第1話 学術の名を被った奇行
紅葉は去り散り、すべすべな肌も荒れ始め、身を刺す寒さが風に乗って襲来する今日この頃である。木鈴という男は律儀に大学の准教授として机に座していた。というのも、昨晩の九時辺りから現在の朝九時までその状態であった。しかしながら目の前で白い光を煌々と放つパソコンは、木鈴の論文が何一つとして進展していない事を明確に示している。
どうしてそんな状況になっているかと言えば、それは木鈴の専門分野に問題があった。木鈴の専門は物質作用学という、一握りの専門家以外誰も正確な定義を理解していない、更に言えば学術として認知されているかも分からない分野なのである。そんな曖昧な定義に押し込まれて木鈴は、次の論文に書けそうな研究を思いつかないままに三年の時を過ごしているのであった。
この物質作用学は壮大な名前をしているが、実際はそう大層な事はしていない。世紀の発明に繋がりそうな科学の不思議を発掘し、世に知らしめるだけなのである。
例えば、抗生物質ペニシリンは、偶々カビが培養中のブドウ球菌に混入したことで発見された。この時、カビの周囲にはブドウ球菌が繁殖しないという不思議な現象が起こっていたのだが、これはカビがペニシリンという抗生物質でブドウ球菌を牽制していたという訳なのである。
つまりは、ある日突然起こった不思議な現象から、世の中をひっくり返すくらいの大発見が生まれたのだ。そこで物質作用学は、この不思議な現象だけを追い求め、後のことは全て他の専門家に丸投げするといったスタンスを取っている。従って、何かが起こりそうなことを片っ端からやり上げて、常識的な仮説から大きく外れた結果のみを報告していくという、学術の名を被った奇行を繰り返しているのであった。
しかしながら、そう都合良く非現実的な事象は起こらないのが常である。木鈴はよく言えばスランプ、悪く言えば頭打ちの状態にあった。学生時代に何冊ものネタ帳に書き留めていたあれこれは全て試し尽くしてしまった上に、触ったことの無い素材は身近にほとんど無く、卵はもう見たくない位に食べたり投げたりしている。ソナー(水中音波測定器)を海洋の真ん中に落として船上で一ヶ月過ごしたり、密林で新種の虫を探したりなど、発想に困った物質作用学者あるあるも既に経験済みであるのであった。
「物質作用学者は無鉄砲に好きなことばかりしている阿呆の集団である」とはよく言われていることで、実際木鈴も学生時代まではそう思っていた。だが、准教授になってしまえばそれが名ばかりであっても学者相応の立場とういものを求められてしまう。木鈴はオーダーメイドのクラッシックスーツに黒縁の眼鏡を掛け、形だけでも利口な文明人に寄せているのだが、それだけで社会的地位が保証されるのであれば誰も苦労しない。木鈴は今すぐにでも、そして待ててあと一年くらいまでには新しい論文を世に発表しないと不味い状況にあるのであった。ただでさえ肩身の狭い学問分野であるというのに、学園長からの圧が日に日に大きくなっているのであった。そしてむしろ立派な教授というのは何年前に買ったかも分からない皺寄りのシャツを着ている。
これで何度目かも分からないが、手つかずのままのパソコンが痺れを切らして明るさを一段階落とした。そしてあと二秒でスリープしてしまうぞという時になって、のっそりと伸された腕のエンターキーがそれを阻んだ。パソコンには何も無い行がまた一つ増えた。木鈴はこれを一晩中ずっと繰り返していたのであった。
時刻は、朝の九時七分丁度である。木鈴の体内時計は常に正確で、今日も相変わらずこの時刻で限界がやって来た。十二時間何もせずにいられることも才能の一つであると思われるが、木鈴の体内時計も集中力も、褒めようとする人間は誰も居ない。なぜなら木鈴はこの大学で、毎朝一限の始めに窓から叫び出すチャイムとして扱われており、真っ当な人間としては見なされていないのである。
木鈴は慣れた日課のように准教授室の小さな窓を開けると、そこから見える樹齢百年の広葉樹に向って大きく叫び声を上げた。
「ギャァアーーーーーー!」
すると偶々そこにいたカラスが木鈴に向って突進してきたので、木鈴は素速く窓を閉めてその場を後にした。このカラスは先週木鈴が羽を何本か毟り取って代わりに鷹の羽を植え付けた個体である。
ギャアギャアと鳴くカラスを横目にして木鈴はポケットからメモ帳を取り出すと「飛行可能・飛行能力正常・普通!」とだけ書いてその研究をすっぱり止めにしてしまった。入れ替える羽の位置や種を変えて何度か実験すればいいデータが得られるのかも知れないのだが、厄介なことに物質作用学は奇天烈集団の享楽のような面がある為、そう言った地道な実験をするなら五年以上の歳月を費やして気狂い様をアピールしなければ同族からの支持は得られないのである。残念ながら木鈴にもうそんな時間は残されていない。木鈴は今すぐにでも世界をあっと言わせられるような、そんな不思議な大発見を求めているのであった。
勿論そんな願いは簡単に叶わない。木鈴はフケの舞う頭を掻いてネクタイとジャケットとジレを脱ぐと、物置としても活用している本棚からタオルと下着類を取り出し、ふらふらとした足取りで大学のシャワー室へと向かって行った。
木鈴の後ろ姿を何人かの学生が特に気に留めるでもなく見送ったが、物好きな一人が「シャワー室で眠っちゃ駄目ですからね!」と叫んだ。木鈴はそれに軽く手を挙げるだけに留め、一言も発さずに廊下を歩いて行った。声が枯れているのであった。
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