第3話 廉価鉛筆一本三十円ラメ付き
この大学の七不思議は、最近出来たばかりのものである。そしてこのうち四つは半年前に生徒Aが一人で作って勝手に流した噂であり、他の三つを集団によって作り出させる為の餌であった。
生徒Aは大学の七不思議を人工的に創り上げ、その変動を記録し卒業研究として発表してしまおうと考えていたのである。生徒Aの研究を今まで監修してきた教授は、木鈴と仲が良いとは言えなかったので、木鈴はこの研究の事を何一つ知らなかった。そして今現在その教授はモーリシャスで結婚式を挙げているところであるのだが、木鈴は勿論その事も知らないでいた。
木鈴はその生徒Aに、自身が出会った七不思議の内容を、渋々言って聞かせた。今は准教授室に、生徒Aが忙しなくメモを取る音が響いている。その音は嫌に人の耳に残る音であったが、それは生徒Aが持っている鉛筆がコヌトコで買った有り得ない硬度のカラフル鉛筆であったからだ。おまけに鉛筆の先にはピンク色の花のチャームが付いていて、文字が書き上がる度にチャラチャラと打ち鳴っていた。
木鈴が人のことを言えた義理では無いが、木鈴はこの生徒Aの事を、かなり理解し難い人間だと思っている。この研究室に第一志望で配属されるのはサボりたがり大学生の中で何ら珍しいことでは無い。しかしながら、こんな学問の十二月下旬デットラインの卒業研究に、五月辺りから着手している人間というのは、かつてこの物質作用学研究室に一人として居なかったのだ。他大学の万物作用学研究室出身の木鈴ですら、卒業研究に着手したのは十月中旬であったのに、である。
木鈴は長い間物質作用学に携わる内に、この分野に熱心な人間は、総じて碌な人間では無いと気が付いていた。そして、自分自身も日に日に人間としての真っ当さを失いつつあるというのも、実は薄らと理解していた。
「で、君はもう全ての七不思議を調査し終えたのかい?」
「ええ、まあ、ざっくりとですけど。」
木鈴にしては親切にインタビューに答え終わった彼は、もう既に寝袋を着た状態で直立しながらそう尋ねた。生徒Aはそのシュールな光景を見るも全く動じずにいる。
「君が誘き寄せた七不思議というのは確か三つあったそうだが、それは一体どんな不思議なんだい?」
「まず、先程木鈴先生が見たという、地獄からの公衆電話です。次に、シャワー室で毎朝泣き声が聞こえるというもの。あとは、天国アナウンサーとかですね。」
「……天国アナウンサー?七不思議らしくないネーミングじゃないか?」
「そんな事無いと思いますけど?」
「そうか?」
「……じゃあ、さより様にしましょう。」
すると生徒Aはポケットから再びメモを取り出し、キリキリ音を立てながら天国アナウンサーの文字に二重線を引いた。そしてその上に大きく「さより様」と書くと、満足そうな顔をしてそれを眺めた。
「さより様は、学生会館二階に設置されているテレビに時々映る謎の人物なんです。まあでも普段二階は閉鎖されていますし、誰かが適当に作った噂の可能性は高いんですけどね。この前一週間くらいテレビの前に座って待機していたんですけど、さより様は現れませんでした。」
「ちょっと待ってくれ、君は、七不思議の伝播を社会心理学的なアプローチで研究しているんじゃなかったのか?」
ここで木鈴が生徒Aの話を遮ったのは、木鈴が未だに僅かな希望を抱えていたからであった。もし生徒Aの研究内容が噂の真相そのものでは無く集団内の情報伝播に焦点を当てているのであれば、木鈴が馬鹿げた七不思議の正体を調査して論文に纏めても内容が被らないので問題が無いのである。
「そうですよ。なので、論文には噂の発生源として考えられる要因を簡単に列挙するだけです。噂の真相を深く掘り下げようとはしていません。ただ……」
「ただ?」
「分かったら面白そうじゃないですか?」
それは、ただの好奇心であった。木鈴は生徒Aの無垢な眼差しに、若さ故の眩しさを感じて思わず目を細めてしまった。昔の自分を見ている様で気恥ずかしさすら湧き出てきた木鈴は、無意識にも寝袋のジッパーを上げて外の世界を閉ざそうとしていた。しかしその木鈴の腕を、生徒Aが止めていた。
「まあ待って下さいよ木鈴先生。」
不機嫌な様子を隠さない木鈴の顔が、寝袋の小さな穴の中から覗いている。生徒Aはその穴に向って一つウィンクをした。
「私これからは卒論作成に本腰を入れないと不味いので、噂の本格的な真相調査は出来ないんです。なので、この部分は木鈴先生にお譲りします。」
「は?」
「そろそろ木鈴先生も論文書かないと大変なんですよね?」
「え⁉」
「もうシャワー室で迷子にならないでくださいよ。」
そう言ってしまうと、生徒Aは足早に准教授室を立ち去ってしまった。後には、明太子みたく寝袋に包まれたまま棒立ちになっている木鈴が残されたのみであった。そして呆気に取られた木鈴はゆっくり椅子に座り込んだ後、ふとした拍子に寝袋から飛び出してジャケットとジレを掴んだ。
そこからの木鈴の行動は早かった。身支度を十九秒で整えてしまうと、財布もスマホも持たずに准教授室を出て行ったのである。そしてすれ違った三竹には見向きもせず、そのまま学生会館まで走って向ったのであった。背後では、ぽかんと口を開けた三竹がその後ろ姿を見送っていた。
木鈴の准教授室がある第四号棟から学生会館までは、成人男性の全力疾走平均速度では約二分で到着する。だがこの時、木鈴は不眠のせいもあってか、二分三十二秒五六の時間を消費した。しかしながら木鈴は走行時、あまりにも調子が上がり過ぎて自身が風になった錯覚さえ起したのであった。この時木鈴は、久々に有り得ないくらい興奮していたのである。
木鈴が抱えている感情が喜びか怒りか羞恥かなのかは、本人も良く分かってない。プライドが傷ついているのか、そもそもそんなものあったかどうかすら、よく思い出せないのである。だが一つ確かなこととして、木鈴の好奇心はここ数年で一番輝きを放っていた。そして、馬鹿馬鹿しい事が大好きで学者の道を選んだ木鈴は、滑稽な自分が特別素敵に感じられたのであった。
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