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 疑惑が晴れても、サクにその実感はない。どこかぼんやりした気分で、数日ぶりに留置所の外に出た。とはいえ変わらぬ地面の中、気持ちが晴れることはなく、呆然とした心持ちでいた。

 旅の話を聞かせてほしいとニナに言われ、彼女の元に行く前に、自分の荷物を久々に取り出した。残った数少ない物は自室のロッカーに入れっぱなしで、一年の間、手に取ることさえなかった。だが、ニナに頼まれれば無下に断るのもよくないと思い、小さな袋を一つ手にエレベーターに乗った。

 三日の休暇を与えられたサクは、地下三十五階でニナと顔を合わせた。入り組んだ通路を歩きながら、サクはほんの二日前の会議のことを思い出す。シズの裏切りが判明するまで、彼女は懸命に自分を擁護し周囲を説得するべく尽力してくれていた。

「ありがとう、ニナ。僕を庇ってくれて」

 前を向いて歩きながらの台詞に、隣りを歩く彼女は「気にしないでください」と言う。

「私が、勝手にやったことなので」

「それでも……」

「結局は、力及ばずでしたから」

 微笑むが、サクにはとてもそうとは思えない。一画にあるドアを開錠し、彼女は中に入るよう促した。

 シェルター内のどこにでもある簡素な部屋が、彼女の生活するスペースだった。ダイニングキッチンと寝室、風呂、手洗い場があるだけだ。寝室の椅子を勧められ座って待っていると、彼女は紅茶を注いだカップを載せた盆を運び、正面の小さなテーブルに置いた。自分はベッドの隅に座り、カップにそっと口をつける。

「……ごめんなさい。せっかくのお休みなのに、こんなところに連れてきて」

 カップに手をつけないサクを、心配そうに彼女はうかがう。サクは首を振って否定するが、心ここにあらずの状態は変わりなかった。

「旅の話を、するんだったよね」

「気分が乗らないなら、無理しなくても……」

「無理なんかしてないよ」

「顔色が悪いです。会議の前と変わらないぐらい。……今も、悩んでることがあるんでしょうか」

 悩みなんかない。サクはぽつりと呟いた。もう、悩むことなどあるはずがない。

「それなら、どうしてそんな顔をしているんですか」

「そんなって」

「もしかして……希望を失ったからですか」

 希望なんて、最初からない。そう言いかけたのを飲み込んだ。仇討ちが生きる希望だった。それが生きる目的だった。本当は裏切者として疑われることなど、大した問題ではなかったのだ。カイを殺した相手を殺せなかった時から、心の中に大きな空白が生まれた。その空白には、どんな仕打ちも気にならないほどの諦観や絶望が詰まり、自分の痛覚を麻痺させている。

「わからないんだ。ただ、僕はもう、何もしたくない。大事な人を死なせた僕は、何もするべきじゃない」

 両手を添えたカップを膝の上に置き、ニナは辛そうに顔を歪める。

「あの時言っていた、カイという人のことですね」

「カイは、僕よりずっと強くて優しい人間だった。生き続けないといけない人だった」

 考えると、痺れた心が僅かに軋む。その軋みは痛烈な痛みに変わり、自分がまだ生きている証拠だとも思える。そんな自傷行為を、イブキの手を拒んだあの晩から、延々と続けている。

「どうしてだろう。どうして、僕が生き残ったんだろう。たった一人の大事な人を、どうして死なせてしまったんだろう」

 頭の中を堂々巡りする想いが、口からぽろぽろと零れ落ちる。床に降り積もる言葉が水たまりのように形を成す錯覚が見えた。

「最初から、カイに会ってはいけなかったのかもしれない。僕はあの時、炎と異形に殺されるはずだった。助けられた後も彼の優しさに甘えて、ずっと足を引っ張ってばかりだった」

 ひどい考えだと分かっているのに、止められない。自分を救ってくれた彼の優しさを無に帰すような言葉だ。あんまりだと思う。それなのに、弱い自分に対する後悔は潰えない。

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