16
引き金を引いたつもりが、指が動いていなかった。
サクは何度も深い呼吸を繰り返し、必死に冷静さを取り戻そうとした。人差し指に力を入れるだけでいい。一年の間、この瞬間をずっと待ち続けていたのだ。
こいつがカイを殺した。何の罪もない彼を死に至らしめた。やらねばならない。カイの仇を討たなければいけない。
だが、どうやっても引き金が引けなかった。方法はわかっているのに、その力はあるはずなのに、手が動かない。自分の中心で恐怖が揺れているのがわかった。人を殺す恐怖。殺人を犯してしまう恐怖。初めての恐ろしさが、右手の動きを封じていた。
異形化しかけた人間を殺したことはある。だがそれも、局が既に人ではないと判断した相手だった。自分が殺したのは人ではない。そう思うことで責任を逃れ、これは人殺しではないと意識していた。
旅の途中でも必要があるときは、カイがその役割を買ってくれた。自分はただ弱さに甘え、彼に全てを任せるだけだった。誰一人殺すことなく、カイに頼りっぱなしだった。
この引き金を引けば、何かが壊れて戻らなくなる。目の前の頭部が弾け、白い骨と脳漿が散らばり、真っ赤な鮮血が噴き出す想像までできる。散々望んだ光景のはずなのに、最後の一歩が踏み出せない。
身体が傾ぎ、サクは背を硬い床に打ち付けた。天井を向いた銃口からあらぬ方向に銃弾が発射する。突き倒されたと気付いた時には、男の右手が自分の手から拳銃を奪おうとしていた。
三度の発砲音と共に、男の頭が破裂した。
サクはその光景に目を見張った。何度も想像した人間の最期の光景は、想像とは全く異なるものだった。男の身体は血を流さず、白い骨も零れる脳漿も存在しなかった。
銀色の金属が、頭部を失った身体からはみだしていた。
床に腰を落としたまま振り向くと、隣室との境に、ドアを開けてイブキが立っていた。彼の持つ拳銃からは細い煙が上がっている。
「イブキ……これは、どういうことだ……」
理解の追い付かないサクを、イブキは静かに見下ろす。
「見ての通りだよ」
「こいつは人間じゃない……機械だったってこと」
「アンドロイドだ」
もう一度、サクは頭のない死体に目をやった。死体と呼ぶのはおかしい、壊れた機械が力なく壁にもたれかかっている。切れて飛び出したコードから小さな火花が上がり、床には金属の破片や部品が散らばっていた。
人間にしか見えなかった。だが、ニナに見せてもらった研究所のアンドロイドを思い出す。皮を被れば確実に人間と見紛うアンドロイドは、人と同等の会話さえこなしていた。
驚愕と共に、絶望的な落胆がサクを襲った。
カイを殺したのは、人間ですらなかった。人に作られた機械にカイは殺され、自分は銃の引き金を引くことができなかった。結局、仇は討てなかった。
いったいこの一年、何をしていたんだ。こんな終わり方のために、シェルターに戻って利用されていたのか。
「きっとサクは仇の居場所を探り当てると踏んでいた。こいつは呑気に寝ていたがな」
イブキが壊れた機械に顎をしゃくる。サクはふらつきながらやっとの思いで立ち上がった。
「仇討ちは出来なかったが、許してくれ。俺が撃たなければ、こいつは反撃していた。明日になれば終わる運命と知っていても、逆らいたくなるものらしい。ロボットのくせに、ご立派なことだ」
「僕は、いったい……」
手から拳銃が滑り落ちる。イブキに助けてもらったという感謝の念など微塵も感じない。この一年は無駄に終わった。カイを殺した相手を殺すという望みは叶わなかった。そして、全ての未来はその上に成り立っている。僅かに開いた道が閉ざされ、前後も左右もわからない真っ暗闇に立ち尽くしているようだった。
いったい、何をしていたんだろう。これからいったい、どうすればいいんだろう。
「サク、俺たちと来てくれ」歩み寄るイブキが部屋の中央に立つ。「そのために、俺はここに来たんだ」
呆然として彼を見やるサクの耳に、ざわめきが近づいてきた。銃声を聞きつけた者が通報したに違いない。たちまち玄関ドアを蹴破る音がし、隣りの部屋から銃を持った警官隊がなだれ込んでくる。
警官隊である彼らには、超耐性であり爆発事件の容疑がかかっているサクの顔は知られていた。彼が見知らぬ男と向かい合い、その足元に壊れたアンドロイドが転がっている光景に、明らかに戸惑っていた。
「銃を捨てて手を上げろ!」
一人が未だに拳銃を手に持っているイブキに怒鳴りつける。対するイブキはため息を吐いて、自分の銃を腰のホルスターに挿した。
「おい、捨てろと言っている!」
「俺は反対派のリーダーとして、仲間を迎えに来ただけだよ」イブキはサクに視線をやった。
部屋一帯に一層の緊張が走るのを、サクは呆然とした気持ちで眺めていた。事態が自分にとって最悪の方向に進んでいるのを、ただ見ているだけだった。
「先日の爆破事件では、よく働いてくれたよ」
それでも身が強張るのを感じた。今すぐ彼の口を塞ぎたかったが、身動きすればたちまち警官隊に撃たれてしまうだろう。「ちがう……」と情けなく掠れた声だけが零れた。
「やはり、こいつは一枚噛んでいたんだな」
「聞きたいことは山ほどある。貴様ら二人とも、銃を捨てて床に伏せろ」
どうするとでも問いたげな視線をイブキが送るのに、サクは何も言えなかった。彼の仕草は、まるで仲間に目配せをするようだった。
命令を無視し、イブキの右手がこちらへ差し出される。最後の答えを迫られていることをサクは理解した。爆発事件の犯人として吊るし上げられるか、シェルターを出て局に反対する活動に身を投じるか。
この場から逃れるには、後者しか助かる方法はない。
だが、サクにはイブキの仲間になる気はなかった。イブキは自分が欲しいのではなく、超耐性の駒が欲しいだけだ。それに、カイならきっと手を握らない。窮地を逃れるためだけに、自身の願望を叶えるべく他人を犠牲にするような道は選ばない。
サクは手を取らず、真っ直ぐに彼を見据えて言い放った。
「僕は、行かない」
僅かに歪んだイブキの顔には、驚きと悔しさだけでなく、些かの憐憫も含まれているように見えた。
ふっと部屋の電気が消えた。天井の常夜灯とスタンドのライトが暗闇を招いた。「撃つな!」と怒号が飛ぶ。下手に撃てば誰に当たるかわからない。強力な懐中電灯が咄嗟にあちこちを照らすが、それがどこを向いてもイブキの姿はなかった。
「これからは、敵だ」
サイドテーブルを蹴ってダクトに潜り込む直前、自分だけにしか聞こえない声でイブキが囁いたのを聞いた。
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