第4話 バァーン寄りのドーォン

 木鈴が到着した学生会館には、既に幾人かの文学部の生徒達が屯していた。学生会館は古い歴史を持つ建物であり、暖房も灯油ストーブくらいしか設置されていないのだが、どの講義棟からも丁度良い位置にあって常に多くの生徒が自習やサークル活動に利用しているのである。


 だが木鈴は生徒を全て無視して、二階へと続く階段への南京錠を解きにかかった。

階段の前には芸術的な壺や掛け軸を飾るスペースがあり、そこに入る為の開き扉が付けられている。だがそのドアノブにはダイヤル式南京錠が、鎖と共に括り付けられていたのであった。木鈴は勿論鍵を持っていないし、暗証番号を知っている訳でも無い。しかしながら木鈴はダイヤルを回す際の音を細かく聞き取って、正解の番号を当ててしまった。番号はたったの四桁であったので、解錠にかかった時間は約二分であった。


 ダイヤル式南京錠に耳を当てて何やら怪しげな作業をしている木鈴の姿は、勿論、学生会館内にいる生徒全員がじっと見守っていた。だが木鈴の登場から解錠までの運びは非常に素速くスムーズであった為に、誰かのスマホにその映像が残ることはなかった。ただ単に、木鈴に関する変な噂の種が増えたのみであった。


 木鈴は急いで階段に向った。階段は満遍なく埃でコーティングされており、そこには幾つかの足跡がくっきり残されていた。これは明らかに生徒Aが残したものである。だが木鈴はそれにすらも気付かず、埃舞う空気の悪さも気に留めず、二段飛ばしで階段を駆け上がった。その為木鈴は気が付かなかったが、階段の最後の一段には、スライスされたトマト一切れが落ちていたのであった。


 階段を上がった先には、特にこれといって目に付くものは無かった。木鈴も初めて見たこの空間であるが、そこは仕切りのない白の部屋で、テレビはおろか椅子やテーブルといった家具まで何一つ存在していなかったのである。


 その殺風景な部屋は白い天井に白い床、そして白い壁に囲われていた。ただ唯一、その部屋の奥には窓が一つあって、そこから鬱蒼とした森林が見えていた。


 木鈴は訝しげな顔になって生徒Aの顔を思い浮かべながら、その窓に近づいていった。窓の外の木々は強風に煽られて不吉に蠢いている。


 窓に手が届く直前になって、木鈴は、はたと気が付いた。学生会館の裏にある森林は、その木々のほとんどが落葉樹林なのである。そして今の季節に、その落葉樹林達は葉っぱをめっきり落としている筈なのである。


 その時、木鈴の鼻腔に微かな土の香りが流れ込んできた。山の中に足を踏み入れた時のような香りであったが、今この状況で急にその香りが現れるのは不自然である。森林に面した窓を開いたならまだしも、木鈴はそれにまだ指一本も触れていなかったのだ。


 そして木鈴はようやく、この空間が埃一つとして存在していない、あの階段の延長線上にはそぐわない場所である事に気が付いた。そして驚いて思わず元いた方向を振り返ったが、そこに、例の階段はなかった。あったのは、遠い彼方に位置した、傷一つ付いていない白い壁のみであった。


 途端にどっと嫌な汗が流れて、木鈴はその壁に向って走り出していた。とてもこの現状が現実のものとは思えなかったが、現実であれ非現実であれ、帰り道が無くなっているのは不味いと本能がそう言っていたのである。しかし、木鈴がどれだけ走っても、その壁にはまるで手が届きそうになかった。むしろ木鈴が走れば走る程その壁との距離は伸びていくようで、遂には横の壁との区別まで付かないほどになってしまったのである。そしてあるとき木鈴の真後ろで、どさっと、一つ大きな音がした。


 のたうち回る心臓を抑えつけながら、木鈴はゆっくりと走るのを止めていった。ばたばたと動く足は不思議と疲れていた訳ではなかったが、背後の大きな音が無性に気になって仕方が無かったのである。唯一痛む肺を酷使して荒い息を吐きながら、木鈴はゆっくりと後ろを振り返った。そして、驚愕した。まだ手の届く所に、あの窓があったのである。あんなにも走ったのに、木鈴はまだ一歩も進んでいなかったのだ。


 そしてその窓との間には、一抱え分の土が落ちていたのであった。


 木鈴はぞっとして暫く硬直していた。だがまた背後で音がして、そこにまた新たな土が出現しているのを見ると、今度は飛び上がって土から離れようとした。だがどれだけ木鈴が逃げようとも、その背後には必ず土が放り込まれるのであった。木鈴は半乱狂に吠えながら、その場を走り回る他なかった。


 濃密な土の香りは、噎せ返るほどの不快感を伴っている。土は、次第に雨の如く注ぎ込まれるようになった。白であった床は遠い果てまでも茶色に塗り替えられており、積高は木鈴の膝にまで差し掛かっている。ここまでくると木鈴は、もう動く気力をすっかり失っていた。


 どうしてこんなことになってしまったのか、木鈴は積もる土を眺めながら何度も考えた。だが、一つも納得のいく理由を思いつけなかった。それ以前に、木鈴はまだこの状況に納得をしていなかった。通常、どう考えても、常識的に、こんな事態は発生し得ないのである。


 これは「馬鹿馬鹿しい」の域を脱しているのだ。生徒Aの悪戯という案も挙がっていたが、それにしては手がかかりすぎていて、というよりも人間の現在の技術では不可能である。木鈴は八方ふさがりの思考の中、膨れる恐怖心を抱えて窓の外側を眺めるしかなかった。


 窓の外側では相変わらず、広葉樹達がその深い色の緑葉を打ち付け合っている。それは轟々と音を立てている様にも見えるが、木鈴のいるこの空間には土が積もる音ばかりであった。


 これが映画やドラマの世界であれば、絶体絶命のハラハラドキドキ大見せ場であって、もうじき木鈴の背負いし重い過去だとか走馬灯が良い感じのBGMと供に展開される頃合いである。しかしながら、そんな兆候は全く訪れていない。仕方なしに木鈴は自力で、今まで出会ってきた色んな人の顔を思い出していくことにした。ついでに今までやらかしてきた数々の失態を許して貰えるように、若干の感謝も添えることにした。


 細かな土が靴の中に侵入して、ちょっとした不快感を生み出している。木鈴はこれを感じながら、まず先に自身の母親の顔を思い出していた。木鈴は子供時代に公園で一人遊びを極め、勝手に一人遊びマイスターを名乗り、クラスメイトにサッカーに誘われても丁寧にお断りの返事をして砂場遊びをしていた。思い返してみれば母親の偏頭痛が悪化したのはこれ位の頃からであった。木鈴は拳を握って天に掲げると、それら迷惑を掛けた全ての事柄に関して、母親に許しを乞いた。


 次に父親、そして兄、祖父に祖母、先週競馬場で出会った当たり馬券の人、

「普通、当たり馬券はあんなにぐしゃぐしゃに持たないと思いますけど。」

木鈴は手当たり次第に思い浮かべた顔の全てに懺悔した。覚えている人物全員にもれなく何かしらやらかしているので、これは木鈴にとっては随分と容易なことであった。


「僕という人間は随分と最低だな。反省というものが出来ればよかったのだけれど。」


 これが、木鈴が自分の人生を振り返った上での率直な感想であった。


 土はもう既に、木鈴の胴の中間まで差し掛かっている。木鈴は一歩も動くことが出来なくなっていた。今まで木鈴に出会った全ての人、つまりは木鈴のせいで大変な目にあった事のある人ならば、この光景を見るために喜んで一万円を支払うだろう。


 木鈴は思い返せるだけの記憶全てを掘り起こして、それら全てに心からの謝意を述べていった。これには何度繰り返したか分からない職務質問や、図書館のクッキーレシピ本を二十年間にわたり未返却だった事や、映画館で思わず前傾姿勢になっていた事などもちゃんと含まれていた。そして幼稚園児の頃に御神木の側で踏みつけた蟻一匹にまで南無阿弥陀仏を唱えてしまうと、もう後は手持ち無沙汰になってしまった。


 後は天国に行くだけだと木鈴は思ったが、その前に土に埋められてじわじわ窒息死しなければならないという事に気が付いて陰鬱になった。今まで迷惑垂れ流しな人生を送ってきたとは思うが、報復が大きすぎやしないかと、木鈴は異議申し立てをしたくなった。そして実行することにした。


 死ぬ間際になって、その死に関して文句がある場合、人々が怒りや嘆きを向ける先は多種多様である。だが死というどうにもならない事に関しては大抵、神が専門である。木鈴はこれで最後だと自分に言い聞かせ、信じてもいない神に強く祈った。拳は、謝意を述べていたときのまま組み直していない。だが木鈴はもう投げやりに近い形で腕を高く振り上げると、天に向って叫んだ。


「うわああああああ!」


これは木鈴が自分自身を鼓舞する為のものであって、特別何か意味があった叫びではなかった。


「助けて下さい!」


 木鈴は一語一句はっきりと大きく口を開き、腹の奥底から声を振り絞った。組まれた指は反対の手の甲を突き刺してそこから血が流れている。そして確かに助けを口にしてしまった木鈴は、堰を切った様に流れ出始めた恐怖心に押しつぶされ、声が掠れるまで助けを呼び続けるようになった。土が降り注ぐだけの中に、大の大人が泣き叫ぶ声が響き渡り始めたのである。


 叫びは、土が木鈴の首元に差し掛かるまで続いた。それが正確にどの位の時間であったか分かる者は誰も居なかった。ただその頃には木鈴はすっかり疲れ果てていて、もう窒息に備えて息を蓄える事も出来ない様子であった。しかしながら、固く組まれた指だけはそのままであった。


 土の中には小さな幼虫もいる。よくよく観察すれば所々に苔の塊なんかも混じっていて、自然の土そのものである事が分かる。木鈴のシャツを湿らせている木の葉の屑みたく、彼もきっとこの土で分解されていくのであろう。少なくとも木鈴はそう考えていた。


「これで風の終わりか。」


 先週くらいに教わった素敵でメルヘンな死生観を思い出しながら、木鈴はゆっくり目を瞑った。木鈴は死ぬと同時に、世界中の旗を翻すのを辞め、岩を削るのを辞め、ただ残りを小さな振動として世界に馴染ませようとしているのである。当たり馬券の人も流石にここまでは考えていなかったであろうが、木鈴はそんな事をイメージしていた。


「僕達は現象なんだ。最初から最後まで。」


 最後に格好いい事が言えた事を喜ぶ暇も無く、木鈴の顔に土が降りかかった。涙の跡に沿って土が顔に貼り付いていて、酷く不格好であった。だがこの哀れな男の姿を、手を叩いて笑える人間は流石に居ないだろう。少なくとも木鈴は、そんな人間の顔を思いつかなかった。木鈴は恵まれていた。だからこそ世界には感謝をしていたし、綺麗に死ねそうであった。


 しかしながら、この男が死ぬのは、まだ早かった。


 突如、バァーン寄りのドーォンといった、何かの爆発音みたいな轟音が響き渡り、その場の悲壮な雰囲気を、一気に吹き飛ばしていったのである。


 それは、真っ白な天井が、大きな丸い先の何かによって穴を開けられた音であった。その丸い先の何かというのは、俄には信じられないが、巨大な人間の指のようであった。そしてその指は、木鈴が埋まっている箇所の僅か三十センチ先の土に刺さっていた。


 木鈴が驚愕のあまり口を開いていると、さらされた舌が細かく震えるような振動が始まって、天井が徐々に剥がされていった。巨大な指が器用に天井を引っかけて、どんどん上に持ち上げていったのである。天井の破れた箇所からは、新しく優しい光が流れ込んでいた。そして、波にも似た木々のざわめきが、ざっとその場を洗い流していた。


 天井が取り除かれて露わになったのは、巨大な女の目であった。聖母ではなく、まるで神の様な目をした女であった。


 ここで木鈴はようやく、固く結んでいた指を解いた。この女の目を前にして、もう後は彼女に委ねる他ないと、そう直感したのである。


 彼女は品定めをするかのように、木鈴の顔をじっと見つめていた。そして動かない木鈴の首を突っついてやろうとしたのか、突然人差し指で軽く木鈴の顔を押し付けた。それによって、木鈴は土の中に十センチほど埋まった。


「あぁ、殺すんですね神よ。」


 木鈴は、土が貼り付いた口でそう呟いた。これは別に彼女に対して返答を求めていた訳でもなかったが、黙ってそのまま殺されてしまうというのも、せっかく一度きりの機会であるのに勿体ない気がしたのであった。


 しかしながら木鈴の意に反して、彼女はちゃんと返事をしたし、木鈴を殺したりもしなかった。彼女は器用に木鈴の腕を摘まみ上げると、収穫物よろしく木鈴を土から引っ張り上げたのであった。


「神なんて居ませんよ。少なくともこの世界にもね。」


 そして彼女はそう言ったのであった。

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