結.絶対苦戦先輩敗戦
狐木花ナイリ
Gero
久方振りに「棗」で行われている飲み会に参加する。文芸サークルの懇親の癖して、飲みサーみたいな間隔で催されているソレを、大人数の居る空間が苦手な僕は基本、敬遠していたのだが。
なんとなく顔を出そうと考えたのが次第だった。
国立玉梓大学の正門を出て、長い坂を下って、大通りに合流する。大通りを挟む小綺麗な高層ビル街を北上すれば、玉梓駅が見えてくる。それを横目に狭い路地を抜ければ、繁華街に到着した。立ち並ぶ雑居ビルの一つに埋め込まれた大衆居酒屋チェーンの名前が「棗」である。大学からここまで三十分くらいだった。
玉梓駅前店の「棗」は鼠色の粘土壁を明るい色の木組で締めただけの、なんともスタイリッシュな外観をしていた。
からんからんと爽快な音を鳴らして、店内に這入る。既に座卓の殆どは埋まっており、盛況振りが伺えた。
客の応対に来たらしい店員に、主催のサークル長の名前を出すと。彼は「そっすか、二階っすね」と一言、案内もせずに厨房に戻ってしまった。
溜息を吐いて、一度外に出る。
空は赤と藍が混じり、夜の訪れを示していた。
外壁に貼られた「右手の階段を登って御座敷へ」と書かれたポスターに則って、赤錆びた鉄骨階段を登って扉を開けて、靴を脱いで、襖に挟まれた廊下を渡る。
■
メールの履歴から部屋番号を確認して、畳張りの和室に這入った。
割と大きめな広間で、奥にある舞台にはカラオケマシンまである。
既に空いた瓶が入口に無造作に並べられていた。──少し遅れてしまった。
部屋にある六台の机の中の一つから柔らかい声が響いた。サークル長──緋山さんの声である。
「はろう、
彼女の座卓の周りは女性ばかりだった。緋山さんは隣の女性の頭を撫でながら、僕を歓迎した。
「来ると思って無かったよ!席は空いてるから、好きなとこに座りいな」
好きなとこに座れ。
緋山さんの台詞を脳内で反芻しながら会場を見渡す。顔見知りは緋山さん以外には見つからない。水無月も棟方も居なかった。
早くも帰りたくなってきた。
「やっぱり、帰ろうかな」僕がそう口にする瞬間。
肩を撫でられた。振り返ると、アイツがいた。
「先輩、お久しぶりです」
僕は半ば反射的に挨拶を返した。その相手は
一つ歳下の同じ高校出身の後輩。記憶違いが無ければ一年振りの巡り合いだが、彼女を忘れた筈も無い。
肌は屍人のように青白い、瓜実顔。
前髪はふわりと下ろしたショートカット。目許は少し気怠そうに垂れた切れ長の目。首元で切り抜かれたスクエアネックのニットは、細身の彼女によく似合う。そこから黒く長いスキニーパンツが伸びていて、これもまた似合っている。
大人っぽい。
僕はそう思った。
ファッションもすっかり変わって、背も少し伸びたような気がする。
──可愛いな。
彼女に対する恐怖を露わにしないように僕は、出来る限り平静を装って声を喉から絞り出した。
「新歓される側にしては、随分かっこ可愛い服だな」
よく分からない事を口走った僕を、四尾土は右手の人差し指と中指を自身の顎に添えて笑う。
「そうですか?」
「……そうだ」
「それで?」
「大人になったなぁって話だよ。四尾土」
「ナルホド。まあまだ、私は成人してないですよ?ガキなんです。先輩は成人しましたよね、成人式には来ませんでしたけど、理由も教えてくれないし」
「ちょっと忙しかったんだよ」
「へいへい、さいですか」
軽口を交わした後、四尾土が僕の肩を掴んだ。「先輩、席が決まっていないなら、私の隣どうですか?それと、聞きたいことがあって。大学一年生って成人してない──いえ、お酒飲めないですよね?」
「そうだな」
「そうですよね?」
「うん」
「まあ、良いです。一緒にタコわさ食べましょうよ」
「ごめん、帰ろうと思ってて」
「体調、悪いんですか?」
「うん」
「心配なんで付き添いますよ」
四尾土は笑って、僕の肩に人差し指を添える。僕は目を閉じた。
「ね?」
瞼の裏に張り付いたその笑顔が。
悍ましくて、堪らない。
■
雨の中の大通りを全速力で駆けていた。それは道のド真ん中、エンジンを鳴らして走る車の間を走っていた。Tシャツが雨滴と汗でしとどに濡れていて、肌に張り付きうざったい。加えて身体の芯が物凄く冷たい──これはアイツのせいだ。
脳味噌を穿れば、きちんと記憶があった。緋山さんに断ってから宴会場から飛び出した。右手には、彼が心配しながら渡してきた缶ビールが嵌っている。
──おい、体調不良者に酒を与えるなよ。
そう、軽口が浮かぶ程には頭が冷えてきたらしい。
大通りの真ん中を走るのをやめて、車を避けては歩道まで歩き、山幣ビルの壁面に背中を預けて座り込んだ。
喉が渇いていたから、頂く事にしよう。
緋山さんを心の中で拝みつつ、アルミ缶のブルタブを開く。小さな破裂音がして、中から白い泡が勢いよく飛び出し、顔いっぱいに浴びる事となる。走っている間に、内圧が溜まっているかどうかなんて考慮していなかった。
踏んだり蹴ったりだ。
やり場のない感情が全身を熱くする。
傘を持ったスーツ姿の往来人の向けてくる視線が痛い。中身が半分以下になった酒を喉に流し込む僕の姿を見て、彼らは顔を顰めて僕から目を背ける。
その態度に、理不尽だが体の芯が熱くなる。
そして、相反して冷静になった頭が、アイツを絵に描き始める。
僕は空き缶を傍に放り投げて頭を抱えた。
「すみません、すみません、すみません」
誰に謝っているのかも分からない、この声は誰の声だろうか。僕の声だ。
今度は胃袋が跳ねてきた。気持ち悪い。
咄嗟に立ち上がる。何処かで吐かなければいけない。
コンビニは嫌だ。トイレを借りれば、吐けるが店員に説明なんてしたくない。だからと言って、吐くだけ吐いて逃げるのは駄目。吐き捨てるなら、混凝土の上だ。それならば説明は要らない。掃除は面倒だが、吐き逃げる人間も多いのだ──掃除ぐらい誰かがやるだろう。
最低だ。
こめかみの疼きと耳鳴りを堪え、左手で空き缶を握り、右手で口許を抑えながら、電灯の下を早足で歩き、ビルの間から都合の良い路地を探す。人気のない路地裏を探す。
奇しくも、人がいる。どの曲がり角の先にも、通行人が歩いている。
我慢できなくなって。建物と建物の間、なるべく壁際に寄って、その場でしゃがみ込んで。体内から固形物の混じった胃液を吐き出す。
黒い混凝土の上に、白いの油絵が描かれた。ところどころ赤や黄色のだまがあって、更に吐き気を催す。吐き出す。異臭が地面の土の匂いと混ざった。咽喉には酸味だけが飽和する。
酒が原因で吐いたのは、昨年の新歓コンパ以来だ。あの先輩に無理矢理飲まされた。あの時は単なる飲み過ぎだったが今回は違う。
「──先輩、大丈夫ですかぁ?」
表通りの方から、電灯を逆光にして顕れるシルエット。
──コイツが原因だ。
「そんなに睨まないでくださいよぉ。先ッ輩?」
「すみません」
語尾を吊り上げつつ四尾土は、やはり薄ら笑いを浮かべている。
「先輩が心配で心配で、心配で。見に来てあげたんですから」
「すみません」口から出る言葉は、何かのアレルギー反応と同じで僕自身には止められない。
「私が、とっても、とーっても楽しみにしていた新歓コンパ。抜けてきてあげたんですからあ」「すみません」
甘ったるい声でつらつらと語りながら、肩に掛けたトートバッグから水の入ったボトルを取り出して、こちらの方に投げてくれた。もちゃん、と水が音を鳴らして地面に転がる。
四尾土を睨みつけながら僕は、それを拾い上げて、中身を身体に流し込む。
一息ついて正気付く。いや、マシになった。
僕は黒い地面に座っていて。右隣には、いつの間にかしゃがみ込んで、此方を伺う四尾土の顔。
細い眉に、外灯の明かりを受けて艶めく白い肌。奥二重の切れ長の目が更に細くなって、気味の悪い笑みを浮かべて。長い睫毛の下の淀んだ目で、嘲笑うかのように僕を捉えている。僕は彼女から目を逸らした。そして、視線を吐瀉物に戻す。
二人で並んで、吐瀉物を眺めると何か感慨深いものがあった。
「イヤ、ないでしょ。何も感慨深くない。先輩、頭大丈夫ですか」
「すみません」
「いいですよ。そんなに謝らないで下さい」
「すみません」
「あ、思い出した。あの時も……一緒にゲロ眺めてましたね。缶ビール万引きして。飲んで、吐きましたね?」
「すみません」
「いやぁ、懐かしいなぁ。やっぱり、感慨深いなぁ。──じゃあ。まだ出るでしょう?」
耳元で甘く囁きながら四尾土は、僕の背中を優しく摩ってくれる。嘔吐く僕の視界には彼女のヒールが見えた。
「……出る?」
「すみません」
彼女に汚物がかからないように、少し距離をとって、四つん這いになる。
先刻の水ごと、もう一度吐き出す。なるべく、先の油絵の上に被せるように垂らす。
四尾土の水で咽喉内を洗っては、又地面に零す。
「遅い」
耳許で四尾土の声。僕の口に彼女の指が入ってくる。そのまま穿られた。
胃液の酸味が得体の知れない下水の匂いと混ざって、鼻に刺さる。
嗚咽しても、もう何も出ない。
胃袋を空にする作業は、気持ちが楽になる。一歩間違えればクセになる程に。
僕が総て吐き出したのを認めて、四尾土が笑った。
「全部出せましたか?そうやって何度も吐いて、私に。辛がりアピ、してくださいね?」
優しく背中を撫でられ、僕は躾られた後の赤子のように頷いた。
「すみません」
すると、顎に手を添えて四尾土は、心底幸せそうな笑みを浮かべた。
「それじゃ、おうちにかえりましょう。ね?」
結.絶対苦戦先輩敗戦 狐木花ナイリ @turbo-foxing
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