませんからね。」

「皆が幽霊は居るって思い込んでいるから、色んな現象が幽霊の仕業だって事にされているだけなんですよ。」

「そうかもね。」

「でもまぁ、ネタは尽きないのよね。毎年不可解な現象は起こるし。」


 看護師達は、幽霊居る居ない論争に白熱し始めた。幽霊は居るというか否定できない派の方が明らかに優勢になったのだが、幽霊居ない派の看護師も頑張って反論を続けている。一方で木鈴は、論争どころではなかった。廊下の奥にある角の所に、明らかに「居る」のである。木鈴はみつる君とバッチリ目が合っていたのだ。


 みつる君は、あの日に木鈴が見たのと同じ格好であった。ただ一つ違うのは、みつる君が鼻チューブを付けていないという点であった。それから今になって木鈴は気が付いたのだが、先程のみつる君は明らかに全力疾走であった。これは、生前のみつる君には出来なかった事である。


 木鈴はその男の子が、実はみつる君の双子か何かである可能性も考えた。だがさりげなく一人の看護師に廊下の奥を見て貰った所、誰も居ないという答えが返ってきてしまった。これで、あの男の子はみつる君であり、幽霊は存在する、という事が確認されてしまった。しかしながら幽霊の存在が確固たる事実であったとしても、それが万人に理解されなければ社会的に正しいとは言えない。現代においてこの世の真理とは、万人が確証を持って信じられる事柄によって構成されるのだ。


 人間は事実のうち、自身で理解しているものや、納得しているものしか認めていない。そしてこれが万人に共有されると常識になる。昔は幽霊だとか魔法だとか非科学的なものも常識に存在していたかもしれないが、現代は科学の発展により有耶無耶にされている。それ故、それら常識にもグレードがあるのであった。


 「人間は肺を使って呼吸をする」というように、ちゃんとした論文で何度も証明されていて、この世の大人の大多数が理解している事柄はグレードが高い。一方で、「もしかしたら幽霊は居るかもしれない」と言うのは、もしかしたらという言葉がくっついている時点でかなり弱い。誰しもが一度は考える事柄であるが、「そうだね」「そうかもね」という感想が無いときも多い。これは、噂やフィクションの種にしかならない。


 ここで学者という人間は、常識を新たに発掘したり、磨き上げてグレードを上げる仕事をしたりしている。もし幽霊を見てしまったのであれば、世界中の人間に幽霊を証明してみせて、「もしかしたら」の部分を削り取ってやらないと、おちおち夜も眠っていられないのである。


 木鈴は騒がしいナースステーションを後にして、みつる君に近づいて行った。一先ずは、その幽霊の実態を調査しなければならないのである。


 みつる君は、角からひょっこり顔を出して木鈴の事を見上げていた。だがその幼い顔はどこか強ばっている様でもあった。


 手を伸せば触れられる距離までやって来て木鈴は、屈み込むでもなくみつる君を見下ろした。そして腕を組んで壁に寄りかかると、眉を潜めて静かに言った。


「みつる君、随分と元気そうじゃないか。よかったな。」


 すると、みつる君の顔がみるみるうちに柔らかくなって、遂には明るく輝いた笑顔に変わった。前歯の欠けた歯並びを剥き出しにして、頬にはえくぼが二つできている。それを見ると木鈴もようやく眉を緩めて微笑を浮かべた。


「木鈴はまた死にかけたんだって?よくやるよな。」

「あ、お前喋れるんだ。」


 木鈴はこの時まで公衆電話での出来事をすっかり忘れていた。今ではあの細身の男性がちゃんと幽霊であったとも思える。だがどちらにせよ、木鈴は幽霊と喋るのには慣れない気がしていた。


「喋れるよそりゃ。今までも沢山喋ったじゃんか。」

「まぁ、そうだろうけどな。」


 幽霊に死んでいる事を指摘したらどうなるのか、それは木鈴の気になるところであったが、相手が友人の子供となってしまえば迂闊には試せずにいた。自身が死んでいることに気が付いた途端に消えて無くなるシステムとかであったら大変勿体ない事である。木鈴は次に何と声を掛けるべきか迷っていた。


 すると、先にみつる君が口を開いた。

「それでさ、早速本題に入りたいんだけど。」


 みつる君は胸を張って、年頃に偉そうな顔をしてそう言った。場を仕切りたがる子供特有のアレである。木鈴は幽霊が自分に要件があることに驚きであったが、話の腰を折らずに黙っていた。


「もう一回死にかけてくれないかな。」


 聞き間違いかと思った木鈴であったが、親切にもみつる君は親指で首を切るジェスチャーをしてくれていた。木鈴は返答に困った。だが、死にかける事自体に問題があるのではなかった。


「なんだそんな事か。言われずとも一ヶ月以内にはもう一度病院の世話にはなるだろうよ。」

「それじゃ駄目なんだよ。今ここで死にかけてもらわないと。」

「今、ここで⁉」


 思わず少しばかり大きな声を上げてしまった木鈴であったが、幸い、周りにこの会話(独り言)を聞いている人は居なかった。ナースステーションは未だ議論を続けていたのだ。暇な職場ではないのだが、幽霊を信じない人が夜勤をするべきであるという話になってしまって、来月のシフトが掛けられてしまったのだ。


「なぜ今ここでなんだ?」


 木鈴は一先ず理由を聞いてみる事にした。場合によっては木鈴が死にかけなければならない理由があるかもしれないのである。人が急に病院内で死にかけなければならない正当な理由が。


「お姉さんがね、なんかそうして欲しいんだって言ってた。」

「お姉さん?君の姉か?」

「違うよ。死んだ後に知り合った人。」


 どうやらみつる君は自分自身が死んでいることを既に知っていた様である。だがそれより話題はお姉さんだ。木鈴は勿論心当たりがあった。


「それって、黒い三角巾を被った三つ編みお下げの巨大な女か?」

「巨大じゃないけど、三角巾を被って三つ編みお下げではあるよ。」

 ビンゴであった。木鈴は内心でガッツポーズをした。

「お姉さんは何でも出来るんだ。大きくなることくらいワケないよ。」


 こうしちゃ居られないと、木鈴は反射的に周りを見渡して、良い感じに頭を打ち付けられそうな柱を探した。しかしながら、いざ死にかけようとしても故意にやるのは難しい。木鈴は常に情緒不安定だが、自傷行為は痛いのでやらないタイプだ。それから木鈴は段々冷静になっていって、常識的に子供に諭されて自殺行為をするのは不味いという結論に至った。しかし木鈴がそう困っていると、みつる君が声を上げた。


「あのね、いい方法があるんだって。」


 すると、みつる君はポケット中から一枚の紙を取りだした。所々皺が寄っていてガサガサしているが、その紙はぼんやりと光っている様でもあった。あの世ではそんな紙が使われているのかと木鈴は考えたが、では何故光っているのか、光っている必要はあるのかと疑問であった。だが今は勿論それどころではない。


「二階の二○五号室の窓から飛び降りればいいんだって!」


 無邪気とも取れる声でみつる君はそう言った。


「おい、みつる君。一度死んで死生観がイカれちまったのかい。僕が言うのも何だが、そう命は危険に晒しても良いものじゃないんだぞ。」

「木鈴は死なないよ。お姉さんとの約束だもんね!お姉さんは凄いんだ。」


 みつる君は命を粗末に扱うような子ではないが、どうやらお姉さんと呼ぶ人の事を相当信用しきっている様であった。だが一方で、木鈴はその女に不信感を募らせ始めていた。二○五号室とは、みつる君が元居た病室なのである。悪趣味にも程があるだろうと、木鈴は言いたかった。


 木鈴は膝を着いて、みつる君と目線を合わせた。


「冷静になりなさい、みつる君。死なないにしろ、重傷を負わせようとするのはいけないことだ。多分、犯罪だ。そのお姉さんとやらがどれだけ凄い人かは分からないが、みつる君を共犯にさせようとしている時点で、大分おかしな人だ。」

「お姉さんはそんな人じゃないよ!」


 顔をカッと赤くさせて、みつる君はすぐに否定した。木鈴にはそれがとても大きな声に聞こえて廊下に反響した様な気もしたが、遠くの方で誰かのお見舞いに来ている人達は無反応であった。


 その後も、みつる君は口をもごもごさせて、「だって」と「でも」を繰り返した。そしてその声は次第に木鈴にも聞こえなくなり、最後には泣き出してしまった。空気を割るかの様な泣き声が響いているが、勿論これも木鈴にしか聞こえていない。穏やかな会話をする老夫婦が、木鈴達のすぐ側をよろよろと通り過ぎて行った。


 正直、今の木鈴はとても困っていた。泣く子供をあやさなければいけない状況というのは今回が初めてなのだ。同級生に既に結婚して子供を持つ奴も居たが、そういう奴らは危機管理がしっかりしているので子供を木鈴に会わせたがらない。木鈴自身は未婚であったし、兄もまた仕事に忙しいのであった。


「そう泣くな。みつる君。泣いているって事は、お姉さんが擁護出来なくて困っているんだろう。君は、本当は分かっていたんだ。でも君にとってお姉さんは大切な人だから期待に応えてあげたいんだな?そうだろう?」


 すると、みつる君はしゃくり上げながら、木鈴の言葉に大きく頷いた。木鈴は一安心であった。木鈴は子供時代に叱られて泣きじゃくった日々を思い返しながら、これ程子供心を分かってくれる大人がいたか、いや、いなかったと、己を盛大に褒め称えた。


 次に木鈴は、そろそろ膝が痛くなってきたので立った。慣れないことは長いことするべきでは無いのである。


「実を言うとな。僕もそのお姉さんに会った事があるんだ。さっき死にかけたときにね。」


 みつる君は、これにも頷いて言った。

「知ってる。お姉さんが言ってたから。」


 木鈴はずっと不思議に思っていたことを、ようやく尋ねられた。

「そのお姉さんは一体何故、僕に死にかけて欲しいと言うんだい?さては、もう一度会いたいって話じゃないだろうな。」


 ずるずる鼻水を啜りながら、みつる君は不器用に目を擦っている。顔に鼻水を塗りたくっている様でもあった。


「何かね。大人同士の話だから、難しい話だから無理だって。言ってた。」

「じゃあ、そのお姉さんは僕に直接会って、それで何か難しい話をしたいわけだ。君に伝言を任せられないような大切な話なんだな?」

 再び、みつる君は大きく頷いた。

「あのね。お姉さん、今すごく大変そうなんだ。ずっと切羽詰まっている様な感じ。」


 死にかけたら会える人、恐らくはこの世ではないどこかにいるあの女は、何やら緊急事態に直面している様である。木鈴は勿論これに大変興味そそられたのだが、その為に今すぐ飛び降りろと言われても、いまいち踏ん切りが付かなかった。


「少し考えさせてくれ。今すぐ死にかけるのは無理だけど、この件に関しては僕も出来るだけの事はするさ。面白そうだ。」


 面白そうだ、と言ってしまってから、失言だったかと木鈴は気を揉んだが、杞憂であった。みつる君はようやく少し笑ってから何度も頷くとこう言った。


「分かった。木鈴なら、そう言うと思った。」


 その後、我ながら良い友を持ったと思いながら、木鈴はみつる君の側を後にした。

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