昭和デモクラシーとは何だったのか(抜粋)著・細谷真衣

 大正デモクラシーと昭和デモクラシー。どちらにもデモクラシーという名前がついていますが、その内容はかなり異なっています。


 まず前提として、大正デモクラシーは藩閥政治打破という国家権力への反発をきっかけとして始まりました。


 その後も、平塚らいてうをはじめとする女性差別解消への動きや、吉野作造の民本主義・美濃部達吉の天皇機関説など学者たちによる当時の国家構造を否定する論説の発表など、大正デモクラシーは既存の社会構造を否定するものでした。


 その為、元老や首相たちなどの時の権力者達は、融和政党政治の開始・労働者の団結権容認など弾圧治安維持法・明治憲法体制は不変などの二つの方法を時に選択し、時に利用することで日本という国家を動かしていきました。


 また、枢密院・貴族院・軍部などが国政を握りうる危険な存在であったにもかかわらず、結果として何の変革も加えられずにそのまま放置されていました。


 その為、戦前の政党政治では国民から非難を浴びる何らかの事態が発生した際、「なら政党ではなく軍部に」という選択肢を与えてしまった上に、それぞれの組織内にも議会中心主義を脅かそうとする動きを生み出してしまったのです。


 一方、昭和デモクラシーは満州特需・朝鮮特需によって日本経済が大戦景気以来の好景気に突入し、町田忠治内閣による国内改革・開発により日本という国家が変わり始めていた中で、不景気時と比べて収入が上昇傾向にあった労働者や農民が「じゃあ我々ももっと権利を得られないのか」と政府に訴えたことから始まっています。


 最終的には、地主制度の破壊につながる農地調整法なども制定されたものの、既存の社会構造の破壊までは望まないが自分たちの権利を拡大して欲しいという比較的穏当な要求が昭和デモクラシーの中核となっていました。


 何故このような違いが生じたのか、その理由は国家に対する信頼です。大正デモクラシーと呼称される期間には、大正政変・シーメンス事件・米騒動・戦後恐慌・震災恐慌・金融恐慌・山東出兵・世界恐慌・昭和恐慌など、国政と経済は大いに混迷を極め国民は政治に対する信頼を徐々に失い始めていました。


 その為、普通選挙によって選ばれた議員によって国政を動かそうとしたのです。しかし、政党は財閥と癒着し政争に明け暮れ腐敗するなど徐々に国民からの信頼を失っていきました。


 一方、満州事変後に成立した町田忠治内閣は、真の政党政治実現を掲げ既存の政党と対立し、本当に国民の為の政治を実現しようと努力しました。実際、満州特需と朝鮮特需で日本経済は復活し好景気に突入しましたし、英仏との関係改善や東アジアでの同盟構築など、外交政策も十分な成果を上げています。町田内閣が支持されるのも当然と言えるでしょう。


 次に、昭和デモクラシーによって日本が具体的にどう変化したのかについて考えてみましょう。まず…

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

戦争はただ冷酷に〜短編シリーズ〜 航空戦艦信濃 @koukuusenkann

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ