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 ようやく泣くことのできたサクは、少しだけ眠った。まだ夢現で微睡む中、自分と位置の変わったニナが椅子に腰かけ、本を読んでいる姿が目に入った。彼女の目もほんのり赤く、泣いた痕跡があった。

 慰めてベッドを譲ってくれたニナは、サクが目を覚ましていることに気が付くと、本をテーブルにおいてキッチンに立った。サクは身を起こし、彼女が新しく入れてくれた紅茶を今度はそっと口に運ぶ。身体に収まる紅茶の温みに、ほっと息をついた。

「サクは、ずっと泣きたかったんですね」

「ごめん、ニナ」

「謝らないでください」

 彼女の言う通りかもしれない。自分は想いを心に溜めすぎて、それがよからぬ想像を生んでいた。もう、悪い夢に脅かされたりするものか。カップを置いて、サクは軽く目を擦る。

「帰って眠りますか」

「眠いわけじゃないんだ。まだ就寝時間じゃないし」

「それなら、少しだけ外に行きませんか。……あっ、外といっても、もちろんシェルターの外じゃないですよ。でも、あなたには懐かしいものかもしれません」

 不思議に思いつつ、サクはベッドから下りた。また今度、ミオとゆっくり話をしよう。そう思い、携帯電話を袋にしまった。

 ニナに連れられたのは、居住区のほぼ中央にある吹き抜けだった。地下三十五階と三十四階を貫く円柱型のスペースがあり、床には人工の芝生が敷いてある。住民たちがめいめい腰を下ろし、嬉しそうに天井を見上げている。

 ニナの横でサクも同じく天井に目をやり、納得した。彼女が言うには、現在の空と同じ映像が反映されているらしい。シェルター外に広がる夜空を、地下深くから見ることができるのだ。

 ぴかぴかと数えきれない星々が輝き、少し欠けた月が一つ浮かんでいる。プラネタリウムを訪れた誰もが、はしゃいだ笑みを見せていた。

 まさか地面の下に星空を作るとは。サクはこの施設に感嘆はしたが、感動はしなかった。どうも作り物めいた夜空は、焚き火のそばから眺める光景とは全くの別物だ。本物の星にはとても手は届かないが、ここではフロアを上がれば天上さえ超えられる。

 だが、「綺麗ですね」と喜ぶニナに、サクは頷いた。もっと綺麗なものを知っていると水を差すのはあまりにひどい。人工芝の上に座り、しばらく作り物の星空を眺めた。

「サクは、本物の星空を知っているんですよね」

「……うん」

「これより綺麗なんでしょうか」

「そう、思うけど」

 歯切れの悪い彼に、ニナは羨望のため息をつく。その瞳はじっと天井の星を見つめ、偽物の夜に浸っていた。これは彼女にとって偽でもなんでもない、本物の空なのだろう。

 いつか、シェルターの外に広がる星空を見せたい。並んで膝を抱える彼女の瞳に、煌めく人工の星を見てサクは思った。プラネタリウムで喜ぶニナが、本当に遠くで輝く星の光を見れば、どんな顔をして何を言うだろう。その様子を隣りで見て聞いてみたい。

「いつか、ニナも見られるよ」

 サクの言葉に、彼女は戸惑いながら一つ頷く。

「そうなればいいですね」

「ワクチンができて、リーパーに負けないようになれば、防護服がなくても外に出られる」

「けれど、もしも残った異形や獣が現れても、私は銃を撃てません」

「僕が倒すよ。少しは慣れてるんだ」

 驚きに見張った目を、ニナがこちらに向ける。何かを言うかと思ったが、彼女は口を少し開けて閉じて、結局頷いた。次第に笑みが広がり、もう一度大きく頷いた。

「その時は、お願いします。私、あなたのように外に出てみたいんです。防護服なんて着ないで、フィルター越しじゃない空気を吸ってみたい」

 思わぬところで、やることができた。いつか、ニナを安全に外に連れて行き、満天の星空を見せる。

「それがお返しになるなら」

「お返しとは」

「ずっと協力してくれただろ。あの爆発事件の時から。正直、なんでこんなに協力してくれるのか不思議だったんだ」

 彼女にそんな義理はないはずだ。サクの言葉にニナは少しの間を空け、噛み締めるように言葉を選ぶ。

「サクは、希望だからです」天井の星を見上げる。「私たち……少なくとも私にとって、身一つで外に出て生きるというのは、夢のまた夢です。こうして地下に潜っていても、リーパーに耐性のない人たちが感染するのを見てきたし、彼らは今も隔離されています。私の知る人も、何人も亡くなりました。私自身、いつ彼らと同じ道を辿るか、戦々恐々としています」

 空の星から、思い詰めた眼差しをサクに移す。

「防護服を着ないまま、リーパーの脅威にも晒されず、太陽や星空の下を自由に歩けるあなたの存在は、私にとっての希望です。いつかサクみたいに生きてみたいと思っていたから、あなたが絶望するのを見ていられなかった」

 自分の当然は、彼らの当然ではない。だからこそあらゆる人に妬まれてきたが、超耐性の恩恵はそれだけ大きいことを意味している。

「サクの同居人も、心配していましたよ」

 いたずらっぽい表情に最初は合点がいかなかったが、それがムジだと気付くと驚きが湧いた。

「ムジが、僕を?」

「自分の証言でサクが疑われて、重い処罰を受けることになるかもしれない。後味の悪い後悔があったからこそ、私にも話をしてくれたんです」

「全然気付かなかった」

 まさかムジがそう思っていただなんて、微塵も想像しなかった。くすくすと笑う彼女は、「それに」と囁いて少し迷うそぶりを見せたが、やがて決意したように口を開く。

「それに、協力したいと思ったのは、あなたが嘗て言ったことにもひどく共感したからです。今あるものの中で、頑張るしかない。その通りだと思いました。持って生まれなかったことを悔やんでも仕方が無い、だからこれからも、自分にできることをしようと思いました」

「あれは、僕の台詞じゃないよ。カイが教えてくれたんだ」

 ニナははっとし、表情を緩めた。少しだけ泣きそうな風にもサクには見えた。

「あなたたちは、本当に良い旅をしていたんですね」

 彼女の希望は叶えなければならない。サクは強く思い、紛いものの月を見上げた。

「サク、待っていてください。いつか私も、同じ場所に立ちます。その時は……」

「うん。その時は、僕が隣にいる。ニナが空に飽きるまで、近づく敵はすべて倒す」

 少し欠けた月を見て、思い出す。あの夜、彼が言ったことを。

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