第2話 七不思議の大半はコイツ
この大学は対象年齢に見合わず学校の七不思議が存在するが、そのうち四つの正体は木鈴であるとも言われている。特に朝九時の断末魔だが、これはどう考えても明らかに木鈴である。三十年前に研究に追い詰められた学院生がライバルを刺し殺しただとかそんな尾ひれが付いているが、逆にどうしてそんな話が引っ付いているのかという方が謎である。
他の不思議も、踊り場の殺人鬼だとか第六倉庫のミイラだとか暴走車椅子だとか、全て木鈴であった。木鈴は実験のせいで血まみれになったり、怪我をして包帯まみれになったり、大学構内の森の野生イノシシと決闘して両足を骨折したりしているのだ。
イノシシは出るが、この大学は由緒正しきまともな私立大学である。この野生イノシシは未だ大学校内で問題になっているが、ここまで負傷したのは木鈴だけである。正面から立ち向かったのが木鈴だけであるからだ。この大学は木鈴だけが異常なのであって、他のおおよそ全ては特色ゼロなのであった。そして勿論七不思議はただの子供のお遊びでしかない。
加えて第五の不思議であるシャワー室の迷子だが、これも実は正体は木鈴であって、シャワーを浴びながら自己肯定感が下がりに下がって終いには泣き始める木鈴の悪癖が、大学中に広まっているのであった。
今日も今日とて嗚咽を漏らしつつ木鈴は、ぐるぐると自身の情けなさや、周囲の期待に応えられない申し訳なさに苛まれ、シャワー室の壁にもたれ掛かったまま暫く動かなかった。シャワー室では裸眼である為、木鈴はぼんやりとした視界と思考の中でずっと物思いに耽っていた。妄想の中で、自身と世界とその他諸々の物質が繰り返して爆発しているのを、想像の中で見ていたのであった。そこではフラスコが宙を舞い、ご機嫌なショウジョウバエが地球を囓り、家が燃えて最終的に学園長の革靴が全てを踏み潰していくのであった。そして次の瞬間にはもう、木鈴はその全てを忘れていた。
しかしながら人間いつまでもそうしていると次第に自己嫌悪にも飽きてきて、一時間もすれば無意識的にシャワー室から脱出しているものである。
木鈴は首を激しく左右に振り耳に入った水を追い出すと、乾燥機で極上の手触りに仕上げてあるタオルを顔に押し当てて、そのまま全身を荒く擦りあげた。そしてのろのろと服を着ている内に、調子が徐々に良くなっていった。廊下に躍り出る頃には、「全人類はほとほと大馬鹿であるので自身はその先頭で旗を振ってやろうじゃないか」と考えるほど、気が大きくなっていた。胸を張り上げ大股で廊下を練り歩く様は、数刻前の泣きっ面を微塵も感じさせないほど明るい自信に満ちあふれていた。
きっと大丈夫。シャワーを浴びたから身体も清潔になったし、思考も冴え始めている。忌々しいイノシシは学園長に駆除を依頼してある。論文はきっと書ける。だから何も心配することは無い。と、木鈴はそう自分に言い聞かせていた。
こうして木鈴はいつものモーニングルーティーンを終え、軽く五時間ほど仮眠をしてしまおうと准教授室に向い始めていた。五時間睡眠は仮眠なのである。それに、幸い本日は木鈴の受け持つ授業は無く、採点しなければならない生徒のレポートは既に全て紙飛行機にして飛距離順に成績を付けてあるのだ。木鈴は健康のために一度現実から目を背け、夢の中でファンタジックな実験でもしてしまおうと考えていた。
しかしながら木鈴が准教授室に到着する前に、彼の目を奪うものがあった。それは廊下の端っこにある、ここ数年は仕事を全くこなしていない公衆電話であった。くすんだ緑色の機体側面は不良学生の落書きやらステッカーで埋め尽くされていて、この学校の風紀を外部の人間に分かり易く表示してくれている。ただ木鈴の目に止まったのは正確に言えばその公衆電話ではなく、それに覆い被さっている中年男性であった。
中年男性は随分と細身で、眼球はぎらぎらと鋭い。そんな男性の二つ目が、意気揚々と歩く木鈴をじっと見つめていたのであった。
普通そんな不審者に見られているのに気が付くと、人はたちまち恐怖してその場をすぐに立ち去ってしまうだろう。だが木鈴は今この瞬間とても機嫌が良かった。機嫌が良いという事は心に随分と余裕があるという事と同義で、つまりは知らない人から勝手にじろじろと観察されるのを、許せるだけの寛大な器があったのである。そして木鈴はその男性に親しげに手を振ると、旧友に会ったかのような調子で声を掛けたのであった。
「やあ、こんにちは。こんな所で何を?」
不審者は、声を掛けられたことに些か驚いている様子であった。だがしかし、不審者は取り繕う様にして言った。
「……忠告ですよ。貴方に、忠告をしようとしているんです。」
「へえ!それは嬉しいですね。それでその忠告というのは?」
「……」
「……」
「学園長を、」
「学園長を?」
「学園長をあまり怒らせないようになさい。」
その忠告を聞くと、木鈴は途端にがっかりした。そんなこと言われない日は無いのである。ありきたりで何の特異性も無い忠告は誰にだって言える事で、面白みに欠けるのであった。相手が不審者であったこともあり、これは酷く期待外れな事であったのだ。
木鈴は途端に回れ右をすると、そそくさとその場を去って行った。
多少気分を汚された心地になって木鈴は、長い廊下の先にある愛しの准教授室まで早足になっていた。今すぐに眠ってしまって、明晰夢有段者の実力を発揮してしまわないと、この苛立ちから解放されない状況であるのであった。
しかしながらこの十数メートルの間にも、まだ木鈴を阻む要因があった。それは凝縮系物理研究室に所属する勤勉な学生で、木鈴がこの大学で学園長の次くらいに苦手とする人間であった。
その学生は、木鈴とは年齢・階級なども大きく異なるのだが、二人は互いに互いの事を下に見ており、それを隠そうとする努力をしていないのである。名は三竹(みたけ)だ。だが今回三竹が木鈴を呼び止めたのは、木鈴に嫌味を言うためではなかった。
「ちょっと、木鈴先生。」
「なんだい三竹光輝君。僕は今日既に大事な予定が入ってしまったんだ。君の高飛車な自己顕示に構っている暇は無いぞ。」
「いや、そうじゃなくてですね木鈴先生。貴方さっきそこの公衆電話の前で、一体誰と喋っていたんです?」
木鈴は三竹の意図が掴めず、取り敢えず後ろを振り返り公衆電話を見やったが、そこに先程の男性の姿は無かった。そしてそのまま首を傾げて木鈴は三竹を見下ろすと、下手な笑みを浮かべて言った。
「君は見ていなかったかも知れないがね、さっきまでそこには細身の男性が公衆電話に寄りかかって出鱈目な事を言っていたから、僕が厳しく注意をしていたんだ。僕には一応教育者としての立場があるからね。でも僕は教師になりたくて此処にいるんじゃないから君達には感謝して貰いたいくらいだよ。」
「僕、見ていましたよ。木鈴先生が一人で喋っているの。」
少しの間静寂が流れた。そしてそれを破ったのは、木鈴の爆笑であった。
「君!何を言っているんだい?それじゃぁまるで僕がお化けとでも対峙していたみたいじゃないか。大人を馬鹿にするのも大概にしなさい。」
「ですが、あの、本当に貴方は一人だったんですよ!細身の男性なんていませんでした!」
「ああ、そうか君は疲れているんだ早く寝なさい。睡眠は正常な判断をするのに必要不可欠だからね。それじゃあさようなら。よい夢を。」
早口にそう言い切ると、木鈴は准教授室まで走って行った。そして激しくドアを開くとその二倍の速さでドアを閉じ、早急に鍵を掛けてしまった。ドアの軋む激しい音が建物全体に響く。ここの建物は全体的に五十年以上もの年季が入っているのだ。そして准教授室に隣接する研究室本部との扉に鍵は付いていなかった。その為に、今度は別の生徒が准教授室に入ってきてしまった。
その生徒は、この物質作用学研究室所属の無作法な生徒であった。
「話は聞かせて貰いましたよ。木鈴先生。」
木鈴は同じ所属であるその生徒の名前すら覚えていないのであったが、その生徒は物質作用学研究室で唯一大学に通学してくる生徒であった。研究室に居るといっても何か熱心に卒業研究に取りかかっている訳では無いのだが、研究室に一度も顔を出してこない他の学生に比べれば随分と優秀なものである。
だが一つ残念なことに、この生徒Aは俗に言う問題児なのであった。授業課題で提出してきたレポートが全て、碌な参考文献の無いオカルト文なのである。一応学部は理系であるのに、である。特に幽霊やゴーストを題材にしたレポートが多かった。
そんな生徒Aは無遠慮に准教授室に入ると、至極面倒臭そうな顔をしている木鈴に詰め寄った。
「見たんですよね。公衆電話の幽霊。」
「幽霊と言ったって君、仮にも科学者側の人間なんだから、そう非科学的なものは疑わないと駄目じゃ無いか。」
「この学校の七不思議、知っていますか?」
「この大学にはそんなものまであるのか?」
「七不思議の一つに、地獄からの公衆電話っていうのがあるんです。何でも昔その公衆電話の前にて心臓発作で死んでしまった人が居るらしくて。」
「馬鹿馬鹿しいな。」
「言うと思いましたよ。」
生徒Aは続ける。
「噂では、公衆電話の受話器が勝手に外れたときに、その受話器に耳を当てると、何か呻き声が聞こえるんだそうです。助けてくれ、だとか。苦しい、だとか。」
「へぇ、そうかいそうかい。」
生徒Aは木鈴の本棚から一冊本を勝手に取り出してパラパラ捲ったり、ペン立てのペンを一本一本取り出したりなんかして、とにかく忙しなかった。木鈴は今すぐにでも生徒Aをつまみ出したかったのだが、研究室准教授らしい対応でそれをぐっと堪えていた。
「君は信じるのかい?」
「幽霊ですか?信じていますよ。」
あっけからんと言う生徒Aに木鈴は少しばかり驚いた。何の証拠も無い非科学的なものをどうしてそこまで過信できるんだ⁉と言う驚きである。
そして生徒Aはポケットから二本のL字金属棒を取り出した。俗に言うロッド・ダウジングである。生徒Aはそれを慣れた手つきで構えると、ダウジングを利用した具体的な幽霊探知方法について語り出した。
「本当に馬鹿馬鹿しいぞ。」
「でも公衆電話の所で人が死んでいるのは本当らしいんですよね。」
「どこが情報源なんだ?」
「まあ、色々ですよ。確実ではありますので安心して下さい。」
その時、木鈴の脳にあるひらめきが起こった。「馬鹿馬鹿しい」これこそが今木鈴が求めていたものなのである。それに本当に人が死んでいるとなれば、インパクトは間違いなしだ。噂による幻覚・幻聴の誘発について~木鈴准教授の曰く付き論文~これすら書き上げてしまえば、あとまた四年くらいは論文を出さずとも大丈夫であろうと、木鈴はそう考えたのである。
しかしながら、木鈴の希望は一瞬で打ち砕かれた。
「実は私、今年の五月あたりから卒業研究で七不思議の調査をしていましてね、七不思議の目撃者として、木鈴先生からも是非御意見頂きたいんですよ。」
つまりこのタイトルは抜け駆け禁止、という訳なのである。
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